本日11時、池袋。

翠の運命の分岐点。

ラプラスメールの『ラプラス』とは、古代物理学が席巻した時代に生み出された究極概念、因果律の最終終着点とも言える、ラプラスの悪魔を指しているのだろう。

直哉は『現在起こっているありとあらゆる出来事をデータとして集積し、解析可能な知性が存在した場合、もはや未来は未来ではない』とメールで語っていた。

しかし、たとえ因果が引寄せようとも、未来を容易く現実に落とし込むことなど出来ない。

和哉達は行動で証明し続けてきた。

今回も閉じられるはずだった運命の輪を開き、破滅の未来を打ち破って、翠の命を明日へ繋いだ。

―――ずっと不思議に思っていた事がある。

子供向け特撮番組のヒーローが掲げる正義は、何故正道として人々に受け入れられるのだろう。

世のため人のためと、掲げた題目は立派でも、その実多くの命を危険に晒し、果ては巨大ロボットまで持ち出して街中を破壊しつくす、彼らの行為を目の当たりにした誰もが諸手を挙げ感謝するのだろうか。

結局、ヒーローとは結果論でしかない。

テレビの中のヒーロー達は、物語上の正義としてカテゴライズされているだけの存在だ。

立ち位置の違い、目線の違い、たったそれだけで、ヒーローは悪になり、悪はヒーローになり得る。

翠の破滅は普遍化されたヒーローの形式だけをなぞってしまったがために悲劇的な結末を引寄せてしまったけれど、増長を加速させた切欠が兄の組んだプログラムであったことは、弟として少なからず罪悪感を覚えている。

翠に悪意があったわけではない。

ただ、力の使い方を間違えた、それだけだ。

純粋な力は意思を持たないが故に、行使する人間の裁量に結果の全てが集約されてしまう。

これは、やはり諸刃の剣なのだろう。

誰もが安易に手にしていい道具ではない。

その上で、改めて、和哉は改造COMPや、直哉の目的について考えていた。

今日も世話になろうと立ち寄った新宿の仮拠点。

無断で借用していた店舗も含めた辺り一体は、昨日和哉達が去ってから再び訪れるまでの間に、何らかの災難に見舞われたらしい。

以前の面影を僅かに残すばかりと成り果てていたその場所で、立ち尽くすことしか出来なかった。

「まいったなぁ、コレ」

篤郎の声と共に乾いた風が吹き抜けていく。

「弁償、できないな」

「ハハ、寧ろラッキー、なんちって」

呟いた和哉に、空笑いで答えた篤郎を、柚子がキッと睨みつけた。

どうしたのと翠が和哉の傍に寄ってくる。

池袋で死の運命こそ回避できたけれど、翠は再び聞き分けなく走り去り、結局、彼女の余命が増えたのは、それから約2時間後の午前1時過ぎ、表参道で再会した後となった。

魔女と誹られ、迫害されて、挙句命を奪われそうになっても貫こうとした正義は、またも受け入れられず、表参道に至るまでの道すがら再び人々に追い立てられて、流石に思うところあったらしい。

話してみると案外素直に説得を受け入れ、翠はそのまま和哉達と行動を共にすることになった。

「また、どこか借りちゃう?」

「いや、もうよそう」

「そうだな」

帽子を脱いで頭を掻きながら、それならどうすると尋ねる篤郎に、和哉はこの辺りで少し休んで行こうと提案した。

破壊されて暫く経っているようだし、人も、悪魔も去り、再び訪れるまでには暫く時間が空くだろう。

それぞれ無言で適当な日陰に腰を下ろした。

封鎖に巻き込まれて以来、空腹と喉の渇きは常に付き纏い、精神的にも、肉体的にも、そろそろ限界を迎えつつある。

「ケイスケどこにいるんだろうなあ」

篤郎のぼやく声が聞こえた。

和哉が衣料品を購入した店舗も、屋根の半分と壁の一部を破壊されて、残った壁際の安全そうな日陰を選び、柚子と翠が半歩ほどの距離を置いて隣り合い座っている。

女性同士通じ易かったのだろうか、それとも気が合ったのか、二人は既に馴染んだ様子で、時折ポツポツと話しては、笑顔を見せていた。

和哉は視線を空へと向けた。

雲ひとつない蒼穹。

封鎖内部で、生命を脅かす脅威から逃げ回ることしか出来ない、弱りきった人々にとどめを刺すため射掛けられた天の矢のように、真夏の日差しが容赦なく降りそいでくる。

肌がひりつくのは日焼けのせいか、どこかに癒えてない傷が残っているのか、両腕を放り出しながら適当な壁に背中を預けて、息を吐いた。

今日、起きてから体験した、翠の救出を含む様々な出来事。

天音の言葉、翔門会、ジンの頼み―――情報が目まぐるしく脳裏を巡っている。

翔門会の目的とは、一体何なのだろう。

現在巷に出回っている多くの改造COMPは翔門会から流出したもののようだけれど、昨日の脱走信者の一件から鑑みるに、表向きは徹底した管理を行い、選ばれた信徒のみが所持を許されているらしい。

芝公園で再会した天音や、品川の教団施設前で教祖から聞きだした話も分からない事だらけだ。

悪魔召喚に用いられるようなサーバーが、その辺の施設に設置されていると、元より考えてはいない。

しかし『辿り着けない』とは、どういう意味なのか。

セキュリティに絶対の自信を持っているのか、それとも、人の身では手が出せない場所に置かれているのか。

(人の、行けない空間?)

