ヒヤリとした感触が心地良い。

そうだ、子供の頃、熱を出したとき、よくこうして直哉が額に手を当ててくれた。

直哉の手は真夏でもひんやりしていて、触れていると心地良かった。

逆に冬は、体温の高い俺の手で温めてあげたっけ。

直哉はいつも笑って、仕方ないなって顔をしてた。

懐かしいな。

髪を撫でられる。

―――直哉、今、どこにいる?

これでも結構、心配しているんだからな。

ああでも、直哉の事だから、俺に心配なんてされたら、機嫌を悪くするかな。

「お前如きが10年早い」とか言って、でも、俺だって直哉を心配したいんだ。

篤郎の事も心配だな、柚子も、圭介も、翠も、皆心配だ。

ハルはまた悪魔に襲われたりしていないかな。

望月先生はどうしているだろう。

二階堂は?ジンさんは?本多さんは?あの、飯綱とかいう軍人は?

「倒すんだ」

なんとしてでも。

額に何か触れた。

耳元で、そうだ、と、静かな声を聞いた。

「見ているぞ、和哉、お前はきっと、俺の期待に応えてくれる、そう、信じているからな」

直哉?

もう一度髪を撫でられて、気配が遠ざかっていく。

無邪気に見送る声を聞いた。

『お兄さん、アリガト、また来てホ〜』

直哉?

直哉なのか?

どこに行くんだ、直哉、お願い、行かないで直哉、俺の傍に―――

 

