封鎖に巻き込まれて以来、思いもよらない展開が続き過ぎて、不感症になりつつあるように感じている。
今の状況もまさにそれだ。
逃げる和哉達の背後から、下卑た笑い声が追ってくる。
『げひゃひゃひゃひゃ!逃げろぉ、逃げろぉ、は〜やく逃げないとぉ、鬼に捕まるぞぉ!』
前を駆ける白衣の姿。
機敏にして俊足、今の望月麻里は、和哉達の知る望月麻里ではない。
『こっちだ!』
導かれるままに走り続けてどれ程経っただろう。
息も切れ、足も疲れ果てて限界―――と、なりかけた所で、漸く望月は足を止めて『もう大丈夫だ』と振り返った。
彼女からは、彼女の声音ではない、男の声音が聞こえてくる。
「どっ、どういうことか」
ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返しながら、篤郎が望月に詰め寄っていく。
「説明して、もらえますか、マリ、先生」
双眸に灯っていた淡い光がふっと消えて―――望月は、困った様子で優しげな笑顔を浮かべた。
「そうね、話さないといけないわよね、ごめんなさいね、心配かけて」
「マリ先生、大丈夫ですか?」
篤郎の問いかけに、男の声音が応えた。
『ああ、ありがとう、助かった、君たちのおかげで、彼女も無事で済んだよ』
あなたは誰、と、和哉は問いかける。
声だけに留まらず、今の望月は、望月の姿をしているけれど、明らかに別人だ。
彼女を望月麻里足らしめる何かが決定的に欠けている。
望月の姿をしたその存在は、自らを幻魔クルースニクと名乗った。
『吸血鬼クドラクと戦う運命を負う者だ、無用なトラブルをさけるため、この身体に身を隠していたが』
そこまで話した所で、急に篤郎がいきり立って身を乗り出してきた。
「悪魔?せ、先生の身体を乗っ取ったのか!このヤロウ!」
「違うのよ、アツロウ君!」
望月の声が急に女の声音に戻り、和哉達は面食らってしまう。
「私は乗っ取られてなんかいないわ!だから落ち着いて」
「あれ、マリ先生?」
篤郎もきょとんとして、戸惑いの色を隠せない。
「大丈夫なの?でも、どういう事?」
「ええ、大丈夫よ、だから今はクルースニクさんの話を聞いて」
「あ、ご、ゴメン、まさか悪魔がマリ先生の中にいるなんて思わなかったから」
何を誤っているのかと、少しおかしかった。
今、明らかに異様な存在は、望月の方だ。
篤郎の反応こそ当然で、寧ろもっと動揺しても、腹を立ててもいいと思う。
謝ってしまう彼の人の良さが愛しい。
篤郎に免じて、和哉も口を挟まず、素直に望月の言葉を聞くことにした。
『吸血事件の犯人を捕らえたいという彼女の強い思いが、私をこの世界へ喚び寄せたのだ』
再び男の声音に変わり、望月の口を借りてクルースニクが話し始める。
『我々の利害関係は一致していたからな、契約の成立は簡単だったよ―――私と彼女の追っている者は、同じ悪魔だったのだ、奴の名は吸血鬼クドラク、だが今、奴を倒す事は出来ないのだ』
「そういえば、まだ殺すなって言ってましたけど」
どういう意味ですかと篤郎が尋ねた。
『クドラクは吸血鬼だ』
先ほど自分達を追ってきた、銀髪に血色の悪い顔をした男の姿を思い出す。
『自らの身体を再生する能力を持っている、正しい手順で倒さねば、翌日には、より強くなって蘇る、これを繰り返せば奴の力は際限なく高まり、やがて奴に敵はいなくなる』
そんなろくでもない存在だったのか。
和哉も「どうすればいい」と対処法を訊く。
『奴を倒すには、あるものが必要なのだが』
言葉を一呼吸区切り、少し誤算があった、と、望月の姿をしたクルースニクが瞳を眇める。
「ごめんなさいクルースニクさん、私のミスであなたを危険に」
「何があった?」
『クドラクを倒すために必要なものを、何者かに奪われてしまったのだ、その直後、奴が現れた』
そしてどうやら、それはクドラクの差し金らしいと言う。
「何を奪われた?」
『白き羊膜の粉末だ、羊膜はマリ殿のバッグに入っている』
羊膜、耳慣れない響きだ、まさかと思うが、人間の羊膜だったりするのだろうか。
「どこで奪われた?」
「それが、ハッキリとは分からないの」
今度は本来の体の主、望月麻里の声が答える。
「多分、神田の公園だと思うけど」
「じゃ、じゃあ、とにかく、マリ先生のバッグを探して、取り返せば大丈夫なんだね?」
「ええ、そういう事よ、アツロウ君は知ってるわよね、私のバッグ」
篤郎は首をしっかり頷き返して、いつも持っていたアレ?と笑顔を浮かべた。
「バッチリ覚えてるって!オレたちに任せて!すぐに見つけて連絡するよ!」
しかし直後にションボリと項垂れる。
「って、オレのバカ、今ケータイ繋がらないじゃん」
その必要を殆ど感じていなかったから、半ば忘れかけていたけれど、確かに今、携帯電話どころか、家電製品全般が使用不可能だ。
命綱のCOMPですら手動のバッテリーで充電してどうにか動かしている。
「マリ先生、バッグ見つけたら、どうやって連絡しようか?」
暫く考え込んで、結局望月は神田で待っていると答えた。
