移動途中にドリーを見かけた。
池袋でまた人助けもどきを行ない、自己陶酔している様子だった。
ラプラスメールの予告は11時、池袋。
翠自身が頭上の0表示に気付いていないわけないだろう。
だったら、きっとタイミングだと、走り去る背中を見送って、歩き出す。
時が訪れたら何をしてでも彼女を止めればいいだけの話だ。
―――たとえ、何をしてでも。
「なぁ、レン」
秋葉原の路上で呼ばれて振り返った。
篤郎はどこか思い詰めるような眼差しで閑散とした街並を眺めていた。
「10BITさんから渡されたCOMPさ」
「衛国寺で渡されたヤツ?」
「そう、それの話なんだけどさ」
嬉しそうに笑い返してくる姿に、まさか忘れたと勘繰られていたのかと、思わず苦笑してしまう。
「そろそろ、あのCOMPの中を覗いてみようと思うんだよ」
「いいんじゃない?」
「よし!」
踏ん切りがついた様子で「じゃあ、始めるぜ!」とバッグからCOMPを取り出す篤郎に、柚子が不安げな表情を浮かべた。
「だ、だけどさ!パスワード間違えると、ロックされちゃうんでしょ!?」
「ああ、そうみたいだな」
頷き返して、篤郎は再び和哉を振り返った。
「真剣、一発勝負だからさ、みんなの知恵を貸して欲しいんだ」
わかったと答えた和哉の隣で、柚子の細い喉がコクリと上下する。
「4ケタの数字で構成されてるんだけど、彼がパスワードに使いそうなものって、一体、何だろうな?」
「ん〜と、誕生日とか、住所とか、電話番号に、血液型とか?」
「おいおい、そんなの今時、銀行の暗証番号にも使わないぜ?もっと、ひねってあるはずだよ」
「氏名は?」
「なるほど、自分のフルネームを暗号化すれば、絶対に忘れないし、簡単に知られる事もない」
篤郎は急に頭を抱え込んだ。
「あ〜、ダメだ、オレ、彼の本名は苗字しか知らないんだよ」
「ハンドルネームだ」
「ハンドルネーム―――『10BIT』が?」
「数字にならない?」
ハッとした様子の篤郎に、柚子が指を折りながら検証を始める。
「10はそのまま数字でしょ?っていうか、BITって何なの?」
「BITはプログラムで使うデータサイズの最小単位だよ、1ビットで0と1の2種類を表せる」
「ふぅん、2種類ね、10ビットって事は10×2で、20種類?」
「おっと違うんだなぁ、ソデコちゃん!ビットはただの乗算じゃなくて、2の累乗で表されるんだ」
軽くからかう様子が、僅かに柚子の気に触ったようだ。
けれど篤郎はまるで気付いていない。
和哉はこっそり溜め息を漏らす。
「つ、ま、り、10ビットを解く場合、2の10乗って事になる、エッヘン!どうだ?ちょっとは見直した?」
「あー、見直した、見直した」
案の定そっけなくあしらわれてポカンとしている篤郎を放置したまま、振り返った柚子が「ねえ」と和哉の顔を覗き込んできた。
「レン、2の10乗って幾つなの?」
「ん、えっと―――1024?」
「え」
ぽつんと呟くと、直後に絶句して、今度はエエッと仰け反り、急にションボリした篤郎が「正解です」と上目遣いで見上げてくる。
「1024―――って、まさか今、暗算したの?算数怪獣かオマエは」
フイと視線を逸らして答えない和哉に、柚子がキラキラした視線を送っていた。
「ん?1024?」
4桁になったと再び篤郎が声を上げる。
「もしかして、それが正解なんじゃない!?」
ぴょんと跳ねた柚子が軽く和哉の腕を掴んだ。
「ハンドルネームの事に気づくなんて、凄いよ、レン!」
「何だよぉ」
また少し拗ねた様子の篤郎が、自分の手柄も少しは認めていいんじゃないかと口を尖らせても、変わらずそっけない態度でハイハイといなした柚子から「早くやってみなさいよ、パスワード!」と告げられ、鞄がずり落ちそうなほど肩を下げる姿が多少哀れだ。
眺めていたら目が合って、何故か恨めしげに軽く睨まれた。
「よし、じゃ入れてみるぜ?」
気を取り直して、COMPに『1023』と入力した篤郎に、柚子がギョッとした表情を浮かべる。
「ちょっと!アツロウ、間違ってるよ!1024じゃないの?今、1023って入れたでしょ!」
「まぁまぁ、落ち着けって、プログラムの世界では0も数として数えるんだよ」
つまり0から数えて1024番目、1023なんだと答えた篤郎に、柚子は不服気味に閉口する。
やり込められて面白くないのだろう。
この手の知識で、柚子どころか、和哉ですら、篤郎には遠く及ばない。
「おっ、ビンゴだ!」
「もう、そんなの普通の人には分かんないよ!」
「だからパスワードになるんだろ?」
軽い調子で笑い返して、それじゃ読んでみるよ、と、篤郎が不意に真顔に戻る。
「少し時間をくれ」
「―――分かった、頑張ってね」