雪だるまの悪魔が覗き込んでいた。

額に冷たい手をペタリと乗せられる。

「冷て」

楽しげな笑い声が青空をバックに響いた。

「なあ、今、誰かいなかった?」

『いなかったホ』

「ホントに?」

『ヒホ〜』

雪だるまの口がモゴモゴ動いて、何かゴクンと呑み込む。

何食べていたんだと尋ねようとした矢先、近づいてきた足音が角を曲がって声を上げた。

「うお、あ、悪魔!」

ゆっくり体を起こしながら、違う、と答えて、起動したCOMPで悪魔を送還する。

和哉の傍にホッとした表情の篤郎が近づいてきた。

「涼んでたんだ」

「何だよ、驚かすなよ」

「レン、大丈夫?」

篤郎の背後から柚子が覗く。

圭介とドリーもいた。

頼れる相棒は、無事に仲間を見つけだして、戻ってきた。

安堵するとともに、一人浮かない表情のドリーに気付く。

「俺は平気、皆は?」

傍らに膝をついた柚子が「だいじょうぶっ」と和哉の腕を取った。

「レンも、無事で良かった、すっごい心配したんだよ!」

「ありがとう、ごめん」

「ううん、いいの、ちゃんと全員逃げられて良かったね」

「そうだね」

篤郎も死ぬかと思ったとぼやいている。

圭介はホッとした顔をしていた。

立ち上がりながら、和哉は、今起った出来事を思い返す―――これまでに戦ってきた悪魔達とは確実に異なる存在、あの威圧感、あの恐怖、あの力は、まさに、魔王。

柚子が微かに肩を震わせる。

「あれが、ベル・デル―――あんなの、勝てるワケない」

脇から妙に強気な声が、一応お礼は言っておくけど、と、その声を遮った。

「あんなのアタシ1人で充分だったんだからね!」

和哉はドリーを振り返る。

眼鏡の奥の瞳が、言葉とは裏腹に頼りなく揺れていた。

「次は死んじゃうぞ」

「ミドリちゃん、今からでも遅くないよ、COMPを捨てるんだ」

身じろぎしたドリーを諭すように声をかけた圭介に、ドリーは半身乗り出しながら更に態度を硬化させる。

「何言ってんの!アタシは負けないから!あの不死身の奴だけ相手にしなけりゃいいんでしょ!」

「自分の余命を見てみろ」

「よめい?」

和哉に促されて、ドリーは頭上に視線を向けた。

おぼろげに輝く『1』の数字―――何度見ても見慣れない、違和感ばかり募る。

「キミにも見えるんだろう?」

眼鏡のフレームを押し上げて、レンズ越しに圭介の瞳が眇められた。

「ボクたちや、他の人の頭の上にも、数字が表示されてるはずだ、あれは、その人の余命なんだよ」

「な、何言ってんの?」

「ごめん、話そうとはしたんだけど、キミが聞いてくれないから」

キミの余命は1なんだ、と、圭介は続ける。

「COMPを手にして、人助けをするって決めた時から、その数値になった、だから、今、COMPを捨てれば」

「う、ウソはやめてよね、じゃあ何?アタシは明日、死んじゃうっていうの?」

あからさまに動揺した様子で、ドリーが全身を震わせる。

「アンタたちの数字だって0じゃない!もし本当なら、アンタたちはどうして生きてるのよ!」

「だから、ベル・デルと戦う」

答えた和哉に「何それ!」と叫んで、ドリーは地団太を踏んだ。

まるきり子供だ。

「逃げろとか言っておいて、結局、アイツと戦うんじゃない!もういいよ!アンタたちの言う事なんて、絶対に聞かない!悪い奴らなんて、アタシがみんな倒してやるんだから!」

「ミドリちゃん!」

たまらず、柚子が割り込んでくる。

「さっきの戦いだって、逃げなかったら殺されていたのよ?それに、ベル・デルみたいに不死身の悪魔が他にもいるかもしれない。そうは考えた事ないの?」

「キミは、悪魔の怖さを甘く考えているよ、失敗すれば、命を失ってしまうんだ!」

ドリーは唇をかみ締めて、何かに耐えるような表情を浮かべていた。

「ミドリちゃん、死んでしまってからじゃ、遅いんだよ!」

「だからって―――だからって、助けないでいいっていうの?見殺しにしていいっていうの?」

首を振り、目尻に涙を滲ませる。

今の彼女にどんな言葉も伝わらない。

圭介でさえが、そう、悟ったように言葉を詰まらせた。

「ケースケなんて、キライ!みんな、バカじゃないの!」

クルリと踵を返して、この閉鎖内では妙にしっくりくる、仮装姿の背中が遠ざかっていった。

誰も後を追おうとしない、圭介でさえも、佇んでいる。

和哉はそれを少しだけ不思議に思って眺めていた。

柚子もそうだ、どうして、死なせたくないと言うわりには、少し意見が割れた程度で去っていく相手を見送ることが出来るのだろう。

こんな状況下で、一度見失ってしまったら、次に生きて会える可能性などほぼゼロに等しいのに。

(余命が1だからって、安心できないだろ)

そういえば直哉の余命は幾つなのだろう。

急に不安で体が震える。

ふと振り返ると、目の合った篤郎が困り顔で笑いかけてきた。

途端、僅かに安堵して、俺も現金だな、と、内心苦笑いで和哉は肩を竦める。

「それにしても」

篤郎が話を切り出してくる。

「あのベル・デルって悪魔、やっぱり尋常じゃなさそうだな」

「不死身だし」

「ああ、あの悪魔には、こっちの攻撃が全く通じてなかった、知ってた事とは言え、実際に見せつけられるとウンザリするよ」

対峙した時の恐怖はまだ生々しく胸にあった。

再戦を思うと、暗鬱とした気分は否めない。

「とにかく、カギは、新宿の男に聞いた、ベル・デルを傷つけられる唯一のもの、だ」

不死の存在を傷つけられる唯一のもの。

それは世界のどこかにあるのかもしれないけれど、今、この封鎖内で、都合よく入手できるものだろうか。

「早いトコ、ソイツを見つけだして、ベル・デルとの対決に備えよう」

和哉は、気後れしている自分に活を入れた。

見つけ出せるかどうか、今それは問題じゃない、探すか、探さないか、それだけだ。

「ラプラスメールによれば、奴は18時に青山霊園に現れる、それまでに探し出さないと―――オレたち本当にヤバイぜ」

篤郎の一言に、全員が沈黙する。

時計の針は戻らない、刻限は着実に迫りつつある。

とにかく行動すべきだろう。

しかしその前に体調を整えておいた方がいいかもしれないと、三人の疲れた顔を見て思った。

行こう、と告げて歩き出す、和哉の後から、篤郎、柚子、そして、圭介が続く。

近くを覚えのある気配がそっと通り過ぎていったような、そんな気がしていた。

 

 渋谷、宮下公園、そして品川の千岳寺。

その後、永田町の国会議事堂前まで行って、水道橋、九段下の露天。

何でも物事にはタイミングがあり、それを上手く活用できるかどうかによって、結果は大きく違ってくる。

鳥が空を飛ぶ仕組みや、魚が海を渡る方法と同じで、風を読み、波に乗れば、目的達成など造作もない、それどころか想定以上の成果を上げる事も可能だと、昔兄から教え諭された事がある。

