蓬莱寺が戻ってくるまでの間、何となく手持ち無沙汰で、打ちっぱなしのコンクリートの上に腰を下して、ぼんやり景色を眺めていた。
千葉の邸宅も、ここも、春は等しく訪れるのに、どうしてこんなに違っているのだろうか。
実家にいた頃、今のような騒がしさはまるでなかった。
そしてこの学園には、千葉の邸宅のような粛々とした雰囲気はない。
(それでも、花の香りだけは変わらないんだな)
何となく眠いような気分がする。
春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、うららかな日差しは、どこか心を和ませるものがある。
寛いだ気分で、そっと目を閉じた。
両手足を放り出して、ただ風と、鳥の声に耳を傾ける。
靴音が聞こえてくる。
誰か近づいてくるようだ。
(誰だろう)
気配がして、睫に吐息が吹きかかった。
そっと見開くと、至近距離で覗き込んでいた蓬莱寺と目が合った。
「う、うわ!」
声を上げて、後ろに倒れる様子を、唖然としながら見送る。
「お前、起きてたのかよ!」
「蓬莱寺」
「俺はてっきり、寝ちまったのかと思って、あー畜生!驚いたじゃねえかッ」
何も悪い事をしていないのに、と、光は多少困惑しつつ、すまないと詫びる。
「ちょっとウトウトしていたんだ」
「そうかよ」
「あの」
「ほら、お前の弁当、持ってきてやったぜ」
包みを手渡されて、おとなしく受け取った。
蓬莱寺は斜め隣に腰を下ろすと、持っていたビニール袋を開いて、中からパンを取り出した。
「飲み物は、無いんだよな?」
「うん」
「じゃ、緑茶とコーヒーどっちがいい?」
「緑茶、俺、コーヒーは飲めないから」
「へえ、可愛いな」
からかうように口にした直後、蓬莱寺の顔が赤く染まる。
「いや、俺どうしちまったんだ、いきなり、わけのわかんねえ事を」
手渡された緑茶を傍らに置いて、光は弁当の包みを解いた。
「おッ、すげえ!」
蓬莱寺が歓声を上げて覗き込んできた。
「綺麗に盛り付けてあるなあ、肉に魚に野菜に卵、勢ぞろいじゃねえか、しかも、凄ェうまそう」
「有難う」
「いや、お前作ったんじゃないだろ」
「自作だよ」
「は?」
「一人暮らしだから、食事は全部自分で用意する、これも、今朝俺が作った」
生きていく術は一通り教わっている。
決して大げさな物言いではなく、あらゆる意味で、光に、独りで出来ない事など無いに等しかった。
そのように育てられたのだ。
光の教師は、妹の朋恵であった。
蓬莱寺が急に黙り込んでしまったから、何事かと伺ってみれば、尊敬の眼差しが返ってくる。
「御剣、お前って、凄いな」
「そんな事ないよ」
「なあ、ちょっと味見してもいいか?」
「どうぞ」
この中で、一番の自信作は玉子焼きだ。
箸でつまんで、蓬莱寺の口元まで運んでやると、勢いよく食いついてくる。
何だかおかしくて、光は少しだけ笑った。
「美味しい?」
「うッ」
蓬莱寺が目を剥いた。
モグモグと咀嚼して、一気に飲み下す。
「う、うめえ!これ、ヤベぇよ御剣―――も、ちょっと、味見しちゃだめか?」
「構わないけれど」
「じゃ、これと、これと、これな!」
「はい」
順に取って、食べさせてやると、面白いようによく食べる。
興奮した様子の蓬莱寺を眺めながら、彼の母親は、もしかしたら調理が苦手なのかもしれないなどと、下世話なことを考えてしまった。
光の腕前は、師匠である朋恵に遠く及ばないのだ。
この程度で喜んでもらえるなんて、何だか少し気恥ずかしいような想いすらある。
「ああ、旨い、俺はシアワセだ、このまま死んでも本望だ」
「大げさだよ」
「そんなことねえって、はー、飯も上手いし、顔もいい、おまけに性格も良さそうだ、なあお前、前のガッコじゃさぞかしモテたんだろうなあ」