―――異界とCOMPを繋げる交換機という性質上、それはもしや、魔界だろうか。

和哉にとって、神や悪魔の存在は、特に珍しくも、眉唾物の作り話でもない。

兄が語り聞かせてくれた数多の神話、伝承の類は、和哉の人格形成に少なからず影響を及ぼしている。

いずれこうなる事を知っていて、あらかじめ教育を施されていたような気分だ。

慣れない戦いに初めこそ恐怖感を抱いたが、今では改造COMPも手に馴染み、生きるためというより、意志を貫くため、力を行使するまでに至った。

道程を妨げる、数多を薙ぐための道具。

自分の考え方の変化に、若干の戸惑いと不安を覚えている。

生きている以上、変化は否めないものだと、以前直哉が言っていた。

けれど絶対に変わらないものもあるとも教えてくれた。

(オレの変化は、外からもたらされたものなんだろうか、それとも)

ほんの数日前までどこにでもいる高校生だったはずだ、それが、どうして―――

「レン」

呼ばれて見上げるのと、篤郎が隣に腰を下ろすのは、殆ど同時だった。

動作に合わせて視線を移すと、気安い笑みが向けられる。

「昨日からずっとぼんやりだな、どうした?」

「ん、疲れてるのかな」

「そりゃそうだ、オレだって疲れてるよ、毎日毎日、悪魔と戦って、食い物や水を確保して、安心して休める場所なんてどこにもないし、ピリピリしっぱなしでウンザリだぜ」

「そうだね」

篤郎はいつだって明るい。

楽しくて、優しい。

気遣うような眼差しが、傍へ来た理由を暗に告げていた。

和哉はゆっくり空へ視線を戻しながら、考えていたんだ、と呟いた。

「考える?」

「改造COMPの事、サーバーの在り処とか」

「ああ」

「それに、アマネの話、ジンさんやハルの事なんかも」

「なるほど」

「あと、ナオヤ」

隣で篤郎の気配が揺れる。

一呼吸置いてから、そう、と聞こえた。

振り返った和哉に、篤郎は大仰に肩を揺らしながら、溜め息を吐いてみせる。

「はぁ、まっ、いいんだけどさ」

「え?」

「やっぱり敵わないなぁって、ナオヤさんにさ」

「今更、どうしたの?」

「うっ、ひでえ、そういう言い方するか」

頭上の疑問符を増やす和哉に「もういいよ」と告げて、頭を軽く振った。

「それより、考え事なら一緒にやろうぜ、オレにも関係ある話だし、それに」

さっきのお礼。

鞄から、壊れたCOMPを取り出して和哉に見せる。

「お前のお陰でパスワード、分かったようなもんだから、オレに出来ることなら手伝うよ」

隣り合っている方の手をこっそり握られた。

伝わる温もりに、胸を打つ拍の速度が僅かに上がり、つい笑ってしまう。

「うん、そうだね」

有難う、と握り返すと、篤郎は照れた様子で頬を掻いた。

「んじゃ、まず何から始める?」

「アマネの情報かな」

「神の試練がどうとか、サーバーの場所なんかの話だったな」

「アツロウは、どう思ってる?」

「あーっと、そうだな、まず、神が人間を試すために悪魔を作ったってところが、どうもしっくりこない」

「そうだね」

「お前もか」

篤郎が笑う。

「そうだよなー、レンってさ、こう、上から押さえつけられたり、押し付けられたりするの、スゲー嫌いだもんな」

「試練を与えて何を試そうっていうんだよ、そんなの傲慢だ、まるで独裁政治じゃないか、いけすかない」

「神様に対して、いけすかない、とまで言っちゃうか、さすがレンだよなあ」

褒めたのか呆れているのか微妙に分からない。

閉口した和哉に、「でもさ」と篤郎は続ける。

「アマネはそれを、人を成長させるために神様が敢えて課してる、みたいに言ってたよな、例えばライオンが我が子を谷に突き落とす、みたいな」

「それで死んだら、その子は私の子じゃないとでも言うつもり?」

「いや、それは」

口ごもった篤郎は、オレはライオンじゃないから、と曖昧に言葉を濁して、苦笑いを浮かべた。