宮下公園で一息入れて、千岳寺に立ち寄った際、切欠は、篤郎から切り出されたCOMPの解析だった。

COMPの解析は、組み込まれている悪魔召喚システムの開発者が直哉である事を考えても、何かしらの有益な情報が詰め込まれている可能性は高いから、いずれ行動を起こしていただろう。

それを、今、この場面で、少しでも情報が欲しいと篤郎が提案した心情も、よく理解できる。

彼らしい手段を選択して、結果、篤郎は、見事想定以上の成果を収めて見せた。

『美しき者、王たる主、ベル・デルの決して傷負うこと無き盟約に、年若きヤドリギのみ契ること能わず』

『古に、災いの者ロキ、彼の者の弟を謀りて、ヤドリギを用い、これを死の国へと落とせしむ』

僅か数分の間にCOMPから引き出された情報だ。

殆ど正解と言ってもいいだろう、和哉は、読み上げた柚子と篤郎を交互に見て「ヤドリギで殺させた?」と首を傾げた。

「間違いないね」

圭介が頷く。

「ヤドリギで殺させたって書いてある」

「それがあれば、ベル・デルを殺せるっていう事なのか?」

「ねぇ、そういえば、新宿で会った変な男の人も、そんな話してなかった?」

「そうだ!」

篤郎が瞳を輝かせる。

「―――ヤドリギだ!早速、探しに行こうぜ!」

新宿で出会った、胡散臭い男の忠告は、これを指していたのだろうと全員一致で合意した。

ベル・デル対策には、ヤドリギ。

まるでゲームのようだ、唯一魔王を傷つけられる勇者の剣、それが無ければ魔王は倒せない。

篤郎たちはヤドリギを知らない様子だったので、それは植物の事だと教えてやった。

何年か前のクリスマス、直哉と一緒に買い求めて、飾り付けに使ったことがある。

ヤドリギの下に立った二人はキスをしなくてはいけない。

飾りつけの間、そんな話を聞かされて、和哉は何度も直哉と唇を重ね合わせた。

胸にくすぐったいような、甘く幼い懐かしい情景。

結局、ヤドリギ、という言葉を暫く聞き込んで回ろう、そういうことになり、行動開始した。

 

それから。

鳥が空を飛ぶように、魚が海を渡るように、様々な情報が引寄せられてくるように手元に集まり―――

 

「17時に国会議事堂、つまり、永田町だね、ヤドリギはそこにある!」

圭介の言葉に頷く。

まるで予定調和のように、呆気なく糸口は見つかった。

誰かが手引きしているのかもしれない、そんな予感が脳裏を過ぎる。

(そういえば、ドリーは今頃どうしているんだろう)

途中、後楽園遊園地で、再びパフォーマンスじみた人助けに興じる彼女を見かけた。

相変わらず主張を曲げる様子も無く、そして、圭介もまた―――去って行く姿を見送るだけだった。

ドリーの頭上の数字は1。

圭介は何がしたいのだろう。

(でも、俺が口を挟むことじゃない、そんなつもりもない)

彼女の事は確かに気懸かりだけれど、今、行動を共にしている、篤郎や柚子と、天秤にかけるまでもない。

生存のための取捨選択だと直哉は頷いてくれるだろうか、けれど、本音を語ったら、篤郎と柚子は俺を冷血だと責めるだろうか。

 

ヤドリギの情報が得ても、何一つ解決しないまま、ジリジリと時間だけが過ぎていく。

誰もがもどかしい気持ちを抱えたまま、池袋の衛国寺近くを通りかかったとき、それは起きてしまった。

 