「了解っス!じゃ、行って来ますね!」
意気揚々と駆け出した篤郎の後に続いて、和哉達もその場を後にした。
「でも、何だかちょっと、怖いよね」
暫くして素直な感想を述べる柚子に、篤郎もそうだなと頷き返して、物憂げな表情を浮かべる。
「多分、マリ先生も平気そうにしてたし、害はないんだろうけどさ」
「気持ち悪いよ、私だったら耐えられない、体の中に悪魔がいるだなんて」
「そうだよな、まあ、それだけマリ先生が必死ってことなのかもしれないよな」
「吸血事件の事?」
「ああ―――カイドーの兄貴が犠牲になったって、前に話してただろ」
「そうだったね」
「きっと、先生にとって特別な人だったんだ、そこまで思い詰めるくらいに大切な」
明言していたわけではないけれど、望月や二階堂の言葉を合わせて考えれば自ずと答えは見えてくる。
恐らくは恋人だったのだろう。
温和な彼女が、外見からは想像もできないほどの深い悲しみ、怒りに身を任せ、体に悪魔を宿してまで復讐を果たそうとする、それだけの想いを、死んでしまった二階堂の兄に抱いていた。
焦れる二階堂の気持ちが少しだけ理解できる。
望月を愛しているなら尚更、今の彼女の姿は見るに耐えないだろう。
「バッグを」
和哉の声に、篤郎たちが足を止めた。
「どうした、レン」
「バッグをカイドーに渡せばいいんじゃないかな」
「え?」
咄嗟の閃きだったけれど、考える程に上策の予感がしている。
「バッグを、マリ先生じゃなくて、カイドーに渡してみたらどうだろう」
「カイドーに?」
そう、と頷き返して、和哉は続ける。
「バッグの中身とクルースニクの事、カイドーに話してさ、そうしたら多分カイドーは自分がクドラクと戦おうとするんじゃないかな」
「カイドーがクドラクと?」
篤郎は徐々に理解した様子で、瞳を輝かせた。
「なるほど、冴えてるな、レン!」
「な、何?どういうこと?」
焦れた柚子が身を乗り出してきた。
「分かんないんだけど、それに、いくらカイドーがパズスを持っているからって、クドラクと戦うなんて危ないんじゃないの?」
毛嫌いしている様子でも、二階堂を気遣う柚子の善良さに、仄かに胸が温まる思いがする。
それとも単に確率の問題で難を示しただけなのだろうか。
ひねくれた考えを脇に押しやりつつ、和哉は篤郎に目を向けた。
「まあ聞けって」
察したらしい篤郎が、得意げに胸を張りながら講釈を務める。
「つまりだ、事情を説明して、マリ先生のバッグをカイドーに渡せば、カイドーはバッグをマリ先生に返さないだろう?」
「でしょうね、危ないって、絶対返さないと思う」
「けど、クドラクを倒せるのは、マリ先生の中のクルースニクしかいない」
「そう、なの?」
「そうだよ」
この辺りの知識は篤郎に無いだろうと、和哉は脇から補足する。
「吸血鬼を倒せるのは半吸血鬼、つまり、その力を持つ選ばれた存在にしか出来ない、クルースニクだけがクドラクを倒す力を持っている」
「へえ、流石だな、レン」
「アツロウも知ってたの?」
いいや、と答えて、篤郎は笑う。
「けど、レンが何考えてるのかは分かったからさ、つまりだ、クドラクは多分、この先もクルースニクと契約しているマリ先生をずっと狙い続ける、けど、マリ先生はクドラクを倒すまでクルースニクとの契約を解除しないだろう、カイドーはマリ先生を助けたい、クルースニクがクドラクを倒すために必要な羊膜の粉はカイドーが持っている」
「あっ」
「と、いうことは?」
「分かったぁ!」
声を上げたのは翠だった。
「えーっと、カイドーとクルースニクは、一緒にクドラクと戦わなくちゃいけない、そうでしょ?」
「そう、つまりだ」
「時間が稼げるのね!」
正解、と、和哉は笑う。
「和哉さん、冴えてるっ」
「レン、凄い!」
ぴょんと飛びついてきた翠を受け止めて、勢い抱きつこうとした柚子を受け止めようと腕を広げたけれど、すんでの所でハッと我に返った姿は頬を染めながらモジモジと後退りをした。
「と、とにかく、これでケイスケ君を説得できるね!」
「まずケイスケを探さなきゃだけどな」
「その前に、マリさんのバッグ、だよ!」
ふと空を見上げた篤郎が、今日はもう無理だよなあと差し込む西日に瞳を眇める。
「流石にカイドーも夜まで犯人探しはしないだろう、俺たちもそろそろ渋谷に戻らないと」
「そうだね」
以前は都心でも夕空を行く鳥の姿を見つけられた。
今は一羽の影すら見えない。
茜色の中で不穏な気配が渦巻くだけの、作り物めいた天蓋がビルの頭上に圧し掛かっている。
「行こうか」
誰ともなく歩き出した。
埃交じりの生ぬるい風が、夜の訪れを仄かに告げる。
それからさほどの時を置かず、和哉たちは無情の現実と対面する羽目になった。
全日、暴動の激化、悪魔使いと一般人の対立が表面化、自殺者の増加、社会的秩序崩壊―――
もう、以前の暮らしには戻れないかもしれない。
誰も口にしないけれど、想いは恐らく同じだろう。
宵闇の中、星明りさえ見つけられなくて、和哉は一人ベンチに腰掛けながら、仰向けた姿の双眸をそっと閉じた。