「まあでも神様の考えなんて流石にさっぱりだし、とりあえず急いで検証する必要も無さそうだから、それは後でいいんじゃないか?」

「そうだね」

「んじゃ次、サーバーの在り処?それとも改造COMP?」

「辿り着けない、って言われたね」

「ああ、そうだな、でもさ、たどり着けないって、どういう意味だ?」

「そこがオレにもよく分からないんだ」

「だよなあ、オレたちじゃ行けない場所にあるってことなのか、それとも、とんでもないセキュリティで守られてるとか」

声を立てて笑った和哉に、篤郎が驚いた様子で何だよと聞き返してくる。

「オレと同じこと考えてるなって」

「え、レンも考えたのか、そっかー、やっぱりオレらってちょっと似てるのかもな」

指を絡めた片手を軽く上下に振られて、和哉はまた少し笑ってしまった。

「サーバーの場所を見つけないと」

「そうだね、でも」

「ああ、今のところ殆どお手上げだ、翔門会が何のために悪魔召喚プログラムを完成させたのか、アマネの言葉をまんま信じるってのも、違う気がするし」

「誘惑に打ち勝って、それを意のままに操る事で神が喜ぶなんて、変な話だよね」

「変だな、あと、ジンさんの話、翔門会のヤツラ、前にオレがCOMP欲しいって頼んだ時は、選ばれた人間しか持てないとか言って断りやがったのに、裏で改造COMPを無差別にばら撒いてるっぽいだろ?昨日の脱走信者とかさ、どうも、きな臭いんだよな」

「信用は出来ないな」

「ああ、俺もそう思う」

「翔門会の教祖って人も」

「あー、あのイッちゃってる感じのおっさんかぁ」

「ベル・イアルのこと知ってた」

「え?」

和哉はキュッとアツロウの手を握り締める。

「もしかしたらと思ってさ、訊いてみたんだ、そしたら、知ってただろう?」

「あ、ああ」

「炎の化身ベル・イアル、オレもナオヤから聞いたことがある」

「ええっ、マジで?」

「うん」

何度も目を瞬かせて「はあ、流石ナオヤさん」と、半開きになった篤郎の口から心底驚嘆した様子の声が漏れた。

「スゲーな、まあ、そんな話を覚えてる、レンも相当凄いと思うけど」

「ベル・イアルって、多分ベリアルの事だと思うんだ」

「ベリアル?」

「ソロモン王72柱の一柱、元々天使だったのが、政権争いに敗れて堕天して悪魔になったって」

「マジか」

「それだけじゃない、ベルの王位争いのことまで知ってただろ?」

「お、おお」

「昨日の夜にさ」

和哉は自身のCOMPを取り出し、パクンと開いてメールのフォルダを指定すると、一通のメールを画面に展開させて篤郎に見せる。

文面に目を通すと、篤郎は、これ、と、和哉をまじまじと見た。

「アマネが何か知ってそうな素振りだったから、もしかしてと思ったんだけど」

「カマかけたっての?」

「半分はね、もう半分は他に情報が取れるかもって思ったんだけど、大した話は聞けなかったな」

「うわぁ―――お前って、やっぱり」

「ん?」

「確実にナオヤさんの弟だな」

「どういう意味?」

眉間を寄せる和哉に、篤郎は笑って「いいから、いいから」と手を振った。

「悪い意味じゃないからさ、ハハ」

しかし、あえてその言葉を受け入れず、機嫌を損ねたフリをして繋いでいた手を払うように解く。

「レンーっ」

再び伸ばされた手をもう一度払いのけると、「従弟だよ」と軽く睨みつけて、そっぽを向くように真夏の日差しに炙られる風景に視線を移した。

あちこち壊れて所々から黒煙を昇らせるビル群、乗り捨てられた廃車、瓦礫だらけの割れたアスファルトの上をフラフラと歩く精根尽き果てた人々。

道の端で倒れて動かない人、蹲り呆然としている人の姿も見える。

(あの中の何人かは悪魔使いかもしれない)

まさに終焉の光景だ。

もしくは世界が生まれ変わる予兆だろうか。

多くの人の頭上に輝く数字が示す運命の日には、新たな秩序が生まれるのかもしれない。

(なんてな、この悲惨な状況下で、一体どんな秩序が生まれるっていうんだ)

