風が咆える、猛る、狂ったように吹き荒れる最中、銀色の魔王が高らかに叫ぶ。

「感じる、感じるぞ―――ベルの血を!」

巻き上げられた熱気が肌にぶつかり、猛烈な暑さと、底冷えするような寒さを感じていた。

「クククククッ、このベル・デルの糧となれ!」

頭の中に直接響いてくるような声。

これまでの悪魔と比べ物にならない威圧感を伴い現れた、禍々しい姿。

こいつが、ベル・デル。

不死の悪魔。

震えだしそうな体を必死に押さえ込み、歯を食いしばって、気圧されないよう両足を踏みしめた。

負けては駄目だと本能が告げる。

しかし恐ろしい、無理だと、理性が悲鳴を上げる。

ラプラスメールに記されていた悪魔を目の当たりにして、和哉たちは半ば絶望的な思いに駆られていた。

 

池袋、東洋アンズ前にて。

サンシャイン通りを進む途中、聞こえてきた声を頼りに駆けつけてみれば、悪魔から逃げ惑う民間人と、一人立ち向かおうとしているドリーの姿を見つけた。

止めても聞かない彼女を説得しながら悪魔を倒し、その間に残っていた民間人を全て逃がして、ようやく一段落ついたと胸を撫で下ろした直後、それは訪れてしまった。

地面を突き破り、現れた、幾筋もの鎖。

同時に聳え立つ銀色の巨躯。

恐らくは三メートル、いや、四メートル近いかもしれない。

禍々しい笑みを湛え、邪悪な気配と威圧感を伴う姿は、見ているだけでおぞましくて息が詰まりそうだ。

ベル・デル。

今日、自分達に命の危機をもたらす存在。

18時頃、港区青山、青山霊園、不死の者【ベル・デル】の復活、犠牲者300名以上。

ラプラスメールの文面が脳裏に浮かんだ。

魔王はグルッと周囲を見渡し、近くにいた和哉に目を留めて、笑みを深くした。

篤郎が何か叫んでいる。

グォオオオオオオッッ!

雷の様な咆哮が轟いた。

「忌々しきこの鎖こそが我を暗き冥府へと繋ぎ止める!」

ジャラリと、魔王の両手、両足を縛る、太い鎖が硬質な音を立てた。

あの鎖は何だろう。

出現時には武器のように見えたけれど、どうやら違うようだと、改めて気が付いた。

「人よ」

銀の腕がゆっくりと持ち上げられていく。

「泣け、喚け、叫べ!この魂を、解き放つために、嘆きの世を生み出すのだ―――」

広げた掌から赤い衝撃波が生み出された。

地を舐め、和哉たちに迫り、まるで津波のように全身を呑み込み、通り過ぎていく。

一瞬目の前が暗くなり、体中の力が抜けて、ガクンと膝をついていた。

(なんだ、これ)

背後から、柚子や、篤郎の苦しむ声も聞こえてきた。

ベル・デルは単一のみならず、一定範囲内に存在する全てに対して有効な手段を持っているのか。

ゾッと背筋を寒いものが駆け抜けて、和哉は夢中でスキルを発動させる。

しかし―――無駄だった。

雷は銀色の肌の上を滑り、使役する悪魔達の攻撃も何一つ効果がない。

「ククククッ」

魔王が哂っていた。

「世界と契りし我が肉体、負けるものなど、在りはせぬわ」

そうして伸ばされた指先が和哉を捉える。

命を奪われる―――

 

「レン!」

 

篤郎の声を聞いた。

絶望的な状況で、勇ましく背後から和哉を呼んだ。

即座に振り返ると、既に仲間以外の姿は無く、圭介がドリーを説得しながら、手を引いて必死に駆け出そうとしていた。

柚子も、時折逃げる足を緩めては、不安げにこちらを窺っている。

「逃げるぞ!レン!」

篤郎だけが一人残って、和哉に腕を差し伸べていた。

そうだ、逃げなければ。

弾かれるように走り出した。

魔王は追ってこない。

どうやら出現位置から動けないらしい、やはりあれは拘束具なのだと理解する。

理由は分からないけれど、もしかすると、その辺りに、ベル・デル攻略のヒントが隠されているのかもしれない。

(あれは、今日、倒さなくちゃいけない相手だ)

18時頃、港区青山、青山霊園、不死の者【ベル・デル】の復活、犠牲者300名以上。

今は、まだ昼を少し過ぎたばかり。

時間はある。

この場は引くけれど、敗北したわけではない。

(絶対に負けられないんだ)

