【都内某所:正午】
一体何が起こったのだろう。
周囲に広がる光景に唖然とする―――性質の悪い白昼夢でも見ているのだろうか。
全てが数分にも満たない出来事だった。
幼馴染の大地と、顔だけ知っていた同級生の新田維結。
とりわけ変化の無い、代わり映えもしない日常のワンシーン。
―――それは時折、喩え様の無い不安と共に込上げてきた疑問。
俺は何のために生きている?
地下鉄に降りる前、大地が似たような不安を口にしていた、こいつも案外考えているんだなと意外に思ったけれど、同時に、改めて未来という名の虚無を目前に突きつけられたようで、苦い想いが込上げた。
昔から人の顔色ばかり窺い、平凡である事を美徳とする周囲の意志に従いながら、同時に付き纏う漠然とした違和感の正体を見極められないまま先送りにし続けてきた回答を、今、求められている。
生きたいかと問われた。
無論、死にたくない。
けれど何故『生きたい』?
『生きる』とはどういう事なのだろう。
誰にも生まれてきた意味があると謳う言葉を耳にする、人生とは探し続ける事だと。
けれど、自分にはまだその意味が見つけられない、それなのに、生きたいかと問われてしまった。
生きるとは、多分、何かを成す事だ。
己を以て新たな価値を作り出す、そのために、選択する。
俺は選ばなければいけない、今、ここで。
このまま流れに身を任せるか、抗うか。
―――『生きたい』
人生を『生きて』みたい。
初めて自分が惜しいと思えた、俺はまだ何者にもなっていない、何も成していない、それなのに、こんな中途半端な場面で幕引きなど認められるものか。
生への渇望と共に蘇ってきたのは、かつてただ一度、自らの意志をもって現実に抗った記憶だった。
ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん。
(嘘じゃない、俺は)
そうだ、約束したんだ、あの子と。
こんな所で死んでたまるか。
「ふざけるな―――!」
呻くように漏らした声は、どこか産声に似て、熱を帯びた命の気配がした。
暗闇から目を開き、痛む体を引きずるように起こして、そして―――
白羽天人は、その時になって漸く(とんでもないことになった)と、状況を理解するに至った。
東京は壊れてしまった。
恐らくは、いや、そうに違いない。
日本国家の中枢を担う世界屈指の大都市。
利便性を追求し、あらゆる時間の無駄を厭う、快適で、安全な、飽食の地。
それがいまや見るも無残な有様と成り果てている。
隣で家や家族の心配をしている大地と維緒を窺いつつ、天人は内心、これはもうダメだなと超然的に状況を捉えていた。
勿論、不安はある、恐怖もある。
ついさっき半臓線構内にて得体の知れない存在と争ったばかりだ、しかも、それは仲魔とかいうものになって、いつの間にか携帯電話にインストールされていた悪魔召喚アプリとかいう胡散臭い代物に収納されていた。
正直わけが分からない、今後どうなるか想像すら及ばない。
けれど、幾つか分かることも、ある。
まず、当面帰宅は叶わないだろう。
(安全に一晩過ごせる場所を確保する必要あるかもな)
現状の収束は酷く遅れるか、恐らく―――不可能だ。
(自衛隊の救助を待つ?けど、それでも待っている間の事は自分で考えなくちゃいけない)
しかし、軍用ヘリどころか、報道関係のヘリすら頭上に影すら見えないとはどういう事なのか。
道路はこの有様だし、先ほどの半臓門線の状況から鑑みて鉄道関係も運行は不可能だろう、けれど障害物のない空までが沈黙している理由が気にかかる。
自衛隊の基地局に被害が及んでいると想定して、それでもやはり全ての基地がヘリを出立できない状況にあるとは考え辛い。
―――救助自体行われていない可能性も視野に入れておくべきだろうか。
ふと、天人の脳裏に両親の姿が浮かんだ。
父は現在海外出張中、母はお台場にあるテレビ局で収録予定と居間のホワイトボードに記してあった。
維緒の自宅も有明にあるという、それならついでと思い、大地と二人で維緒を家まで送ることに決めた。
テレビ局なら性質上、防災対策は万全のはずだ。
もしかしたら今の自分より母の状況は安全かもしれない。
(通信手段が何もないんじゃ、連絡の取りようがないもんな)
維緒が調べてくれた、現状、携帯電話や、何故か公衆電話、ラジオの類も使用不可能となっている。
情報収集できず、救助活動の状況も分からない、それ以前に何故こんな事になっているのか皆目検討も付かない状況で、ただ漫然と一箇所に留まり続けることは、得策で無いだろう。
歩き出そうとする天人たちを、不意に人ごみの中から呼ぶ声が上がった。
「君たち」
振り返ると近付いてくる背の高い女の姿を見つける。
長い黒髪を一本に束ねて、制服と思しきかっちりとした衣服に身を包んだ女は、改めて天人に視線を定めて「少しいいか?」と訊いてきた。
天人たちが地下鉄のホームから現れる姿を見たと言う、そして―――地下で何か見なかったかと、問う眼差しに半ば確信めいた想いが込められていると気付く。
(悪魔か?)