「モテ?」
「そ、モテモテ」
ニコニコしている蓬莱寺に、それは何か聞こうとして、光はため息を漏らす。
「入れ食い状態ってか、がっついてねえもんなあ、隣に美里居ても、アプローチもナシだし」
「アプローチ?」
「アレだけのタマだぞ、普通意識するだろ」
「意識なら、してるけど」
「えッ、そうなの?」
「彼女、親切でいい人だよな、色々気遣ってくれて、感謝しているよ」
「それで?」
「何?」
「―――終わりかよ」
気の抜けた声を上げて、蓬莱寺はコンクリートの上にごろりと仰向けに倒れた。
「なんか不満だ、色々、ずるいぜ」
「蓬莱寺は美里のことが好きなのか?」
「ああ?まさか、俺とは住む世界が違いすぎるぜ」
よっと、の掛け声と共に、起き上がってくる。
「まあ、分不相応な奴等もいるみたいだけどな」
「何?」
「例えば、佐久間」
名前を聞いて、少し考えて、光は三時間目の出来事を思い出していた。
「知ってるか?」
「今日の三時間目に」
「ああ、そいつ、あんな潰れた柿みたいな面しやがって、美里に惚れてやがんだぜ」
「そうなのか?」
「おうよ、ったく、家に鏡がねえんだろうなあ」
かわいそうに、と付足した、蓬莱寺の言葉の意味が、光にはいまいち伝わらない。
「まあ、他の奴等なんて大した事ねえけどよ、アイツに関しちゃ、厄介だから関わらない方がいいぜ」
光は、弁当箱のおかずを箸で摘んで口に入れた。
美里に関して抱く思いは、異性というより、親族のそれに近い。
蓬莱寺がレクチャーの続きしていたけれど、正直あまり耳に入って来なかった。
恋愛感情とは、どんなものなのだろう。
身に覚えの無い想いに想像すら及ばない。
性別の概念がそもそも存在していないから、蓬莱寺が女性に固執する気持ちもわからなかった。
(理屈は理解できるけれど)
精々推し量る程度で、それ以上となると、さっぱりだ。
上の空に感づいた蓬莱寺が適当なところで話を切り上げて、再び弁当のおかずをねだってきた。
代わりにパンを半分貰って、齧りながらこれは何かと尋ねる。
「やきそばパン、旨いだろ」
「生姜が入ってる、面白いな」
「うちじゃ一番人気なんだぜ、運が悪いと売り切れちまう」
「そうか」
「お前って、相当変わってるよな」
脈絡のない話に不思議そうな顔をした光をほったらかしにしたまま、蓬莱寺はコーヒーを飲んでいた。
花びらが空を舞っている。
「なあ、御剣、今度一緒に遊びに行かないか?」
「どこへ?」
「どこでも、お前、千葉から転校してきたんだろ、東京は初めてか」
「そうだけど」
「んじゃ、手始めに新宿から、そんで他の場所もボチボチ案内してやるよ」
「有難う」
「いやいや、気にすんな、これも戦略の内だから」
「戦略?」
「タイでタイを釣るってな、ハハハ」
空になった弁当箱に、蓋をする。
丁寧に包みなおしながら、光はなんともなしに、屋上の周囲を囲っている鉄柵に目を向けていた。
淵から桜の枝がちらほらと見え隠れしている。
立ち上がって、近づいていくと、ここからは校庭が良く見渡せた。
「綺麗だろ」
蓬莱寺の声を背中に受けながら、ああ、と返して、柵に手をかけた。
敷地内を彩る花霞。
舞い散る一片が風に乗ってこんな場所まで飛んでくる。
自宅の庭も、爛漫の桜で溢れていた。
縁台の上に花びらが落ちて、昔はよくそれを繋げて作った首飾りを朋恵と2人で贈りあったものだった。
懐かしさにほんの少し瞳を眇める。
千葉から出てきて間もないはずなのに、どれも遥か遠い思い出のようだ。
ぼんやり眺める景色の中に、不意に一滴、黒く滲むような人影に気づく。
(何だろう?)
気に懸かって、瞳を凝らした。
紅色に紛れるように佇む、背の高い誰か。
群青の制服のようなものを纏い、木陰に潜むようにして、こちらを―――見ている?