不死の者とどうやって戦うのか。

今更、声が脳裏に響き、振り払うように両足に力を篭める。

「大丈夫か、レン!」

「平気」

背後で魔王の笑い声が響いていた。

「フハハハ!どこへ行こうというのだ」

いつのまにか圭介とドリーの姿が見えなくなっている。

柚子の背中も消えていた、三人とも無事に逃げ切れたのだと信じたい。

「さぁ、戦え!出でよ、我が下僕ども!盟約によりて、目覚めるのだっ!」

悪魔達の金切り声が一斉に轟き、迫り来る気配を感じた。

しかし、今は逃げなければ。

更に走る速度を上げる。

早く、早く、早く―――傍で篤郎も懸命に駆けている。

悪意が押し寄せてきた。

もう一波、血潮のような赤い衝撃が通り過ぎた直後、視界がぐらりとぶれて、和哉の足がもつれた。

「レン!」

即座に抱きとめられる。

そのまま、肩を担がれて、運ばれる。

朦朧とした意識の中で、篤郎のどこにこんな力が秘められていたのかと、和哉は心底驚いていた。

引き摺られるように、必死に走り続けて、どれ程経っただろうか。

ビルの路地裏から更に裏へと入り込んで、開けた場所に抜け出た途端、篤郎は倒れこむようにして和哉ごとアスファルトの上に寝転がった。

辺りはひっそりとしていて、少し薄暗い。

けれど何かの気配は感じられない、無論、ベル・デルの気配も消えていた。

逃げ切れたのか。

肌に照り返しの熱を感じながらボンヤリ思う。

見上げた空を、黒々とした高架が横切っていた。

左右に分けられた、抜けるような青が目に染みて、瞼を閉じると篤郎の呼吸だけ聞こえてくる。

「レン」

身じろぎする気配の後、何か腕に触れた。

見上げると覗きこむ篤郎の姿が影になって映る。

「大丈夫か、レン」

「お前こそ」

「へへ、俺は結構平気、こう見えて、体力あるほうだからさ」

「意外だよな、普段引き篭もってるくせに」

「何だと、助けて貰っておいて」

「うん」

手を伸ばして頬に触れた。

「有難う」

心から感謝している。

「アツロウがいなかったら、俺、死んでいたな」

「バカ、何言ってんだ」

「だって」

「死なせねぇし、死なねぇよ」

そっと唇が重ねられる。

暑い。

けれど、心地良い。

「だって、レンは、ナオヤさんの弟じゃん、殺したって死なねぇだろ」

ああ、そうか。

顔を上げた篤郎がニッと笑いかけてくるので、和哉も思わず笑ってしまった。

そうだ、死ねない、まだ死ねない。

誰も死なせない、そう決めた、ラプラスメールの運命を変えるまで、終わるわけにはいかない。

もう一度篤郎を引寄せると、一瞬驚いた顔が見えて、唇が深く重なる。

ためらいがちに口腔内に潜り込んできた舌を絡めとり、熱を伝え合い、水音を立てながら離れると、真っ赤になった篤郎が「ダメだろ」と蕩けた声で囁いた。

「こんな場所で、そんな、情熱的にされちゃったら、我慢できなくなっちゃうだろ」

「生き延びたんだって、実感したかったんだ」

「う、わ、分かるけどさ、でも、今はダメ、それに、ソデコや圭介探さないと」

「ケチ」

「ううっ、可愛いコト言うなよぅ!」

今度は唇にチュッと触れるだけのキスをして、篤郎は体を起こした。

差し伸べられた手を取って和哉も立ち上がる。

ようやく息が整ってきた、それでも、まだ少し足元がふらつく。

「なあ」

「ん?」

和哉は自分の両手を見下ろす。

「さっきの攻撃、あの、赤い衝撃波、アレって」

「ああ、喰らったら貧血みたいになったよな、まさかと思うけど、血でも吸われたのかな」

「怖いな、衝撃波で吸血されたんじゃ、たまったもんじゃない」

「洒落になんねえよ、あれで不死身だっていうんだからふざけてるぜ、なあ、俺たち本当に勝てるのかな」

和哉は空を仰いだ。

雲ひとつない蒼穹。

きっとどこかで、直哉が見ている。

そんな予感が不意に胸を過ぎる。

「勝つさ」

淀みなく言い放つと、間を置いて、お前ホント格好いいよなと篤郎が頬を染めて笑った。

「つくづく惚れ直すよ、まったく、さすが俺らのリーダー様」

「じゃあ、そのリーダー命令ね、アツロウ」

「ん、何?」

「俺はここで少し休んでるから、ユズとケイスケと、ドリーを探してきて」

「マジで?」

うへえと呟いて、篤郎は、渋々COMPを開きながら歩き出す。

「しょうがないなあ、じゃあ、ちょっと近く見てくるから、ここにいろよ」

「うん」

「何かあったら大声出せよ、いいな?」

「女子じゃあるまいし」

「いーの、すぐ駆けつけるからさ、じゃ、ごゆっくり」

篤郎の背中を見送りながら、どういうつもりだと思う。

温い風が髪を揺らして通り過ぎていった。

指先で触れてみると、まだ少し唇が濡れている。

(アツロウが、いてくれて良かった)

篤郎はいい奴だ。

明るくて、楽しくて、気のいいお人好し。

いつだって傍にいてくれる。

さっきも、ギリギリ、呑まれそうになった俺を勇気付けてくれた。

封鎖に巻き込まれてから、もう何度も助けられた、様々な場面が脳裏に蘇ってくる。

(いけないな)

頭を振って、軽く息を吐く。

走馬灯ゴッコしている場合じゃない、とにかく、今は少しでも調子を整えなくては。

噴出してくる汗を拭って、起動させたCOMPからジャックフロストを一匹呼び出した。

雪だるまの妖精だ、コイツで涼をとりつつ見張りをさせて、俺は少し休もう。

『ヒホヒホ、ご主人、顔が青いホ、大丈夫かホ?』

「うん、お前は冷たいね、俺が寝ている間、見張りをお願いできる?」

『任せるヒホ!』

叩いた拳が胸の上でポヨンと弾んで、和哉は僅かに和んだ。

こんな奴ばかりなら悪魔も案外悪くないんじゃないかと、ビルの陰に座り込み、冷気に身を寄せるようにして、ゆっくり目を閉じた。