喫茶店から出た途端、クラスメイトの女子二人に頭から布をかぶせられて光はお化け屋敷まで強制連行された。
布の向こう側、背後から、如月と村雨が口々に頑張れと呼びかける声を聞きながら、気配を窺ってみるとかなり大量に人が集まっているようだった。
入り口側からざわめきと「おおっ」とか「あれがっ」とか歓声が上がっている。
出口のほうから所定の位置まで連れて行かれると、ようやく布を取られて、彼女たちは急にゴメンネと申し訳なさそうに頭を下げた。
「でも、光君目当ての人って沢山いるから、どうしてもここまで人目にさらすわけにいかなくて」
「俺目当て?」
「そうだよ、御剣君のおかげでお客さんたくさん入ってるんだから、頑張って脅かしてね!」
脅かすといっても、光は物陰からバックライトの照射とともに現れて、恨めしそうな顔をしてまた暗幕の陰に隠れるだけだ。それが、バンシーの演出であるらしい。
そんなもののどこが怖いのかとしきりに首を傾げる彼に、ともかくよろしくと告げてクラスメイトは出て行った。
休憩前もこの演技で苦情は出てこなかったし、そんなものかなと考え直して光はスタンバイの位置の椅子に腰を下ろす。
こんなにたくさんの人と接する機会など、多分もう二度とないだろう。
考えてみれば、学校に通いだしたのも高校生になってからで、ここ数年で自分は随分と貴重な体験をしてきたものだなと改めて感慨深く思う。
真神に転校してくる前の高校には、それでも朋恵の許しのあったときにしか登校できなかった。
境遇に不満を感じた事は一度もない。
それが自身の役割なのだと考えて、どのような言葉や状況も素直に受け入れてきた。
だから、この一年は自分にとって、本当の意味で未知の出来事だらけだった。
一人で暮らすことも、毎日登校することも、たくさん友達が出来たことも、何もかもが生まれて初めての体験だった。
人と関わり、結びついていくことがどれだけ尊いことであるのか、それは蓬莱寺や美里が教えてくれた。
如月や村雨のような存在が自分を影ながら守っていてくれることも、実感を伴う認識として得られた。
大切なものを守りたいと願う強さ、失う恐ろしさ。
そして―――心というものが、どれほど脆く儚いものであるかという事も、この一年で知った。
「でも、俺は諦めていない」
自分にしか聞こえないほどの声で、光は呟く。
「諦められないんだ、どうしても」
言葉の端から血が滲むようだ。
それは、破滅の呪文。破壊の言葉。けれど、俺は望みを抑えられない。
いっそ心など失って、本物の「器」になってしまえたら、どれほど楽だったろうか。
剣など道具だ、何故心が宿る必要があるんだ。
俺のことなど勝手に使えばいい。
自由に振るって、万民の望む秩序とやらを手に入れたらいい。
この身に宿る宿命など、俺個人の思惑とは関係なければよかったのに。
もうこれ以上、誰の涙も見ないで済むためにはどうしたらいいんだろう。
「いっそ」
俺が壊れてしまえば、いいんだろうか。
「御剣、ライト当てるぞ」
照明係りの声でハッと我に返って、光は判ったと短く答えていた。
(今考えていても仕方ないな、ちゃんと演技しないと)
足音が近づいた頃合を見計らって、照らされた明りとともにふらりと彼らの目の前に現れる。
もう今朝からずっとそうだったけれど、今度の客も息を呑んでその場に立ち竦んでしまった。
暗幕の影に戻りつつ、バンシーというのはそんなに恐ろしい怪物なのかと改めて考えていた。
今度、図書館で調べてみよう。
悲鳴と走り去っていく気配を感じながら、光は苦笑を洩らしていた。
「残り、どれくらいなんだ?」
「あと一時間って所だな、そしたら文化祭終了、お待ちかねのキャンプファイヤーとダンスだ」
暗幕が貼ってあるから外の様子はわからないが、多分もう随分と暗くなっているのだろう。
照明係りは持ち回りのようだったけれど、光はあれからずっとお化けを演じ続けていた。
途中、何度か彼を気遣った女生徒達が言いづらそうに勧めてくれた休憩を、光は全部断った。
お化け屋敷は好評のようだし、クラスメイトは役の続行を無言で希望していたから、彼らの期待にこたえたくてしたことだった。
頼りにされるのは嫌じゃないし、出番以外は椅子に座っているからそれほど疲れてもいない。
他の出店をあちこち見に行きたいと多少は思っていたけれど、このままではふらつけないし、着替えにいく時間もないだろう。
何よりお化けが顔を明かしていては、後で客としてやってきた人があまり驚かないかもしれない。
そう言うと、前の照明係りは真面目だねえとしきりに感心しながら今の生徒と交代して出て行ってしまった。
「けど、あんまり我慢するのはよくないと、俺は思うぜ」
ライトを当てる直前、今の照明係りにぽつりと言われて、光は苦笑していた。
「そんなものじゃないんだよ」
ただみんなを喜ばせたいだけだ。
俺が壊してしまうだろう、みんなの笑顔を見ていたいだけなんだ。
今度の客も悲鳴をあげて走っていった。
前にも見た顔のような気もしたけれど、どうやらよっぽどこのバンシーが怖いらしい。
椅子に戻ると、照明係りがちょっとトイレに行ってくると耳元で囁いた。
「代わりの奴呼んでくるから、ライトの心配は要らないぜ」
「わかった」
気配が遠ざかるのを感じながら、暗闇の中で光は目を閉じる。
暗幕で区切られた室内は暖かくて、こうしているとまるで母親の胎内に戻ったようだ。
もっとも、そんな小さな頃の記憶などないし、ましてや自分は父親も母親も写真でしか見たことがないのだから、全てはただの空想だ。
光でもなく、闇でもなく、混沌とした中、ただ命のざわめきだけが聞こえてくる閉ざされた世界。
人はその頃に戻りたくて、死ぬのかもしれない。
現世は気まぐれで恐ろしく、儚い美しさと一瞬の喜びだけが心を慰める友であるから、それすら失った心はまた混沌に帰っていくのだろう。
あの、苦しみも、悲しみも、喜びすらない、唯一先の見えない世界への予感だけに満ちた殻の中へと。
呼びかける声がしたように思って、光は目を開けた。