運命。
その言葉を口にするたび、兄は皮肉めいた笑みを浮かべていたように思う。
運命というものがもしあるとして、それなら、この出会いも運命の範疇に含まれるのだろうか。
野外音楽堂から無断で借用している店に辿り着くまでの間に、ハルと再会した。
しかも、立て続けに二度。
九段下で別れて、水道橋で再び顔を合わせたときには、流石にお互い苦笑いで、ハルは半ば観念したように、ポツポツと自分の話を語り聞かせてくれた。
運命に翻弄されるような日々、荒み、堕ちて行く中から拾い上げてくれた、心から信頼できる人との出会い、そして、別れ。
アヤという恩人の名を呼ぶとき、ハルの声や表情に愛しさが満ちていた。
それだけで十分伝わってくる、ハルにとって、アヤがどれ程かけがえのない存在であるか、分かる。
ハルはいなくなったアヤを探し続けているらしい。
「音楽の勉強で海外にいるんだってさ―――少なくとも、ジンからはそう聞いてる」
納得入っていない口調だった、どういう意味なのだろう。
けれどハルはさっさと話を切り上げて、飄々とした雰囲気と共にまたどこかへ行ってしまった。
アヤのためなら命など惜しく無いと呟いていた、思い詰めたような横顔が蘇ってくる。
(案外、情熱的なんだ)
普段の彼女からはあまり想像できないけれど、そういえば、封鎖の一日目、不安に駆られる人々を歌で勇気付けようとしていた、あれこそが本質なのだろうか。
椅子に掛けて、COMPから呼び出した以前のメールを読み返している。
昨日、今日と、直哉からの連絡はない。
勿論生きているだろう、つい数時間前に姿を見たばかりだし、その時、特に怪我をしている様子も、具合が悪そうにも見えなかったと、篤郎から聞いた。
何より、あの兄ならば、この状況下でも自分よりずっとうまく立ち回っているはずだ。
もしかしたら空調の効いた部屋で、宇治金時でも食べているかもしれない。
そう考えると何だか腹立たしい。
すぐ、バカバカしいなと首を振って、屋内に視線を巡らせた。
向こうで風呂と洗濯を済ませた篤郎と柚子がわあわあ言い合いながら、テーブルを避けて作ったスペースで、悪魔の力を利用して、濡れた衣服を乾かしている。
圭介が傍らでしきりに感心していて、それが少しおかしかった。
とても快適とは言えないけれど、ほんの一時、垣間見える日常の面影が、不安と緊張に凝り固まった心を解し、癒しを与えてくれる。
悪魔と戦うなんてとても無理だ。
そんな事を考えていた自分が既に懐かしい。
今は、生きるため、明日に命を繋ぐため、抵抗なく悪魔を利用し、悪魔と戦い、人すら倒した。
昨日、東京タワーの傍で遭遇した、COMPを使いよからぬ事を企んでいた、柄の悪そうな連中。
多分―――今後、更にああいった輩は増えていくだろう。
何となく予感があった、破壊された街並みと人の手による強奪、暴動、悪魔だけが脅威とは限らない。
(何なんだろうな、これ)
今朝からずっと心がざわついている。
上手く表現できないけれど、何か落ち着かない、けれど理由がわからない。
幼い頃の自分と、兄の夢。
何故、今更そんなものを見た?