衛国寺から駆け出してくる数名の男女。

「どうしたんですか!?」

「あ、悪魔だよ!バケモノだ!」

「悪魔!レン、行ってみよう!」

「お、おい!中は危険だぞっ!」

―――今にして思い返せば、篤郎は何か予感していたのかもしれない。

正義感が強いわけでも、積極的でもない彼が、妙に慌てていて、違和感を覚えた。

境内に飛び込んだ途端、向こうから近づいて来る血まみれの男の姿を見つけて、篤郎の足が竦むように止まった。

現実を見極めたくない表情で一瞬視線を彷徨わせた後、見る間に青褪めて駆け出していく。

男が、柱に凭れて足元から崩れるように倒れる途中、広げた両腕で抱きとめながら「10BITさん!」と悲痛な声で叫んだ。

その様子を見て、和哉達はようやく理解したのだった。

男は篤郎の友人だろう。

あだ名で呼びあうような仲なら、恐らくは、密に付き合いのあった人物。

篤郎は親しい相手にあだ名を付ける癖があるけれど、それは、特に懐いて心を許している相手にだけだ。

いつも頼もしい背中が小刻みに震えながら、死にかけた男の顔を覗き込んでいる。

「待ってて下さい!今、助けを!」

「ムダだ―――もう助からない―――だけど最後にキミに会えて―――ほ、本当に良かった」

「10BITさん!何を言っているんですか!」

「い、いいんだ―――それより、キミに話がある」

血まみれの手がシャツの内側に入り込んだ。

元は白かったはずのシャツは殆ど赤く染まっていて、床にもじんわりと血溜りが広がりつつある。

「政府はとんでもない事実を隠してるぞ、そのために私は追われ、家に戻れない生活をする羽目になった」

「一体それは」

「し、知り合いのジャーナリストが―――私に、あるファイルを預けて失踪した―――その理由を探って―――私も同じ目に遭った、彼のファイルはここにないが、私が発見した事実だけは―――このCOMPの中にある」

