ゆっくりと、黄金色に染まった瞳が壬生の上に落ちてくる。
「光」
端正な顔の上で、ふわり、微笑が花開いていた。
「ッつ、光!」
堪らず、ふらつく足で立ち上がろうとする壬生を、伸びてきた両腕が慌てて支えてくれる。
その腕を捕まえて、強く腕の中に引き込んだ。
両腕が瞬時戸惑ってから、ユルユルと、壬生の背中に回された。
確かに抱きしめている感触に、愛しさで胸の奥が弾けてしまいそうだった。
「光、光、光ッ―――!」
何度も名前を呼ぶ。
これまで分の思いを込めて、何度も、何度も。
ポンポンと背中を叩かれて、顔を上げると、すぐ目の前で同じように見詰め返してくる優しい瞳と目が合う。
「紅葉」
喜びに満ちた、その声で。
呼ばれる日を何度夢見ただろうと、今更のように思い出す。
やはり、僕はずっと忘れていた。一番大切な事を。
光はスッと視線を逸らすと、闇の奥をじっと見詰めた。
腕を解いて、再び漆黒へ塗り替えられていくその先に瞳を凝らすので、紅葉も同じように彼の視線の先を見詰める。
彼方から怨嗟の声が響いてくる。
「許さない、許さないぞ、絶対―――」
光は壬生から離れると、今度は彼を守るように、一歩手前に踏み出した。
「光」
不安を孕んだ声に、優しい微笑と、下がっていてくれと小さな声。
影生はまるで闇そのもののように周囲と同化していた。
顔を上げると、ざんばらに散った長い髪の間から、濁った瞳が金色の光を放つ。
「お前さえ、いなければ」
「影生」
「お前がいるからいけないんだ―――お前が、お前が、お前があああ!」
猛然と駆けてくる。
一息に間合いを詰めて、繰り出された拳をすれすれでかわして、光の一撃が影生を捕らえた。
「ぐあああああ!」
衝撃波に包まれた体が、金の帯を引きながら数メートル先まで弾かれていた。
影生は幾度となく立ち上がり、攻撃を仕掛けてくるので、掌から打ち出される黄金の発剄はその度彼を跳ね飛ばす。動作には無駄がなく、金の光を引いて、流れるように美しかった。
光は暗闇の中でただ一人、眩い光を放っている。
「あれが、龍の御剣、か」
戒めから解かれたというのに、蓬莱寺も如月も村雨も、朋恵ですらその場を動けずにいた。
背後に立つ壬生も、惚けたように彼の一挙手一投足を見守っている。
混沌を切り開く、龍の御剣。
その姿はまさに龍のごとく、激しく、美しく、滾っている。
何度目かの攻撃で地に臥せった影生が、後ろに手をついて半身だけ起き上がりながら怯えた目を向けた。
「ヒッ、ヒイイイイ」
ズリズリと後退りをしながら、うわごとのように繰り返している。
「こ、怖いよう、殺される、殺されちゃうようッ」
先ほどまであれだけ自信に満ちていた影生の豹変振りに、蓬莱寺も如月も村雨も、朋恵や、壬生ですら、痛ましい瞳を向けていた。
今の彼には、先ほどまでの殺気も覇気も、微塵も残されてはいない。
瓦解した自己を無残に晒して、首を振り続けることしか出来なくなってしまったようだった。
体中が小刻みに震えている。
「いやだあ、いやだよお、こわいよおおお」
壬生はギュッと瞳を眇めた。
「誰か、助けて、誰か、誰か」
「依人」
影生はビクリと肩を震わせて、まるで怪物を見るような目で壬生を凝視する。
「依人、もう」
「くうう、くるなあああ!」
絶叫が轟いた。
「依人?」
唖然とする壬生を睨みつけながら、影生は更に恐怖に顔を歪ませる。
「来るな、来るな、来るな、お前達、皆、僕の傍によるなあああッ」
これ以上、彼に、なんと言って手をさし伸ばせばいいのだろう。
かつての友の無残な変わりように、壬生は上げかけた腕を無言で下ろす。
掛ける言葉など何も思いつかなかった。
光が振り返って、気遣いの眼差しで見上げてくる。
壬生がかすかに微笑むと、僅かに安堵したように口の端を緩めた。
―――影生は、すっかり小さくなって、闇の奥で怯えていた。
双眸からはすでに金の光も消え、頑なな態度で世界の全てを拒絶している。
各々立ち上がりながら、朋恵達も、そんな彼の姿を何とも言えない表情で見詰めていた。