読み返しているメールは兄からのものだ。
素っ気ない文面のあちこちに、思いやりと気遣いが見て取れる。
誰よりも優秀で、有能で、他の追随を許さない、特別な兄。
その兄から特別に想われることは和哉にとって無上の喜びと、誇りに繋がっていた。
あの頃の和哉なら、やり様によっては、兄弟というより、主従や、隷属の様な関係も築けただろう。
しかし、そうはならなかった。
和哉が直哉と精神面で比較的健全な距離を保ち続けてこられたのは、他でもない、直哉がそうあるべきと振舞っていたからだ。
幼い頃の和哉にとって、直哉は世界と同義か、それ以上の存在だった。
それだけ多くを直哉から与えられた。
兄が真実、どのような想いを弟に抱いていたかまでは、流石に分からない。
けれど和哉が確かに受け取ったと思っているもの、絶えず注がれていたもの、それは、愛だ、疑いようもない。
しかし兄は、それだけ手塩にかけて育て上げた弟の傍を、あっさり離れた。
僅かな期間で戻ってきたけれど、二度と以前のように接することは無くなった。
自らの意志で歩け、進む先を見極めろ、そう言い放つかのように手を離し、背を向けたのだった。
お陰で和哉は無事兄離れができて、直哉の今まで見えていなかったさまざまな面を知り、木原篤郎というかけがえのない友人まで獲得できたけれど、それでもやはり、変わらない。
変わりようがない。
蓮見直哉は、いまだもって、蓮見和哉にとって、特別な存在であり続けている。
その直哉をやたら想う。
妙な気配が背後で蠢く。
何だ、この、嵐の前の予感のように、落ち着かない気配は一体なんだ?
蟠りは解けないまま、更に胸の奥でジワリと広がったような気がして、和哉は目を閉じた。
指先でCOMPの電源を落とすと、画面を閉じて膝の上に乗せる。
椅子の背凭れに体を預けて、肩越しに瞼を押し上げた視界に、乾いた服を持ってくる篤郎の姿を見つけた。
「お前、いい身分だよなぁ」
呆れ顔尾篤郎に和哉はニコリと笑い返す。
「お陰様で、アツロウがオレのために色々してくれるから、有難う」
「はいはい、そーやって笑顔で全部チャラにしやがるんだよな、ホント性質悪いぜ」
膝の上に服を放り投げてきた腕を捕まえて、僅かに引寄せながら「お礼のキスする?」と囁いた。
篤郎は即座に耳まで赤くなりながら小声でバカと唸り、間を置いて、今はまずい、と付け足した。
和哉はクスクス笑いながら手を離して、じゃあ後で、と、嫣然と笑いかけてやる。
「お前って」
「ん?」
「本当に―――性質悪ィ」
ふらりと戻った先で、圭介から顔が赤いと指摘されて、篤郎は必死で暑いからだと誤魔化していた。
噴出しそうになるのを堪えて、洗い立てのシャツを手に取る。
仄かな石鹸の香りがフワリと立ち上った。
絶対にこっち来ないでよ、来たら殺す。
物騒な台詞と共に店の奥に篭った柚子が着替えを済ませる間に、和哉たちも身支度を済ませて、今後の予定を少しだけ相談しておいた。
戻ってきた柚子を伴って店から一歩踏み出すと、アスファルトの照り返しで発生した熱がブワッと全身を包まれる。
同時に汗が噴出して、拭いながら柚子が次はどこに行くのと尋ねてきた。
「とりあえず池袋、ミドリを探そう」
「ベル・デルの情報と一緒にな、闇雲に歩き回っても仕方ないし、片っ方はまだ何もつかめてないからさ、なら、確実なのと同時進行で進めた方が手っ取り早いんじゃないかってな」
「ミドリちゃんは多分、そんなにあちこち移動していないと思うんだ、それにさっきの男がいた新宿界隈をもう一度あたってみるのもいいと思って」
「えっ、さっきのって、またあの変態に会うつもりなの?」
「いや、別にそうとは」
「ダメ!」
凄む柚子に、圭介が気圧されている。
「絶対にダメ、あんな奴、もう二度と会わなくていい!」
和哉は篤郎と顔を見合わせて、思わずクスクスと笑ってしまった。