ゆっくり引き抜かれた手の中に、一台のCOMPが握られてあった。

あちこち亀裂が入って、煤けてもいる、全体的に男の血で赤黒く染まっていた。

彼も、恐らくは、このCOMPで悪魔を使役して、今日までどうにか命を繋いできたのだろう。

「これを、キミに―――パスワードは―――私の」

不意に息を詰まらせて、ゴボリと赤い塊を吐き出すと、男はそのまま動かなくなった。

和哉の目の前で、頭上に浮かんでいた『0』の数字が消えていく。

「しっかりして下さい!10BITさん!」

篤郎は泣いているのかと思った。

こんなに取り乱した姿を、初めて見た。

「10BIT、さん」

掠れ声で呟き、男の手からCOMPをそっと受け取る。

「10BITさん―――このCOMP、俺がしっかり預かりましたから」

こんなときに何と声をかければいいか、分からなくて、和哉も項垂れていた。

親友なのに情けない。

篤郎の苦しみや悲しみの、多分少しも理解できていない、他人の痛みは想像するしかない。

すぐ傍で同じように黙り込んでいた柚子が、不意に小さく「知り合いだったの?」と尋ねた。

「ああ、前に話したろ?失踪した知り合いがいるって、この人なんだ」

顔を上げた篤郎は、振り返る前に小さく息を吐いてから、困ったような笑顔を見せた。

涙は浮かんでいなかった。

それが何故か、酷く辛くて、和哉は思わず目を逸らしていた。

男は生きて、苦しんでいた時より、安らかな顔をしているような気がする。

この封鎖の中では生き抜くより、早々に舞台を降りてしまった方が余程楽なのかもしれない。

それでも、死にたくない。

死なせたくない―――どれ程痛くて、苦しくて、絶望ばかりが際限なく繰り返されるのだとしても。

篤郎が男の亡骸を本殿の仏像の傍の柱に凭れ掛からせようとするので、手を貸してやった。

済むと、もうここには僅かも居たくない様子で足早に外へ出て行くので、背中を追い駆ける。

表は相変わらずの快晴、熱を孕んだ風が吹き、燦々と日の光が降り注いでいた。

どこか乾いた空疎な世界―――

今、この瞬間にも、封鎖のどこかであの男の様な末路を辿る者がいるのだろう。

「10BITっていうのはさ、ハンドルネーム、ああ、ネット上のあだ名なんだよ」

ぽつんと呟いた声が、夏の暑さに溶ける。

振り返った柚子が不安げに和哉を見詰めてから、篤郎に視線を移した。

「アツロウ、大丈夫?」

「―――ああ、大丈夫だ」

肩を落として、溜め息を漏らす。

「何でか分からないけど、涙も出てこない、はは―――オレって冷たいのかな?」

「疲れているだけだ」

「そ、そうだよ、こんな事ばっかりじゃ、疲れて当たり前だよ」

あはは、と、篤郎の乾いた笑い声が響いた。

「そっか、ありがとな」

俯いて、僅かな間の後で、片手に握り締めていたCOMPに視線を移す。

瞳に生気を宿した輝きが戻りつつあった。

「このCOMPの中に、彼の見つけた事実が残ってる」

壊れかけたCOMPは篤郎の手の中で強い存在感を放っていた。

中折れの本体をパクンと開き、少し操作して、再び閉じると和哉に目を向ける。

「今、開いて見た限りじゃ、一度でもパスワードを間違うと、ロックされるようになってるみたいだ」

篤郎はバッグから取り出したタオルで汚れた表面を丁寧に拭い、包むようにしてバッグの中に入れた。

「バッテリーも切れかかってるし、中を見るのは後にしよう―――命を懸けてまでオレに託すなんて、一体何が入ってるんだ?」

溜め息交じりの横顔を見て、和哉は、ようやく気付く。

篤郎の悲しみは、既に織り込み済みのものだった。

恐らく、彼が失踪した地点で、ある程度予測が立っていたのだろう。

篤郎は気付いていた―――彼が二度と戻らないかもしれない、と。

決して冷たくない、不感症でもない、ただ、起るべくして起った出来事を冷静に受け止めた、それだけの事に違いない―――篤郎は認めないかもしれないけれど。

「政府が隠している、とんでもない事、か」

そして、それはなんて残酷なことだろうと、和哉は言い様のない蟠りを噛み締めていた。

分かっていようがいなかろうが、折込済みでも何でも、死は死だ。

自分達の頭上に輝く死へのカウントダウン。

つもりは微塵もないけれど、万一その時が訪れたとして、受け入れられるのか?納得できるのか?

―――諦めて、全て放棄するだけじゃないのか。

篤郎はもう吹っ切れたような顔をして、次の行き先を圭介と相談している。

封鎖の中で何度も目を逸らし、耳を塞いできた、割り切るフリをして呑み込んできた。

(もう、イヤだな)

この暑さの中、まともに埋葬すらしてやれない、篤郎の友人。

数時間で腐敗が始まり、今夜には目も当てられない姿に成り果てているだろう、もう、この場所へは二度と来ないほうがいい。

和哉は歩き出した。

どこだっていい、どこでも同じだ、でも、ここにはいられない。

「おいレン?」

気付いた篤郎が声を上げる。

「ちょっと待てって、一人で行っちゃダメだろ!」

慌てて追い駆けてくる複数の足音を聞きながら、砂利を蹴散らすようにして、足早に衛国寺を後にした。

 

 世界的に異常気象が当たり前になりつつある昨今、連日30度を超える暑さであっても、都民はあまり気にしなくなりつつある。

「またか」程度の認識だ。

物質と技術に溢れる現代では、暑いのなら屋内に閉じこもり、適温に保たれた空間で気分だけ暑気払いの氷でも齧っていればいい。

いまや、暑さは夏を演出する効果のひとつに過ぎず、時折熱中症で発生した死者は仰々しくニュースで取り上げられた。

暑ければ、死ぬ。

そんな当たり前の事も忘れかけて、自分たちは暮らしていた。

―――溜め息と同時に、汗が顎から伝い落ちていった。

(暑い)

衛国寺を出てから渋谷に向かい、和哉は半ば強引に小休止を取ると決めた。

リーダー権限、の言葉に何か察したのか、まだ平気じゃないかと渋る篤郎を、柚子と圭介も一緒に説得してくれたのだった。

日陰など気休めにしかならない、しかし、今はそれでも有難い。

アスファルトの照り返しが温暖化現象の一因だという説は紛れもない真実だと今なら理解できる。

(俺たちの快適な暮らしは、随分と脆い恩恵の上に成り立ってたわけだ)

たった三日で、街を行き交う人の姿は随分減ってしまったように思う。

入れ替わりのように風に乗って漂う土埃、生臭い臭い、どこからともなく聞こえてくる、何とも知れない物音や、明らかに人のものでない声、街を満たす、焦燥し、殺気立った気配。

何故変わってしまったのだろう。

―――まだ、三日だ。

三日前まで、ここは日本有数の大都市だった。

山手線内部の要所に住まう国家の中枢を担う人々は、既に退避済みだったのだろう。

何も知らず、残され、閉じ込められたのは、失われても構わない命、そういう判断だったに違いない。

人の命は平等だ、等価値だなんて、笑わせる。

現に、自分達が与り知らない内に、勝手に判断されてしまった。

人が人の命の価値を量った。

その結果、和哉達は現実に苛まれ、篤郎の友人は命を落とした。

(もし)

空を見上げる。

(神様が、いたとして)

悪魔を使役するようになり、もはや絵空事ではなくなりつつある。

現実に悪魔が存在するのなら、神もまた、人が信仰の対象として掲げる空想の産物ではないだろう。

(一体何故?どうしてこんなことになった?何のために死ぬような思いをして、実際死ぬ人がいる?)