すぐ傍の店舗のシャッターに凭れて、COMPのファイルに目を通し始めた篤郎に、邪魔をしてはいけないと和哉は柚子と共に少し離れた場所へ移動して様子を窺う。
「ねえ、レン」
「うん?」
「衛国寺で死んじゃったあの人、アツロウの友達だって言ってたよね」
「ああ」
「何が書いてあるのかな」
傍らに目を向けると、柚子はじっと篤郎の様子を窺っている。
普段の手厳しい態度は気を許しているからこそ、柚子なりに篤郎を親しく思っているのだろう。
だからこうして心配するし、気遣いもする。
ふと見上げてきた柚子と目が合う。
途端ふわりと頬が紅く染まり、何故か慌てた様子で「何?」と聞き返してくる姿が愛らしくて、気まぐれに手を握ってみた。
小さく、多少湿り気を帯びた柔らかな感触が、掌から伝わってくる。
「あ?れ、レン?」
「大丈夫だよ」
自然と笑んでいた。
可愛らしい幼馴染―――恋愛感情は持てないけれど、大切にして、守りたいと思う。
戸惑うようにモジモジと肩を揺らして、柚子も、そっと和哉の手を握り返してきた。
「うん」
俯いた頬に、サラリと髪が一筋落ちる。
「そうだよね、大丈夫だよね」
「篤郎なら、信じていいよ」
「うん、レンが言うなら、私も信じられる、かな」
もう、随分長い付き合いだ。
切欠が何だったのか思い出せないけれど、気付けばいつも傍にいて、高校まで同じになった。
共有した時間分、築かれた縁は、今ではかけがえの無いものの一つとなっている。
何だよこれ、と、篤郎の声が聞こえた。
同時に振り返り、歩き出す途中で、どちらともなく自然と指先が解ける。
振り返った篤郎の顔は僅かに青褪めていた。
「アツロウ、どうしたの?何か分かった?」
「ああ」
首肯した篤郎から「PSE法って知ってるか?」と、逆に聞き返されて、柚子が首を傾げた。
「PSE法?」
「そうだ、電気用品の安全を確保するための法律なんだけど、色々問題があるんだ、専門機関の検査を受けていない特定の電化製品は販売できないっていう法律なんだよ―――大学生の友達がずいぶん怒ってたよ、金がないのに新しいテレビなんて買えるもんかって」
「それがどうしたの?」
俄かに嫌な予感が過ぎる。
衛国寺で亡くなった男は、篤郎に何を託したのだろう。
「この法律、事業者はおろか、関連する省庁にさえ十分な説明を行わないままで、施行の直前に方針を告知したんだ、おかげで廃業に追い込まれたリサイクル業者も出たくらいなんだよ」
「それで?」
「施行直前になって、事実を知った事業主や、マスコミも騒ぎ出したからな、2001年に施行されてから、2006年まで5年間もの猶予期間を設けたりもした」
「あ、何か聞いた事はあるかも、でも私、家電とか疎いからなぁ、詳しくは知らなかったよ」
「そうだよな?そうやって時間をかける事で、政府は国民を慣れさせて行ったんだ、でも10BITさんや、彼の知り合いのジャーナリストは、そこに疑問を感じた―――そう、この法律には裏があったんだ」
「う、裏?何それ、だって電子レンジとか、炊飯器とか、家電の話でしょ?」
「ああ、その通りだよ、そしてそれこそが、この法律のカラクリなんだ」
篤郎の首を巡らせる動作につられて、和哉も周囲を見渡すと、軒を連ねる何件もの家電量販店が視界に入る。
秋葉原は日本屈指の電気街として世界的な知名度も高い。
国の内外を問わず、あらゆる人々が闊歩し、消費し、経済活動を行う、常に活気の絶えない土地だった。
しかし現状、全ての店舗は臨時休業、それどころか風景の至るところに破壊の痕跡が残り、道行く人は目視でカウントできる程度しか見えない。
道端に座り込む者、路地裏で震えている者、身じろぎすらしない人々は、既に事切れているのだろうか。
視線を逸らして溜め息を漏らすと、不意に篤郎が、柚子に電子レンジの中を見たことがあるかと尋ねた。
「えっ」
柚子は目を丸くして、そんなものないよと怪訝な表情を浮かべる。
「だって、電子レンジだもん」
「そう思うよな、それが普通だ、でも、国民たちがそう思う事で、もうすでに政府は目的を達したんだ―――PSE適合商品の中身に謎のチップが埋め込まれている事に、誰も気づかないんだからな」
そうか、と、やっと和哉も合点入った。
「政府が埋め込んだの?」
「ああ」
頷き返して篤郎は続ける。
「そしてそれこそが、知り合いのジャーナリストが失踪したきっかけだったって書いてある、それを引き継いで、10BITさんがそのチップの中身を調べたところ、目的が分かったらしい」
「外部からのコントロールか」
「その通りだ」
謎のチップ、電気供給の停止、そして、国民を見捨てた政府。
―――和哉は、前に兄から聞いた話を思い出していた。
