ぞろり。
蓬莱寺と如月、村雨の肌を気持ちの悪い感触が撫でる。
朋恵は薙刀を捧げ持ったまま、ベッド脇を固めつつ、壬生の傍の闇を凝視していた。
フフ、フフフ、フフフフフフ―――
闇が、嘲う。
この世でない場所に、起こるはずのない風が吹き抜けていく。
ざわめく暗黒の向こう側、不意に、何の前触れも無しに腕がにゅうと現れた。
「なっ」
硬直する彼らの目の前で、もう一本の腕が現れて、両腕で闇の縁を掴みながら今度は体が抜け出てくる。
長い髪、病的なほど白い肌、漆黒の上下に身を包み、振り返った瞳の色は昏い。
「影生依人―――」
ゴクリと喉を鳴らす音が聞こえて、それが自分のものであることに気づくのに、蓬莱寺は僅かに遅れた。
影生はそのままかろうじて立っている壬生の体に寄り添うと、こちらを見てフフと笑った。
「やあ、久し振り、守姫様と呪符使いの彼は初めましてだね、紅葉を随分いたぶってくれたみたいだけど」
細い指があちこちに触れながら、ああ、可哀想に、こんなところにも怪我をしてと囁きかけている。
「綺麗な紅葉に傷をつけないでくれよ、彼は、僕にとって大切なヒトなんだから」
「なら檻にでも閉じ込めといたらどうだ、俺たちもそいつにゃ迷惑してんだ」
「フフ、けれど紅葉は、そんなところにおとなしく閉じこもっていてくれるヒトでは無いから」
スッと手を伸ばす。
衝撃波が村雨を吹き飛ばした。
「村雨!」
「村雨様!」
影生は笑っている。
「君達守人っていうのはつくづく面倒臭いね、そんな死に損い、さっさと紅葉にあげちゃえばいいじゃないか、そうすれば、こんな―――」
次の衝撃波で今度は如月が吹き飛ばされていた。
二人とも、数メートル向こうで倒れたまま、ピクリとも動こうとしない。
「痛い思いを、しないで済むのに」
クスクス。
掌が蓬莱寺に向けられた。
「君、蓬莱寺君だよね、君もあの人形が好きなんだろう?」
「人形?」
「器のことだよ、でも、残念だったね、あれは紅葉の持ち物だったから、君が幾ら欲しがっても無駄なんだ」
「何」
「横取りは悪いことだよ、ちゃんと彼に返してあげてよ、僕は不公平は嫌いなんだ」
剣を構えるより先に、打ち出された衝撃波が蓬莱寺を捕らえていた。
そのまま後方に吹き飛ばされて、倒れこんだ全身に闇が絡み付いてくる。
「な、何だ、こりゃあ!」
見れば、村雨と如月が起き上がれずにいるのも同じ理由のようだった。
暗黒はまるでタールのように、蓬莱寺の手足の自由を奪っていく。
「クソッ、こ、この、畜生!」
様子を眺めながら影生はおかしそうに笑い転げていた。
「ほら、紅葉、ちゃんと仇は取ってあげたよ!嬉しいかい?」
壬生は何も言わず、光の傍へふらふらと近づいていく。
前方には朋恵が立ちふさがっていた。
「壬生!それ以上近づくことまかりなりませぬ、貴方には」
「うるさいなあ」
傍らに突然現れた影生が、細い腕を造作もなく捕らえる。
「何?!」
そのまま強引に引き倒されて、悲鳴を上げながら倒れた彼女の手足にも、闇が絡み付いてきた。
「こ、これは、まさかっ」
「残念だったね、おじょうさん」
クスクスと笑いながら影生が腹の上に馬乗りになって、朋恵の顔を覗き込んでくる。
「姫は万能の力を持っているけれど、龍には勝てない」
「貴方は」
「フフ、何だろうね?」
これは危ないよ。
囁きながら朋恵の手の薙刀を奪うと、振り返った影生は壬生を呼んだ。
「さあ、君の邪魔をするものは全部僕が何とかしてあげた、もっと早くにこうしておけばよかったんだ、ホラ!早く望みをかなえるといい!」
「おやめなさい!」
叫ぶ口元を青白い掌が押さえつける。外観にそぐわない、恐ろしいほどの力だった。
「紅葉!」
壬生は、ベッドの手前で立ち止まっている。
術の防御壁に守られて、光の瞼は落ちたままだった。
「光」
呼びかけて、壬生はグッと唇を噛んでいた。
震える両手が、触れようとしては何度も戸惑っている。
「紅葉?」
影生が、顔をしかめた直後に、ああそうかと呟いて片腕を突き出した。
そこから生まれた衝撃波が、守姫の作った陣をあっさりと打ち砕く。