昔聞いた直哉の話がふと脳裏を過ぎっていた。

神は、その信心を試すため、神の愛を信じ敬う者達に、耐え難い苦痛や試練を与えることがあるらしい。

そうして心揺らぐことの無かった者だけを、神の住む国に迎え入れるのだそうだ。

程度が悪ければ人として命を落とす事もあるという、それでも、その死を尊いと人々は敬い、神は愛する。

「どうして?」

幼い和哉の問いかけに、その時、直哉は曖昧に笑っただけで、答えてはくれなかった。

どうして?

今もよく分からない。

想いを試され、愛を試され、結果死んでも満足できるのだろうか、それなら、そもそも神を信じるに至った経緯や、神を敬う意義は、一体どうなる?

(生きたいから、生きて、苦痛や悲しみと離れていたいから、神に縋るんじゃないのか?)

兄の不敵な笑みを思い浮かべる。

あの人は神なんて信じていない、いつも言っていたし、それどころか毛嫌いしていたもんな。

神話を、まるで、過去の過ちの集大成のように語り聞かせてくれた。

耳に心地よい声や、懐かしい気配を思い返していたら、不意にポンと肩を叩かれた。

「ボンヤリしちゃって、大丈夫か?」

「アツロウ」

「悪魔に襲われても知らないぞ」

和哉の隣に腰掛けて、篤郎は屈託なく笑う。

風が汗ばんだ肌から熱を奪い、髪を揺らして通り過ぎていった。

「なあ、レン?」

うん、と答えると、不意に真面目な表情で見詰め返される。

「別に、気とか遣ってくれなくていいんだからな」

「何?」

「10BITさんのこと」

「―――別に、そんなんじゃない」

少し黙り込んで、「なら、いいんだけど」と、呟いた篤郎は景色に視線を移した。

帽子の縁から覗く瞳が僅かに眇められる。

「オレはさ、確かに、ショックだったんだ」

日差しが眩しいわけじゃないだろう。

和哉は横顔を見詰める。

「でも、どこかで分かってた、こうなるんじゃないかって事、多分、何となく気付いてた」

ふと、目を落としたつま先は、少し前に洗ったばかりなのに、埃でうっすら白くなりかけていた。

以前は街中を歩き回っただけで、こんなにすぐ靴が汚れる事は無かった。

「なあ、今更だけど、レン―――オレ、死ぬのが怖いよ」

顔を上げて振り返る。

「封鎖に閉じ込められて、悪魔に襲われるようになって、死体見たり、死ぬような目にもたくさん遭ったけど、何て言うか、どっかヴァーチャルだったんだ、バカだよな、命懸かってんのに、本気出してなかったなんて、ホント今更だけど、気付いたんだ、あの人が気付かせてくれた」

膝の上で両手をぎゅっと握り締めて、思い詰めたような篤郎の姿はどこか決意に満ちていた。

「オレ、死にたくない」

和哉はその手の上に、自分の手を重ねる。

「オマエ達の事も、死なせたくない」

篤郎の瞳が、和哉の心の奥を覗き込むように、じっと向けられる。

「オマエを死なせたくないよ、レン」

「アツロウ」

「オレ、何があっても、オマエだけは絶対に失いたくない、オマエがいなくなったら、もし、10BITさんみたいなことなったらって、そう思うと本気で怖くて」

指先が絡み合い、グッと握り締められた。

力が強くて痛いくらいだ、けれど、それ以上に、真摯にぶつけられる想いのほうがずっと痛い。

「そんなのオレだって同じだ」

口を突いて出ていた。

驚いた様子の篤郎を引寄せて、同じだ、と、繰り返した。

「オマエだけは絶対、いや―――オレさ、知ってるだろうけど、ワガママだからさ、ユズだってケイスケだって、ナオヤだって失くしたくないよ、絶対、死なせたりしない」

「レン」

「大丈夫だ、アツロウ、オレは死なないから」

そうだ、もう何度も繰り返した、絶対死んだりしない。

試す神や、他人の命を量る傲慢な人々の思惑通り、踊らされてなるものか。

(もし、今の状況が、俺が思いもつかないような、誰かや何かの計画によって齎されたものだとしても)

