扉の開く音で振り返ると、紺のワンピース姿の朋恵が立っていた。
その少し後ろに如月が控えている。片手に、深紫の袋を持っていた。
「そいつは」
ピンと感づく蓬莱寺に、如月は傍まで来て袋を手渡した。
「これは君が預かっているものだ、持っているといい」
両手でしっかりと受け取って、蓬莱寺は頷く。
病室にはすでに村雨も訪れていた。
窓の桟の辺りに凭れかかって、一連のやり取りを眺めながら、時折息苦しそうな表情で光の姿を窺っている。
彼も、彼なりに責任と苛立ちを覚えているようだった。
「さて、皆様、お集まりいただけましたわね」
朋恵の凛とした声が響く。
面会謝絶の札が下げられた扉を閉めて、如月が内側から鍵をかけた。
時刻はそろそろ午後五時を過ぎようとしていた。
「卦に、そう遠くない内に変革が起きるであろうと暗示が出ておりました」
「け?」
「未来を見る占いのことです、私も含めお兄様にゆかりのある人々にとって、何かとてもよくない事が起こります。そしてそれは、お兄様自身も例外ではありません」
「これ以上、一体何が起こるってんだよ」
蓬莱寺が吐き捨てる。
「俺たちにとって最悪な事はもう起こっちまった、現に光は起きねえじゃねえか、これ以上どんなとんでもない事が」
言いかけて、口を閉じる。
ギョッとする様子を眺めながら、村雨が皮肉な笑みを浮かべた。
「ああ、一番最後の、一番最悪なヤツがまだだぜ」
「そうだ」
暗鬱に顔をしかめた如月も言う。
「六門封神の、最後の一門」
壬生の施した呪法。
本来剣を守るため、守人が使う切り札の一つ。
光は今、その術で力を奪われて、昏睡から目覚められずにいる。
意識はどこをさまよっているのだろうか。
壬生の夢を、見ているのだろうか。
蓬莱寺はキリリと唇を噛み締めた。
「あの野郎がまた来るって言うのか」
「光への施術が完成していない以上、そう考えて間違いないだろうな」
「お兄様は」
朋恵は瞳を伏せる。
「今、半ば気脈を立たれ、器としてのご自身を保つ事が困難になりつつあります」
「器って」
「御剣は龍の剣、龍の器、来るべき時、あるべき場所で、そのお力を御身に宿し、押し寄せる混沌から現世を守る役を定められた者」
「どういうことだ」
「刻が、迫りつつあります」
不意に顔を上げた少女は、その姿のどこにもあどけなさを残していなかった。
凛とした眼差し。痛々しいほどに張り詰めた表情。
歳の離れた手練の彼らが、一様に息を呑む。
これが剣の守姫なのか。
朋恵の唇から、真鋼の剣を振り下ろすに似た、胸に響く言葉が紡がれていく。
「長き時を経て、龍がその姿を現そうとしている、そしてそれは変化の前兆でもある」
病室内は緊迫した空気に包まれていた。
「全ては移ろい、変わり行くもの、その流れを止めることは誰にもできません、ですが、どちらへ流れるか、選ぶ事はできる」
「選ぶ、とは」
「混沌か秩序か、崩壊か維持か、滅亡か繁栄か―――それを切り分けるのは、いつの時代にもただ一振りの剣のみが成し遂げられることです」
「それが御剣―――」
「時の流れが神のものだとすれば、剣は、人の望みに応えて現れるもの、人の想いの力を有するもの、無限ではなく、またそれのみでは何も成し遂げることなどできない、想いの力があって初めて、剣は剣たり得るのです」
お兄様は、と朋恵は言う。
「万物に希われて現れた剣です、願いの力で願いを叶える、それは、御身自身にも言えること、兄の願いが、切り分けられる先を決めるのです」
「なっ」
蓬莱寺がベッドの上の姿を瞬間振り返って凝視する。
「けど、姫の願いは今ッ」
「―――御身は今、破滅を望まれておられる」
歳相応の少女の顔に戻って、朋恵はうな垂れた。
それは剣の守姫でなく、ただ兄の身を案じる妹の姿だった。
「衰弱しているとはいえ、兄は剣です、抗うすべはいくらでもある、けれど、今またあの男が現れれば、兄はきっとなすがままに、全てを受け入れてしまうでしょう」
