(1998・春)
私物をバックに詰め込んで、チャックを閉じたふくらみを掌でパンパンと叩く。
「よし」
顔を上げて、家具だけ残った自室を見回した。
15畳もある屋内は、こうして改めて眺めると、やけに広く見える。
「―――さよなら」
呟いて、光は笑った。
その笑顔を見る人が在れば、どのような心境に至っただろうか。
御剣光はとても美しい青年である。
身長177センチメートルと背は高い方であるのに、少女と見間違うほどの麗しい美貌、しなやかな肢体、烏の濡羽のように黒く濡れた艶やかな髪は、襟足までの長さで清潔に整えられている、肌の色は唐焼物のように白く、長い睫と澄んだ瞳。
その目の色は、振り返り、縁台の下で光に晒されれば、途端金茶色に透ける。
浮世離れした雰囲気を纏い、仕草はどこまでも優美で、声は天上の音楽のように麗しい。
光が腕を伸ばすと、指先に鶯が舞い降りてきた。
鳴き声に顔を綻ばせていると、足音が近づいてくる。
「お兄様!」
鶯は飛んで行ってしまった。
入れ替わりに現れたのは、長い髪を後頭部の高い位置でひと括りにした、光によく似た美少女だった。
「遅いですわよ!」
脇に両手を添えて立ち構えている少女に、光は、朋恵、と呼びかけた。
「何をそんなに怒っているんだ」
「怒っているのではありません、お兄様を呼びに参っただけです」
「なら、そんなに大声でなくてもいいだろう?」
「まったく、貴方はどこまでのんびりなさっていられるのかしら」
私心配です、と、眉間を寄せる。
朋恵は、光の義理の妹だ。
「今日は―――大切な日ですのよ」
不意に浮かんだ憂いの気配。
光は朋恵をじっと見詰める。
「お兄様」
「分かっているよ」
兄の言葉に、妹は黙り込んでしまった。
朋恵の艶やかな黒髪をそっと撫でてやりながら、光はどこか達観した、穏やかな笑みを浮かべていた。
今日から、御剣光はたった一人で、千葉の実家を離れて、東京で1人暮らしをする。
場所は
通う学校も決まっていた。
光は今年で18歳である。
期待や不安といった言葉で表すには、あまりに切ない思いが胸にこみ上げていた。
朋恵の、細い肩にそっと触れて、そのまま華奢な肢体を抱きしめた。
壊れ物を扱うように、大切に、大切に、しっかりと腕の中に包み込んだ。
朋恵も背中に腕を回して、縋るようにしがみついてくる。
此の世にただ2人きりの兄妹。
かけがえのない半身、何より尊い、愛しい人。
「お兄様、お元気でね」
顔を上げた朋恵が、どこか泣いているように見えたから、光は一層優しく微笑んでいた。
思い出に残る表情ならば、笑顔がいい、そう思ったから。
姿を見て、朋恵も、嬉しそうに微笑を返してくれた。
十分だ―――光は朋恵をそっと手放し、最後に髪をひと梳きする。
朋恵はくすぐったそうに笑う。
「さあ、お兄様、表に車を用意してあります」
「俺なら一人で構わないよ」
「そうは参りません、私の使命にかけて、お送りさせていただきます」
「なんだ、それは」
「ウフフ、これくらいお聞き届けくださいませ、お兄様のお世話をするのが、私の使命なのですから」
参りましょうと手を引かれて。
光は歩き出す。
チリチリと、どこかから鈴の音が聞こえていた。
朋恵の髪に挿したかんざしの音だろうか。
(いや)
バッグを肩に担ぎなおして、杉張りの廊下を踏みしめるように進んでいく。
総ては、これから。
縁台から望む、整えられた庭園で咲き誇る、見事な桜の枝の合間から、鶯が手向けの歌を謡っていた。
(続きへ)