しかし、先の一件と女の関係に見当がつかない。
考え込む天人を見越したように大地と維緒が割り込んで早々に会話を終わらせると、三人は女の元から逃げるように立ち去った。
別れ際にチラリと窺った姿は、人ごみの向こうで微動だせず、まだじっと天人達を見詰めていた。
彼女は一体何者だろうと大地と維緒が話しこんでいる。
(政府の関係者かな)
咄嗟に浮かんだ考えも、やはり、明確な確証が得られず、天人は悶々とした想いを持て余す。
地震が起きてからずっとこんな調子だ、状況に流され続けている自身に不満を覚えている。
確かに、現状は非常に困難で先の一切が予測不能だけれど、だからこそ、落ち着いて、出来ること出来ないことの見極めをしなければならない。
多少楽観的な位の方が良いだろう、しかし行動は慎重に、何より、自分の事くらいははっきりさせておかなければ。
歩き続けて、気付けばいつの間にか六本木界隈まで辿り着いていた。
そしてヒルズ前を通り抜けようとしたその時、『それ』は起こったのだった。
「なあ、アレ」
大地が不意に足を止めた。
視線の先で数人の男女がもめている。
「頑張れ、あと少しだ!」
「ダメ、もう歩けない、足が痛くて」
「もうちょっとだから頑張ろうよ」
「けど俺も、さっきからずっと足が痛くて」
「ねえ、少し休みましょう?」
「そうだ、休もうぜ」
「しかし今の内に移動しておかなければ」
「平気だって、どうせそのうち救助が始まるだろ」
「そうよ、少しくらい休んだって、別に問題ないじゃない」
どうやら帰宅方向が同じ者同士で集団行動の最中らしい。
「そういや俺もすっかり足がヒノキの棒だぃ」
大地がしょぼんと項垂れた。
天人も歩き通しで足が痛い、振り返れば目の合った維緒にも僅かな疲労の色が見て取れる。
(新田も疲れてるみたいだな)
しかし、彼らのリーダー格らしき男性が告げていた通り、早めに行動しておかなければ、建物の倒壊や火災などで後々身動きが取れなくなる恐れもある。
どうしたものか考えていると、喉の渇きを訴えた大地に、維緒がバッグから飲みかけの水入りペットボトルを手渡そうとしていた。
「いいの?」
途端、顔を満面の喜色で染めた大地の様子に、対する維緒は戸惑いと困惑を露にしながら早く飲むよう促して、大地が仰々しくキャップを捻り、ペットボトルに口をつけようとした、まさにその時だった―――ふと何かに誘われるように見上げた空に、天人は奇妙な影を見つけた。
(何だ?)
目を凝らす間もなく『それ』は地上に到達する。
逆さにした円錐型の極彩色をした胴と海面の様な頭部を持つ物体、これは、生物なのだろうか?息衝く様に膨張と収縮を繰り返す海綿状の頭部の下で、極彩色の胴がクルクルと回転を続けている。
まるでアイスクリーム、もしくは、ジャイアントカプリコ―――の、イチゴ味に酷似しているけれど、こちらはまるで食指が動かない。
頭部が、不意に不穏な音を立てて、ブワリと大きく膨らんだ。
「な、何、これ」
集団帰宅者の面々も、いつの間にか言い争いを止めていた。
その内の一人が興味深そうに謎の物体に近付いていく。
他の者達も恐る恐る物体の周囲を取り囲み、彼らの様子を大地と維緒は固唾を呑んで見守っている。
「なんだ、ありゃあ」
途端、天人の全身を言い様のない恐怖が走り抜けていた。
込上げる予感と言うにはあまりに生々しい感覚と共に、握り締めていた携帯電話が震えたような気がして画面を開き覗いてみると、いつの間にか起動していた悪魔召喚アプリの画面に目の前の物体が表示されて、ドゥベ、と名称らしき表記が添えられていた。
(ドゥベ?)
貪狼星とも記されている。
脳裏に、確か星の名前だったかと、無駄に蓄えた知識が過ぎっていた。
(一体)
ドゥベの頭部は膨張を続けていた。
そして、何だか周りの空気が徐々に熱を帯びだしていることに気付き、天人は「危ない!」と鋭い声で彼らに注意を促した。
一瞬驚いた顔をした中の、数名が不快そうにおどかすなと口を尖らせる。
その間もドゥベの頭部は膨張し続けている。
「なあ、アレって、アレって」
ようやく事態の異様さに気付いた大地の上ずった声に煽られた様子で、維緒も震えながらにじるように後退りしつつ、ドゥベを凝視していた。
「まずいん、じゃ」
大地の言葉の途中で、急激に気温が上昇していくのを肌で感じ取った天人は「伏せろ!」と叫び、直後―――ドゥベの頭部が爆発した。
大地と維緒の悲鳴も重なる。
爆風に背中を押されてよろめきながら、天人は両腕で頭部を庇い、どうにか体勢を立て直して振り返ると、クルクルと回転する極彩色の胴の中にしぼんだピンク色の海綿に似た頭部だけが残っていて、辺り一体は残さず煤状の燃え滓に成り果てていた。
「あ、あ、あ」
おこりの様に戦慄きながら、大地がヨロヨロと後ろへ下がる。
座り込んだ維緒も歯の根が合っていない。
不穏な気配を纏い、ドゥベは、少しずつ天人たちのほうへ移動を始めた。
海綿が僅かに膨らむのを見て取った途端、天人は弾かれたように駆け出しながら、二人に「逃げろ!」と叫んでいた。
大地がクルリと背中を向けて、全力疾走で遠ざかっていく。
僅かに気懸かりを覚えた維緒も、即座に立ち上がって必死の形相で走り去っていった。
がむしゃらに足を急がせる背後で再び、ドオン、と、爆音が響き、熱風が吹きぬける。
嫌だ。
握り締めた拳の、掌に刺さる爪が痛い。
―――何故、こんな目に遭っているんだろう。
恐怖と焦りと共に、どこか冷静な自分が、ふとそんな事を考えていた。