「御剣」
蓬莱寺の声が急に遠くなった。
話している言葉がわからない。
ただ、咽るような花の香と色だけが押し寄せてくるようだ。
(あれは、誰なんだろう)
意識の総てが影に向かっていく。
ぞわぞわと、背筋を這い登り、何かの気配が脳髄まで浸食を始める。
これは何だ。
知らないはずだ。
しらない、ハズ?
(誰だ)
舞い散る花びらのせいで、顔がよく見えなかった。
視線だけ感じる。
唐突に向けられた強烈な殺意に、光は一瞬血の気が引いた。
(何、これ)
穿つような感情、けれど、それは。
「だ、れ」
殺意だけじゃない。
あふれ出し、押し寄せて、そのまま飲み込まれそうになる。
―――知っている。
(知らない)
―――憶えている。
(そんなはずない、俺は、こんなの)
知らない。
額が疼いた。
圧迫感に息ができない。
光の双眸に、知らぬ間に、金の光が宿っていた。
瞬きもできないほど激しく見詰め合う。
影が、熱烈に光を見詰め返してくる。
煙るような花びらの向こう、確かに知らないはず、なのに、どこか懐かしい、心を引き裂かれそうなほど、苦しく、痛い思いが込み上げてくる。
(誰?)
まさか、アレなのだろうか。
(違う)
本能が即座に否定した、光は、脳裏に浮かび上がる桜の気配に息を呑んだ。
知っている。
俺は知っている。
アレは『アレ』じゃない、あれは、彼は―――
「危ない!」
衝撃と共に、激しく揺れる視界。
光はハッと息を呑んで、我に返った。
気づけば、体は柵を半分以上乗り越えて、蓬莱寺が腰にしがみつくように腕を回して、あと一歩のところをどうにか引き止めてくれたようだった。
そのままバランスを崩した2人は、重なり合うようにして仰向けに倒れこむ。
ぶつかった弾みに背中で漏れた声に、光は慌てて起き上がると、まだ同じ体勢で呻いている蓬莱寺を覗き込んだ。
「蓬莱寺!」
「御剣、お前、何やってんだ!」
「ご、ごめん」
「うう、痛ぇ、危ないから気をつけろって、言ってやったばかりじゃねえかッ」
「本当にすまない、大丈夫か?」
「これくらいなんでもねえよ、それより」
お前、何を見ていたんだと。
後頭部を擦りながら起き上がった蓬莱寺に訊かれて、光は即座に答えることが出来なかった。
「―――桜」
「は?」
「桜に、見惚れた」
「はあ?何だそりゃ、そんな理由でおっ死んじまったら、花見どころじゃねえだろが」
「そうだな」
「おいおい、しっかりしろよ」
呆れた調子で返されて、けれど光は、苦笑いを浮かべるだけで精一杯だった。
―――あれは、誰だったんだろう。
(俺はさっき、確かに、知っていると)
けれどすでにそんな想いは微塵も湧いてこない、今見ていた影も、影としか認識できていなかった。
あとほんの少しで表情まで見えるような気がしたのに。
思い出そうとすると、不意に額が疼き、掌をあてる仕草に気づいた蓬莱寺が大丈夫かと訊いてきた。
「平気、何でもないから」
「そうか?何だかお前、顔色悪いぜ」
「今、落ちそうになったからだと思う」
「だったら以後気をつけやがれ、出会ってすぐ死なれたんじゃ、俺の寝起きが悪くなるだろ」
憎まれ口に返す言葉もない。
ショボンと項垂れた光に、蓬莱寺は何故か大いに慌てて、背中に腕を回しながら、色々と取り繕うようなことを言ってくれた。
「いいよ」
思わず苦笑いで返すと、ホッとしたような笑顔が浮かぶ。
「あのなあ、親切なクラスメイトに、余計な心配かけんじゃねえぞ、とんでもねえよお前」
「うん、ごめん」
「おっと、予鈴鳴ったな」
青空に鐘の音が鳴り響きだした。
「教室戻ろうぜ」
「うん」
歩き出す直前、光は、こっそり鉄柵の向こうをもう一度だけ伺い見た。
花びらの散る景色は相変わらずだけれど、影の姿はどこにもない。
(気のせい、だったのか)
ほんのついさっきの出来事が、まるで、幻のように記憶から消えつつある。
僅かに抱いた疑問も、同じ様に薄れて、光の中から払拭されていくのだった。
(続きへ)