「交代に来たのか?」
小声で様子を伺う。
明りがなくてよく見えないから、確認と伝達手段は触れることと声だけだ。
コトリと物音がして、なにかが頬を這った。
その冷たい感触に覚えがある。
光の背筋を、電流のようなものが駆け抜けていく。
「光」
囁くような声。
忘れることの出来ない存在。
額に口づけられて、喉からやっと掠れた言葉が漏れる。
「く、れは」
カタカタと全身が震えていて、身じろぎすら出来なかった。
クスリと小さく笑われて、気配が椅子の前にしゃがみこむ。
そのまま胴に回された両腕が、まるで壊れ物でも扱うようにそっと光を抱き寄せた。
腹の辺りにうずまっている、髪に触れる。
「光、また来たよ、今日は随分と可愛らしい格好をしているね」
僕好みだよ、と微かに笑いの気配がした。
「紅葉、どうして―――京一達、は」
「僕の気は今君の気に同調させてある、それに、時間の流れを少しだけいじらせてもらった、だからしばらくは邪魔されないで済むよ」
そんな力まで手に入れたのか。
脳裏に一瞬影生の姿がよぎる。
「く、紅葉」
「光、声が震えているみたいだけど、僕が怖いのかな?」
「そ、んなこと、は、ない」
これは、多分これから起こるだろう出来事に対して、無意識に拒絶反応が現れているだけだ。
剣の意識と光自身の間で、激しい葛藤が起こっている。
逃げ出したい、彼を退けなければと思う一方で、また会えて嬉しいと素直な想いが告げている。
どれほど傷つけられても、彼への想いにわずかな曇りも生まれようがなかった。
壬生は、光が最初に知った「世界」そのものだから。
守るべきものも、戦う意味も、全て彼と共にある。
「紅葉は」
喘ぐように言葉を紡いだ。
「紅葉と、あの、影生とか言う男は、どういう関係なんだ?」
気配がピクリと震える。
「―――依人は僕の友人だ」
「でもっ」
光は思わず手の内を握り締めた。
「彼は、もっとお前と親密なようだった、俺のことも知っていた、彼は、彼は」
「君が心配しているような事は何もない、本当だ」
声色の変化に、強ばっていた指先がわずかにほぐれた。
紅葉は胸の辺りからこちらを見上げている。闇に、その表情が微かに見えた。
「拳武まで僕の事を調べに来たそうだね」
掌がそっと背中を撫でる。
「彼が何を言ったのか知らないけれど、君が不安に思うようなことは何もない、昔も、今も、ぼくの中にはたった一人への想いしかない」
「でも」
「欲しいのは君だけだ、光」
言葉は急に熱を帯びた。
光はまた少し震えてしまう。
「僕には君しか要らない、君以外必要ない、君のいない人生に意味なんて存在しない」
再会を果たすまでの日々、妄執の鬼のようになっていた。君はその頃の僕を知らない。
心に穿たれた穴は大きく、あまりに深すぎて、自力では修復不可能だった。
チャンスをくれたのは影生だ、けれど、この虚ろは君でなければ埋まらない。
五年前から何一つ変わっていない。時計は今も止まったままだ。
「君が欲しいんだ」
壬生の声に、光は答えられない。
思いはとうの昔に決まっているのに、未練がましい責任感が最後の言葉を押しとどめていた。
「君を取り巻く全て、守姫や、守人、御剣の名前、その全てから君を連れ出したい、僕一人だけのものにしてしまいたい」
そんな一個人の望みなど、御剣という名の前ではまかり通るはずもない。
だからこその六門封神なのだろう。そして、自身の行為が示唆する未来を、壬生は恐らく知らない。
伝わる温もりに全てをゆだねて、光はそっと瞳を閉じていた。
今の彼は―――多分、その想いを何者かに利用されている。
ようやく気づくことが出来た。
裏で糸を引いているのは、彼の様子から推し量るに、多分あの影生とか言う少年では無いだろう。
一番後ろに控えている巨大な闇こそが、真に剣の消滅を願っている。
真実に気付いても光にできる事は何もなかった。
「紅葉」
そっと髪を撫でる。
彼の中に生まれた闇は壬生自身の問題であり、俺の問題だ。
俺が壬生を縛り付けている。俺が壬生に縛られているのと同じように。
(それなら、いっそ―――)
「光」
気配が近づいてくる。
もう傷つけなくても、封印はたやすく施されてしまうだろう。
あと一度口づければ、全てが終わる。
出来ればその前に、彼にはこちら側に戻ってきて欲しい。
けれど、そのために―――その胸の内の闇を消すには、どうすればいいのだろう。
何もわからなかった。
愛しさに押しつぶされて、このまま死んでも構わないとさえ思えた。
(すまない、朋恵)
涙が頬を伝う。
唇が重なった。
自分で噛んで傷つけた舌を口腔内に差し出すと、壬生の体がわずかに震えた。
喉の奥に流れ込んでくる鉄さびた味を飲み込んで、唇が離れていく。
「光、すまない、光ッ―――」
壬生の声が震えている。
力なく崩れ落ちる体を抱きかかえて、肩口に何度も頭を摺り寄せてくる。
「僕は、もう戻れないんだ、あの頃にはもう、戻る方法をなくしてしまった」
泣かないでいいと言いたいのに、声すら出てこなかった。
ようやく動かした腕を伸ばして髪に触れて、表面を何度も撫でる。
懐かしい指触りに心が震える。
「君無しではもう、僕は壊れてしまう、だから、君をくれ、光」
妄執しているのは僕なのか、君なのか。
殆ど意識の無い光をそっと椅子に凭れ掛けて、壬生は立ち上がっていた。
「次で、最後だ―――また来るよ、光」
気配がフッと途切れる。
呼び止めようとする前に、光の意識もそのまま闇の底へと落ちていった。