「そんな、それじゃあ」
「こんなにも強く、二人の絆が結ばれていたなんて―――」
震えている、小さな声。
三人は朋恵を見つめた。
「私は、いえ、私達は、守人としての役を果たさねばなりません」
再び上を向いた表情は随分痛ましいようだった。
小さな両肩を精一杯張って、彼女は必死に大切なものを守ろうとしている。
そこに漂う気迫は、ただ愛しい兄にだけ向けられる真摯なものだった。
三人は顔を見合わせた。
「剣を守るのです、たとえそれが、お兄様の望みと違っていても」
オイ、と声をかけようとする村雨を、如月が視線で制した。
多分同じ事を全員が考えている。
これは―――もしかしたら、無意味なことであるのかもしれない。
守られる存在自体がそれを願っていない以上、どこかに綻びはできるだろう。
そしてその隙間からあの男はあっさりと手を伸ばし、今度こそ本当に光を捕まえる。
(そうなりゃ、全部ぶっ壊れちまう)
今の生活も、光との関係も、もしかしたらこの世界すらも。
蓬莱寺は瞳を閉じた。
それでも、と思う。
それでも、俺達は願わずにいられない。
あの男ほど長い時間、彼を思っていたわけじゃない。けれど、そんなものに時間は関係ない。
思いの強さも、願いの深さも、決して劣っているとは思わない。
壬生が光を欲する以上に、俺達は、俺は、光がいなくなる事を許せない。
今年の四月に転校してきて以来、色々な事があった。
散々悩んで苦しんで、あの頃の俺と、今の俺は、同じ俺であるけれど多分別の人間だ。
だから、全身全霊をかけて、光を守る。
多くの事を教えてくれた、そしてこれからもずっと同じ道を歩んで生きたい、この男の事を。
「姫がいなくなっちまったら、もうあの美味い弁当も食えなくなるしな」
ニッと口の端を吊り上げて、蓬莱寺は一同を見回した。
「如月、村雨、お前らも一度食ってみたいとか抜かしてたろ、姫の弁当」
「ああ」
「まあな」
「だったら―――気張れよ、ここでいい所見せらんなかったら、弁当どころか愛想つかされちまうぜ」
如月と村雨は顔を見合わせて、フッと笑みを浮かべる。
「君にいわれる筋愛は無いな、もとより僕はそのつもりだ」
「なーに格好付けてんだ蓬莱寺、それこそ分不相応だろうが、お前こそ気張ってけ」
うるせえと毒づいて、同じように笑う蓬莱寺の姿に、朋恵は僅かに安堵の視線を投げる。
「皆様」
三人が振り返った。
「よろしくお願いいたします」
深々と頭を垂れて、守姫は守人たちに礼をした。
「任せとけよ、朋恵ちゃん、姫の事は心配すんなって、なあ?」
「無論、僕たちも全力を尽くします」
「ま、お姫さんだけで背負い込むことでもないぜ、俺も引き受けちまったからな、やるこたぁキチッとこなしてみせるさ」
「はい」
顔を上げた朋恵が微かに微笑んだので、三人も笑顔を浮かべた。
直後、一同の表情が凍りつく。
俄かに全身を強ばらせて、抜かりなく周囲の気配を探り始めた。
「来た、な」
村雨の声が低く響く。
覚えのある殺気が、肌の上にジンワリとまとわりついている。
間違えようもない、これは。
―――壬生の気配だ。
こつん、と、ひときわ高い音が聞こえる。
コツ、コツ、コツ。それは、近づいてくる足音だ。
院内の廊下を歩いている。
殺気が大きくなる。
「大胆な野郎だな」
ニヤリと笑う蓬莱寺のこめかみに冷や汗が伝っていた。
朋恵が口元を僅かに押さえながら、驚愕の眼差しで扉を見詰めている。
「こ、れは―――これが、あの者?これではまるで」
き、と小さくきしむ音がした。
ドアノブがまわる。
扉が開く。
隙間から、ふわりと闇が滲み出してくるようだった。
背筋が凍るような冷気と共に、黒尽くめの男がそこに立っている。
「こんばんは」
血のような日の燃えさしが窓から差し込んでいた。
「光を、貰いに来たよ」
歪んだ笑みが浮かぶ。
逆光で深紅に染まった、壬生の瞳は妖しい光を湛えていた。