駅について、朋恵に見送られて、東京行きの電車に乗った。
「御武運を」
その言葉が耳から離れない。
妹は最後まで涙を見せなった―――強い子だと思う。
そうして新学期が始まるまでの僅かの期間、日々は、あっという間に過ぎ去っていった。
正面にある門柱の文字を改めて読み返して、吐息を漏らす。
実を言うと、光は今に至るまで、屋敷の外の世界というものを殆ど知らずに育ってきた。
だから、一人で暮らすのも、こうして学校という教育機関に世話になるのも、何もかもが初めてづくしだ。
当然、日々は驚きと学習の連続で、覚えることの多さに少しだけ困っている。
人の多いこと、日常の細々した雑事、そして何より―――世の忙しなさ。
人によく見られるのも不思議だった。
彼らは大概、話しかけてくるわけでもなく、ただ見ている、それこそ、呆けたようにぼんやり立ち尽くしていたり、中には座り込んでしまう者までいた、理由に皆目見当がつかない。
今日、登校している最中も、そんな姿を結構な数見かけたような気がする。
(俺が、地方出身だって、わかるのかな)
光は奥の校舎に視線を移した。
気を取り直して、敷居を跨ぎ、力強く一歩踏み出した。
続く道のりの傍らで、桜が美しく趣を添えている。
新築の建造物、その反対側で、ひっそりと佇む朽ちかけた木造の大きな建物。
(あれも校舎なのかな?)
人の気配がまるでしないから、今は使われていないものらしい。
少し遅れてきなさいと担任教諭の言伝どおりに登校したので、ここには今、光1人きりのようだった。
他の生徒は『教室』で『授業』を受けているのだろう。
何だかソワソワする。
校舎に入り、あらかじめ教えられていた職員室にたどり着くと、初老の女性がとても親切に案内してくれた。
後で彼女もこの学校の教員なのだと教えられた。
教えてくれたのは、マリア・アルカードという女性。
光の編入する3年C組の担任教諭だと自己紹介をしてくれた。
「この時期に転校なんて、大変かもしれないけれど、一緒に頑張りましょうね」
はい、と答えると、マリアは綺麗な顔に微笑を浮かべた。
「困っていたらなんでも訊いてね、そのための担任なのだから」
「有難うございます」
「これから一緒に頑張りましょう、先生も、一日も早く貴方がここに馴染んでくれたら、嬉しいわ」
屋内にいた数名の教員からも、よろしくと声をかけられて、笑顔で応答しながら、光は促されて隣の机の椅子に腰を下ろした。
簡単なアンケートに回答して欲しいと言う。
マリアは終わったら教室まで来るように告げて、クラスの場所を教えると、すぐ立ち去ってしまった。
他の教員たちも、皆それぞれに部屋を出て行く。
残された光はただ一人、急いでペンを走らせながら、静かな職員室内に響く時計の音を聞いていた。
(何だか、親切な人ばかりだ)
―――朋恵は外の世界をよく見ておきなさいと言っていた。
それが、『望み』に繋がるから。
思わず僅かに目を閉じる。
どこかでチリチリと鈴が鳴ったような気がしていた。
記入を済ませたアンケートは、マリアの机の上においてきた。
職員室を出て、階段を3階分上った後、廊下の、それぞれの扉の上に掲げられたプレートを、目で一つずつ確認していく。
3-C
あれか。
辺りに人の姿はなかったけれど、閉じられたドアや、廊下に面した教室のすりガラスの窓の向こう側から、大勢の気配が伝わってくる。
今日からここで過ごすのかと、感慨深い想いがこみ上げてくるようだった。
学校とはどのようなものだろう。
ここで、どんな人たちが待っているのか。
歩み寄った扉の手前で、少し気持ちを落ち着けて、取手の窪みに指をかけようとしたとき。
「おいッ」
声だ。
「おい!」
振り返ると、廊下の先、上ってきた階段の影から、こちらを見ている人がいる。
「お前ッ」
ひょこっと飛び出してきた、茶色の髪の少年は、そのまま忍び足で光の傍まで駆け寄ってきた。
同じ真神の制服を着て、肩には紫の布で包んだ刀剣のようなものを担いでいる。
「ひょっとして、今朝、うちの女どもが騒いでた転校生か」
「え?」
「どうなんだよッ」
同じ程度の背丈、凛々しい眉に気の強そうな目つき、鼻から口元にかけて、意志の強さも伺えるような好ましい容貌をしている、彼からは、夏の日差しのような気配が漂っていた。
少年は不躾に顔を突き出している。
驚いたけれど、決して悪意があるようではなかったから、光は微笑んで返した。
「多分、そうだと思うけれど」
途端、少年がウッと口ごもる。
「お、お前」