「ちょっと、レン!何で笑うの?さっきアイツに何されたか」
「大丈夫、今度は警戒するから」
「でも」
「ユズじゃなくて、オレで良かった、だってユズは女の子だし」
「それは、だけど!」
余計ダメなの、と、言葉の意味がわからなくて、和哉はきょとんとしてしまう。
篤郎が苦笑いを浮かべて、圭介も、意味深な表情で黙り込んでしまった。
「とにかく、池袋に向かおう」
むくれる柚子に言い聞かせて歩き出す。
真夏の太陽が、正午を過ぎたばかりの空から燦々と照りつけていた。
*****
木陰に青年が一人、幹に凭れるようにして、手の中の小さな機械を覗き込んでいる。
コミュニケイションプレイヤー、通称COMP
総合端末として優秀な性能を有し、ゲームに留まらず、インターネットツールとしても活用されている。
しかし、彼の持つCOMPの小型液晶に映し出されているものは、ゲームでもインターネット画面でもなかった。
様々な数値とバイタルサイン。
本体に接続したイヤホンから聞こえてくる何かを聞きながら、画面に表示された様々な数字や、絶えず湾曲を繰り返すラインに時折指先で触れて、愛しげに瞳を眇める。
17年。
手塩にかけて育て上げた最高傑作。
常に想定以上の結果を叩き出す、誇らしくも恐ろしい、最愛の者。
二度と手放すものかと何度天に咆えただろう。
そして、何度、無情な手に奪われただろうか。
両手の指ではとても足りない、幾度と無く繰り返された。
(此度こそは)
決意して17年、青年からしてみれば、僅か17年しかかからなかった。
永遠とも思える放浪の日々を経て、こんな極東の島国で、奇跡の様な機会に恵まれるとは。
(だが、まだだ)
青年は未来が如何に不確実か、骨身に滲みて理解していた。
(密に、慎重に、あらゆる可能性を視野に入れ、全ての懸念を取り払わねばなるまい)
そう、これから始まる。
恐らくは今日、初めの狼煙が上げられる。
―――そうでなければ、また、初めからやり直しだ。
これまでの苦労が全て水泡に帰する、そんな結末は見たくない。
青年はCOMPの画面から顔を上げると、目を閉じて思い出していた。
これまでに奪われた多くの姿。
始まりの姿。
そして、今の姿。
どれも愛しく、どれもかけがえない。
愛しいからこそ壊し、愛しいからこそ求め続けた。
今では執着の根がどこにあったのか自分でも分からない、ただ、ひたすらに望み、欲し続けている。
手に入れてもまだ満足できていない、俺は、永遠に渇望し続ける。
それこそが、俺が俺に課した、罪人たる証なのだから。
決して押し付けられたものではない。
神城に刻まれ、背負い込んだ、痛いほどの開墾、気の狂わんばかりの喪失、そして、虚無。
呼ぶ声が幾つも、幾つも聞こえる。
その中から上げられた一際大きな声を聞いて、青年は目を開けると、COMPの液晶に視線を落とした。
あらゆる数値がめまぐるしく変化を始めている―――「遂に始まったか」
しかし、お楽しみはこれから、まだ幕すら上がっていない。
「早々と死んでくれるなよ?」
音声と数値から懸命に抗う様子を察して、そっと画面を撫でた。
今、お前は、一つの運命を乗り越えようとしている。
そしてそれは―――お前にとって、新たな生の始まりに他ならない。
「和哉」
笑みを滲ませる青年の姿を夏風が攫い、枝葉のざわめきが鎮まる頃には、既に人のいた気配すら残っていなかった。
大人の両腕で一抱え程度はある太さの幹を、眩い日差しが燦々と照らす。
池袋駅を挟んだ向こう側、禍々しい光の柱が天を穿つように立ち昇った。
*****
正午過ぎの池袋、東洋アンズ前にて。
ドリーを見つけることは出来たけれど、同時に―――
逃げ惑う人々。
辺りを睥睨し、佇む銀の魔王。
地中から伸びた鎖に四肢を拘束された姿の悪魔を、同時に現れた配下の悪魔が恭しく呼んだ。
ベル・デル様、と―――