しかし―――世界屈指の大都市、東京が、この有様とは。

「なあ、レン、ナオヤさんはオレの師匠で尊敬してる、だからホントに悪い意味じゃないんだってば」

しつこく食い下がってくる篤郎に、和哉は横顔のまま「分かってるよ」と短く答えた。

「じゃあ、機嫌直してくれよ」

「別に怒ってない」

「だったらこっちを向いてくれって、なあ、レンってば」

和哉は軽くため息を吐いて、振り返りながら「翔門会は」と切り出した。

「封鎖の理由になった秘密を握ってる、それが直接封鎖の解除に繋がるかどうかまでは分からないけど、もっと調べる必要があると思う」

「そ、そうだな」

「本当に、ナオヤからもっと何か聞けたら良かったんだけど」

不意にキュッと手を握られた。

思いもよらないほど、強い力だった。

僅かに驚いて見つめた篤郎の、もの言いたげな瞳と目が合って―――頭上から柚子の声が降ってくる。

「ちょっと!二人とも!」

篤郎がパッと手を離してそのままうわあと仰け反った。

驚く和哉に、翠までもが「ナイショ話禁止!」と手を腰に当てて覗き込んでくる。

「何の話してたの?二人だけで、ずるい!」

「ず、ずるい?」

「アツロウ、レンにくっつき過ぎ、男同士でいやらしい」

「い、いやらしいって!」

「えっ、ウソ、二人ってそういう関係だったの?キャー!ヤダー!」

「なななっ、なんですってぇ!ちょっとアツロウ、説明しなさいよ!」

「うええ、何でオレだけ!」

助け舟を求める視線に苦笑して、和哉は「情報を整理していたんだよ」と柚子に話しかける。

「えっ、そっか、そうだったんだ」

柚子は素直に頷いて、和哉の隣にストンと腰を下ろす。

更に隣に翠が座り、柚子に「ねえ、情報って?」と尋ねた。

「あ、うん、多分大体は、さっきミドリちゃんに教えてあげたとおりだと思うよ」

「何だ、二人もその話してたのか」

和哉を挟んで、身を乗り出した篤郎に、一応ね、と柚子は肩を竦めた。

「これから一緒に行動するわけだし、知っておいたほうがいいかと思って」

「そうだな」

「和哉さんたちは、悪を挫いて世界と皆の未来を守ろうとしているんでしょ?よく分かったよ!」

「―――あれ?」

和哉も思わず、篤郎と一緒に柚子を見る。

「うーん」

柚子は困り顔でこめかみの辺りを指で軽く掻いた。

「ちゃんと説明したつもりなんだけどね」

「バッチリ、分かりやすかったよ!さっすがユズさん、だね!」

溜め息を漏らす様子に、事情を察した和哉と篤郎は、僅かに顔を見合わせて苦笑いする。

「で、そっちは?」

まだ見聞きした以上の事は分からない。

そう告げると、柚子はもう行こうと和哉を促した。

「いつまでもここにいても、仕方ないでしょ?」

「ああ、そうだな」

各々立ち上がると、和哉、篤郎、柚子の目は、自然と店舗の残骸へ向かう。

無断で借用した、謝罪も、賠償も、必ずすると決めていた。

瓦礫の中に、煤けて敗れた従業員の制服や、水道の名残を見つけて、胸を一抹の空しさが通り過ぎていく。

事情を知らない翠だけは不思議そうにしていたけれど、ただ黙って、和哉達と同じように破壊された風景を眺めていた。

「ねえ、レン」

乾いた風に柚子の声が混ざる。

「―――私たち、戻れるよね?」

一瞬言葉に詰まって、それでも、和哉は「ああ」と頷いた。

「必ず」

「うん」

「必ず、戻れるよ」

「前みたいに、買い物したり、美味しいもの食べたり、出来るよね」

「そうだね」

そっと手が握られた。

柚子と、そして、篤郎からだった。

それぞれの不安が伝わってくるようで、同時にぎゅっと握り返すと、両方から切ない眼差しが向けられる。

「って」

柚子の瞳だけ急に三角に変わった。

「ちょっと、なんでアツロウまで、レンのこと見てんのよ」

「えっ?」

「ねえ、そういうの本当にやめてよね、変な目でレンを見ないで!」

「みみ、見てねーだろ、お前こそ、何言ってんだソデコ!」

「ソデコってゆーなって、言ってんでしょお!」

「うわぁ、もしかして、お二人って和哉さんを挟んでのトライアングラー?」

「妙な勘繰りしない!ミドリちゃんが疑ってるの、全部アンタのせいよ!この、アホロウ!」

「なっ、うええええ!」

殴りかかってくる柚子からパッと身を翻して駆け出す篤郎と、どちらを応援するでもなく歓声を上げる翠の姿に、和哉はやれやれと肩を竦めていた。

ふと見上げれば、空はただ暑い。

しかし明らかに昨日までには無かった、異質な何かの気配を感じる。

未知の変化が訪れようとしているのだろうか。

そっと胸の辺りに触れて、傍で繰り広げられている賑やかな気配と裏腹に、不安に慄きそうな心をグッと押さえつけながら閉じた瞼の裏には、果てしない闇だけ広がるようだった。