顔が赤い。
「お前、名前は?」
妙に気まずそうな様子で、視線を逸らされてしまった。
「御剣光といいます」
「そうか、俺は、蓬莱寺京一だ」
「蓬莱寺」
(凄い名前)
なるほど、体が名を表しているのか。
光は蓬莱寺をまじまじと見詰めなおす。
「ぬぁーッ、な、なぁ!お前、その、御剣」
「はい」
蓬莱寺がようやくこちらを見た。
「あの、さ」
何か言い出そうとしたとき、光の背後で、扉が開き、マリアが顔を覗かせた。
「御剣君?あら、蓬莱寺君」
「あッ」
今度は途端に慌てた様子で、蓬莱寺は仰々しく体を仰け反らす。
(何て騒がしい人だろう)
「どうして貴方が御剣君と一緒にいるのかしら?」
「え、えーとその、ぼ、僕はッ」
「蓬莱寺君」
マリアが急に、怖い顔になった。
すると、蓬莱寺は、突然光の肩を捕まえて、前に押し出しながら、自身は背後に隠れてしまった。
「僕、御剣君の道案内をしていたんです、こいつ、あいや、彼が教室分からないって言うもんだから」
「―――そうなの?」
驚いてマリアを見詰めた途端、蓬莱寺の指先が肩に食い込んでくる。
光は、僅かに戸惑い、かすかに嘆息しながら、そうですと肯定した。
「まあ、それは、仕方のないことね」
マリアもほんの僅かため息を漏らす。
どうやらお見通しのようである。
「わかりました、蓬莱寺君、用事が済んだなら、早く教室に入りなさい」
「はーい」
調子のいい声と共に、手が離れて、蓬莱寺が脇をすり抜けた。
瞬間ポンと背中を叩かれて、目が合うと片目を一瞬瞑ってみせてから、そのままさっさと行ってしまう。
マリアがすぐに振り返って、困り顔で微笑まれた。
「御剣君、貴方も、転校初日から、いけませんよ?」
「すみません」
「フフ、さあ、お入りなさい、他のクラスの皆にも、貴方を紹介しないと」
改めて促されて、ようやく教室の中へと進む。
唐突の出会いは、しかし嫌悪感よりも、興味の方が強く感じるようだった。
クラスの殆どが、喜んで迎え入れてくれたらしい。
光が姿を現すと、途端、それまでざわついていた室内が一瞬にして静まり返り、自己紹介が終わった後は、質問の嵐が巻き起こった。
今まで住んでいた場所は、家族構成は、星座は、血液型は、彼女はいるのか、彼氏はいるのかと。
正直、よくわからない質問が多くて、困惑させられるばかりだった。
どうにかマリアが収拾をつけて、授業を始めることができたけれど、その後も光への質問攻めは休み時間のたびに繰り返されて、三時間目が始まる頃には、少しグッタリしてしまった。
こんなに大勢の人と一時に話したことなど、今まで体験したことがなかったから。
数人の話は聞き取れるけれど、流石にこの人数では、同時に対処がとても難しい。
ため息を漏らすと、隣から、ふと声をかけられた。
「ねえ」
光は首を僅かに傾ける。
「御剣君」
何、と小声で返事をした。
「その、大丈夫?」
「え」
「皆悪気はないと思うの、明日には落ち着くだろうから」
「あ、いや、大丈夫、気にしないで、嫌ではないから」
「そう」
「有難う」
ううん、と首を振り、こちらこそ、ゴメンね、と微笑み返す、少女の名前は美里葵という。
一時間目開始直後に、そう自己紹介を受けたのだった。
まだ教科書の揃っていない光に、朝からずっと教科書を見せてくれて、他にも色々と気遣ってくれている。
黒く艶やかな長い髪と、透けるように白い肌をした、美里は光の知る限りではとても綺麗な女性だ。
澄んだ瞳の奥に、見て取れるほどの穏やかな慈愛を湛えている。
雰囲気が、どこか、郷里の妹に似ているようで、知り合ってすぐ光は彼女に強い親近感を覚えていた。
嬉しいことに、美里も同じ様に思ってくれたらしく、滲み出す気配が伝わってくる。
話しついでに肩を寄せて、授業の進み具合を教わっている最中、背後から突然、物音が鳴り響いた。
振り返ると、険のある眼差しに睨み付けられる。
筋肉質の、相の悪い男が、片足を前に突き出して椅子の上で反り返っていた。
手前で机が前倒しになっている。
どうやら蹴り倒したらしい。
「佐久間!」
今の時間の担当教諭の叱責の声を意にも介さず、佐久間と呼ばれた少年は、光にひとしきり眼を付けた後で、ふらりと立ち上がって、そのまま教室を出て行ってしまった。
向こうで机に突っ伏していた蓬莱寺が顔を上げて、何事かと辺りを見回している。
「御剣君」
怯えた声に、振り返ると、美里が困惑した表情を浮かべていた。
光は困り顔で微笑みかけながら、先ほどの佐久間の視線の意味を考えていた。
(続きへ)