政府は外敵に備えた仕掛けを国内の主要都市数箇所に仕掛けていて、その端末が都市内及び都市近隣の各家庭に例外なく幾つか仕込まれているという、冗談としか思えないそんな話が急に現実味を帯びて現れた。
一体何だろう、これは。
直哉はどこまで未来を見通せているのだろう。
畏怖と疑念が沸き起こり、同時に、いよいよかつての平穏が遠のいてしまったと思う。
知らなかった頃には戻れない。
篤郎の表情にも複雑な思いが滲み出している。
「特定の信号を受けると、任意の出力に電源をコントロールするチップ」
「どういう意味?それで何が出来るの?」
「―――その疑問を追った10BITさんは、やがてとんでもないものに行き当たった、それが政府の機密であり、PSE法の真の目的、『超電磁結界』だ」
バカらしい、と、一笑に付してしまうのは簡単だ。
しかし既に神話の存在であった悪魔が出現してしまった以上、今や何が起こってもおかしくない、いや、そもそも命がけで託す者がいたという事実が、少なくとも根拠の無い妄想の類ではないという、何よりの証明だろう。
篤郎は概要を噛み砕いて説明し始めた。
「いいか?電磁波ってのは、どんな電子機器からも出てるんだ、まぁ1つ1つは微弱だから、全くと言っていいほど、問題視されてないけどな―――でも強力な電磁波は、物質の運動を加速して発熱させる、それこそ電子レンジみたいにだ、ブラックジョークであっただろ?ネコを電子レンジに入れてってヤツ、つまり、沸騰死しちまうんだよ」
「うわ、なんて例えを出すのよ―――でも、そこまで強い電磁波なんて、そんな簡単に作れるの?」
振り返った柚子に「簡単じゃないけど可能だよ」と、和哉が答えると、篤郎も頷き返してくる。
「その通り、不可能じゃないんだ、波には合波ってのがあって、2つ以上の波が重なると大きくなる、物理で習わなかったっけ?1つ1つの家電は微弱な電磁波を出すに過ぎない、だけど今の日本には、家電製品があふれてる、秋葉原を見れば良く分かるだろ?これら全ての家電に、ボタン1つで電磁波を発生させるチップが埋め込まれている、それを誰かが一斉に制御すると―――どうだ?」
「ちょ、ちょっと!誰かって、その法律を作ったのは政府なんでしょ?」
漸く事情が飲み込めたのか、柚子が俄かに大きな声を上げた。
「何のためにそんな危険なものを?国民を殺すような仕掛けをして、一体、何をしようっていうのよ!」
「侵略に対抗するため」
「し、侵略って!」
振り返り、詰め寄る柚子の必死な様子を、和哉は無言で見下ろす。
「じゃあ、何?どこかの国が日本に攻めて来た時に、街を占領した軍隊に向かって、その『超電磁結界』っていうのを使うって事?」
信じられないだろう。
安穏と暮らしてきた、などという表現を使うつもりはないけれど、柚子はごく普通の少女で、多くの同年代の少女達がそうであるように、かつての日々を当たり前として過ごしていた。
疑問も、疑念も、特別大きな主義主張なども無く、巷に溢れる情報の上澄みに触れて社会を語り、専らの興味は他人と自分の距離感、それは別に悪ではない、善でもないだろうが。
和哉が柚子を恋愛対象として見られない理由は、恐らくその辺りに端を発している。
見下しているわけではない、ただ、安易な姿勢を薄いと感じているのも、事実だった。
許容量を越えた現実を前にして、柚子がどういう態度を取るか、和哉は既に予想がついていた。
「それよりも今は、私たちが生き延びる事を考えるべきでしょ?」
視線を逸らし、ふくれっ面でそっぽを向く。
露になっている細い肩がやけに頼りなく見える。
「それに、ミドリちゃんの余命が今日で終わっちゃうんだよ?そっちを何とかしてあげようよ!」
もう行こうと歩き出す背中を追おうとして、不意に篤郎に腕を掴まれた。
「なぁ、レン」
そっと耳打ちするような声で囁きかけてくるのは、恐らく柚子を気遣っての事だろう。
「この話、今のオレたちに―――本当に関係ないのかな?」
「関係あるね」
「だよな」
既に理解していた様子で、篤郎は僅かに俯いた。
国を守るための装置、それが、皮肉にも自国民の命まで巻き込んで行使されようとしている。
あまりにお粗末な最終兵器だ。
それに、単に国家を守るためという目的に留まらない、きな臭いものも感じている。
「今回の封鎖に、電力の遮断、『超電磁結界』と無関係であって欲しいぜ」
「そうだな」
交わす言葉が上滑りしていることに、和哉だけでなく、篤郎も気付いているだろう。
最大の味方が、最強の敵となる事もある。
今更、国などという入れ物に何の期待も抱いていないけれど、黙って殺されてやるつもりは毛頭無い。
そこかしこに秘められた人の業に軽く身震いして、和哉は世界を確かめるように、踏み出す足に力を込めた。