踏み倒してやる、この手が及ぶ限り、全部掴み取ってみせる。

決意を込めて手を握り返すと、篤郎が顔を顰めた。

いてて、と漏らした声と同時に、なにしてるのようっと不機嫌な声が割って入ってくる。

「男同士で手なんか握り合って、見詰め合っちゃって、不健全!」

「うわ、ソデコ!」

「うわとは何よ、バカアツロウ」

慌てて手を離して仰け反った篤郎に、柚子が詰め寄っていく。

二人を眺めていた和哉の肩を、背後から別の手がポンと叩いた。

振り返ると、圭介が微かに笑いながら立っていた。

「ゴメン、聞こえてしまったんだ」

「え?」

「ボクも同じ気持ちだよ、ボク自身、そして、キミたちの誰一人として死んで欲しくないし、死なせない」

「そうだよ!」

柚子も声を上げた。

「皆で生きて、封鎖から出るんでしょ!そんなの今更、ぜーったい、助かるんだから!」

「特にレンはソデコが守るってか?」

「うきゃー!ななな、何言ってんの、この、アホロウ!」

小気味いい音と共に頭に一撃、痛いと叫んで逃げ出した篤郎を追って、柚子も駆けて行く。

馴染みの、日常の風景だった。

何だか笑えた。

圭介も笑っていた。

「そうだな」

「うん」

それだけで通じ合い、必死に抵抗しながら、それでもどこか楽しげな篤郎と、同じく本気では怒っていない柚子の姿を目で追い、圭介と笑い合う。

「さて」

切り出した圭介に頷き返した。

「そろそろ行こうか」

「そうだね、17時まで、まだ結構あるけれど、いつまでもここに留まっているわけにもいかないからね」

「どうする?」

「蓮見君はどうしたい?」

「そうだな、九段下、武芸館とか、ちょっと覗いておきたい」

「どうして?」

「ハルが気になる」

余命表示は1だったけれど、油断はできない。

「それと、ドリーを探さなくちゃ、だろ?」

圭介は僅かに表情を曇らせて、そうだね、と答えた。

「ミドリちゃんを何としてでも説得しないと、このままじゃ、彼女も」

「封鎖内で人助けしているんだったら、さっきみたいにまた会うこともあるかもしれない」

「今度こそ説得できるといいんだけど」

「そうだな」

立ち上がり、和哉はズボンを軽く払って、背筋を伸ばした。

思考すること、行動すること、今はどちらも大切だ、生き延びるために、どちらも継続させなければ。

気の済んだらしい柚子と、あちこち殴られた様子の篤郎が一緒に戻ってきた。

今後の予定をざっと話し合って、全員で頷き合う。

「ねえ、レン?ハルさんもさ、きっと助けられるよね、明日、私たちが助けるんだよね?」

「そうだよ」

「明日まで生き残って、運命を変えるんだよね」

「明日まで、じゃない、誰も死なせないって、そう言ったでしょ?」

「うん!」

頷く柚子の頭を撫でてやると、少し恥ずかしそうにつま先をコンクリートに押し付ける。

こういう仕草は小さい頃から変わっていない。

傍で篤郎が口笛を吹いて、即座に振り返った柚子に睨まれたらしく、慌てて何でもないと手を振った。

「ねえ、アツロウさ」

「は?何、ケイスケ」

「ちょっとは学習しなよ、蓮見君は言わないだろうから、ボクから言わせて貰ったよ」

「な、何だよそれ、どういう」

「行こうか、蓮見君」

「うん」

「おい、ケイスケ!レンも!何だよ、どういう意味だよー!」

柚子にまで「そうよ」のついでに小突かれて、不当だと呻く篤郎は普段どおりの姿だった。

真夏の空から地上を貫く幾筋もの光の矢。

その最中に一歩踏み出した途端、ドッと汗が噴出してくる。

拭い捨てて、アスファルトの照り返しで蜃気楼のように揺らぐ景色を睨み据えるように、和哉は篤郎たちと共に歩き出した。