「姫!くっそおおお!」
闇に、蓬莱寺の絶叫が響き渡る。
影生は楽しげにケラケラと笑っていた。
「さあ、紅葉、これで本当に邪魔なものは何もないよ、君はそれが欲しかったんだろう?」
気が、狂うほどに。
囁きにつられるように、壬生の両腕がそっと光を抱き起こす。
影生の下から朋恵が絶望の眼差しを向けていた。
「クソッ、クソッ、クソッ!」
蓬莱寺は体を滅茶苦茶に捩りながらその光景を見ている。如月も、村雨も同じだった。
辺りは墨を流したような闇一色に染まっているというのに、ベッドの上の光の姿だけ白い。
その全身には、淡い金色の燐光が浮かんでいた。
「光」
壬生は、前髪を片手で払いのけて、形のいい額を露にする。
柔らかな感触も覚えのあるものだ。
ずっと欲しくてたまらなかった。
あの日、僕の中から失われてしまった、僕の半身。
埋められない穴はどんどん大きくなって、やがて僕自身そこに閉じ込められていた。
抗う術は、ない。
君がいない世界に、何の意味も意義も見出せない。
たとえ、それが誰の手であったとしても。
願いを叶えてくれるなら、神でも悪魔でも、どちらでもよかった。壊れかけていた僕にチャンスを与えると言ってくれた、差し出された手を掴まずにはいられなかった。
「光」
今、ようやく戻ってきた。
僕の元へ。この腕の中へ。
そして僕は―――最後の望みを、成就させる。
「壬生紅葉!およしなさい、貴方は、貴方は自分が何をしようとしているのか、わかっているのですか!」
影生の掌から逃れ出た朋恵が死に物狂いで叫ぶ。
その口を、乱暴に掴んで黙らせると、影生はもう一度紅葉と呼びかけた。
「さあ、六門封神の最後の一門だ、それを封じれば君の願いは叶う、御剣光は君だけのものになる、早く、早くするんだ!さあ!」
「ひかるうううーッ」
蓬莱寺が吼える。
壬生の指先が、光の唇に触れた。
閉じられたままの、まぶたの上にキスをする。
頬に口づけて、首筋にもキスをした。
ずっと欲しかった。
この感触、温もり、息遣い。
何もかもが愛しい。
気が狂いそうなほど、愛しくて愛しくてたまらない。
「光」
震える指先を、口元に寄せる。
先端を噛むと血が滲み出した。
「光」
唇をなぞると、赤い色がよく映える。
まるで紅を差したようで、泣けてくるほど綺麗だった。
「光」
口の中に含ませて、血液を喉の奥に流し込む。
キスをして、飲み下らせて、それからおもむろに、光の首にそっと触れた。
「六つ星の」
声が震える。
「六つ目を封じる」
肌に爪を食い込ませて、スッと切り裂くと綺麗な朱色が滲み出した。
「これは、血の、盟約にして―――」
舌先を這わせようとして、壬生はギュッと双眸を固く結んだ。
体中が震えている。
歓喜に?幸福に?
―――そうじゃない。
壬生は硬直したままで、恐る恐る、眼下の光の顔を見つめた。
愛しい姿。
君を、どれ程想ったか知れない。
眩い昼も、星降る夜も、僕には何ももたらしてなどくれなかった。
ただ、君だけが―――
「君だけが、癒しだったんだ、光」
ぽたりと何かがこぼれた。
これは何だ?
これは
「な、みだ?」
枯れるほど泣いたと思ったのに、まだ残っていたのか。
ぽたり、ぽた、ぽた、ぽた。
「ああ―――」
温かな感触に、内側で何かが音を立てて崩れていく。
孤独な日々を埋めてくれたのは君だけだった。
あの日、道場で出会ってから、君は沢山のものを両手に抱えきれないほど僕にくれた。
愛する気持ちも、誰かを思う強さも、そのために強くなりたいと思える、守りたいと願える喜びも。
全部君がくれた。
君だけだった。
僕の内側まで全部愛してくれたのは。
誰かの命を奪うために、自身を鍛える殺伐とした胸の荒野に花を咲かせてくれたのは。
「光」
血のにじむ指先で頬に触れると、赤い色に彼の肌が僅かに色づいたように見えた。
それは、まるであの頃のように―――
世界が黄金色に輝き、隣にはいつも君がいた、日々のままに。
「僕は」
壬生は光を抱きしめていた。
ただ、愛しさだけに体中を震わせながら。
「僕には」
小さな声が闇に響く。
「―――僕には、光は、殺せない」