辺りの闇すら戸惑っているようだ。
放り出された薙刀が消滅して、朋恵の手元に新たに復元された、その時だった。
「―――カオス」
低い声が響く。
それは空間自体を震わせて、彼らの肌にビリビリと衝撃を与えた。
「なっ、何だ、こりゃあ」
蓬莱寺が虎爪刀を握り締めてしきりに周囲を見回していた。
如月と村雨も、同じようにしている。
「カオスよ―――」
壬生の腕が光の肩を抱く。
自分の傍へと引き寄せるようにするので、光は素直に身を寄せていた。
「や、ぎゅう、さん?」
その名を聞いた朋恵が、はっとした表情で振り返った。
「柳生ですって、まさか、そんな」
さっきまで震えていた影生が、フラフラと立ち上がって闇の一点を凝視する。
「カオスよ」
「柳生さん、柳生さんだね、僕を、助けに来てくれたのか!」
「そうだ―――」
ゆらり。
闇がうごめいて、新たな影がそこに出現した。
血の色をした学生服、紅蓮の髪、威圧的な眼差し―――
聞き覚えのある名に、光と蓬莱寺の顔色が変わる。
「柳生、だと?」
影生だけがその傍らに嬉しそうに駆け寄っていった。
男は、視線の先を光に定めると、不意に口の端をグッと吊り上げて、笑った。
「こうして顔をあわせるのは初めてだな、器、いや、龍の御剣よ」
「てめえは誰だ!」
蓬莱寺が声を上げる。
男は振り返りもせず、ただ静かに答えた。
「我は、柳生―――柳生宗崇」
光の両肩が、電流が走ったようにビクリと震えていた。
これが柳生。
柳生宗崇。
弓月から聞かされた、時を越える魔人―――
「お、まえが」
初めて対峙して、その存在の放つ禍々しさに、全身が総毛立つ様だった。
人の領域を超えて、神になりつつある男。
永き時を経て、恐るべき力をその身に有し、人の心の闇を住処とする―――獣。
そして、何よりも。
(父さんの、最期を看取った男―――)
いや、看取ったという表現は適切では無いだろう。
なぜなら弓月は、この魔人に父と共に戦いを挑んだと話してくれたから。
それなら、父はこの者に、多分―――殺されたのだろうと思う。
父親の仇。
それが今目の前にいる。
光の中に、自分でも知らない感情が沸き起こるのを感じていた。
それが何なのか理解するより先に、柳生が嘲るような笑みを口元に浮かべた。
「フン、父親によく似た、気位の高そうな瞳だ」
寄り添う影生はまだ顔を伏せたまま、時折怯えたようにこちらを窺っている。
彼を気遣うでもなく、モノのように纏わりつかせたまま、柳生はこちらへ近づいてきた。
片手にはまるで馬上の人間を馬もろとも切る斬馬刀のような巨大な刃を携えている。
肩に触れる掌が急に強ばったようで、見れば壬生は顔面を青白く染めて竦んでいた。
辺りを見回すと、蓬莱寺達も同様のようだった。
この強烈な殺気に中てられたのだろうか―――光も、いつの間にか自分の体が震えていることに気づく。「フン」
正面から数歩離れた場所に立って、悪鬼のような眼差しがギロリと光の視線を捕らえる。
上から下まで見回して、唇が厭らしい笑いを湛えた。
「なるほど、やはり似ているな」
「お前は、父を知っているのか」
やっと喘ぐように声が出た。
柳生は無感動にそうだと答えただけだった。
「彼の者のおかげで、我は真理を得る事ができた」
「真理、だと」
「そうだ」
両掌にいつのまにかじっとりと汗が滲んでいる。
赤髪の男は、フフと口角を吊り上げた。
「万物の根源たる金色の龍、それが、古の巫神子に希われ人に貸し与えた、混沌を切る剣」
其は人にして、人にあらず。
嘯く声に息を呑む。
「お、まえ―――どこまで知って」
向こうでは朋恵も同じように驚愕の眼差しを向けていた。
「龍の御剣」
柳生は斬馬刀を構えた。
「そなたはもはや、現世に必要無き身、この世は混沌を望んでいる」
「そんな事は」
「無いと言い切れるのか?」
その切先が、頭上高く振り上げられていく。
誰もがそれを見送ることしかできなかった。
壬生の手が、痛いほど強く肩を握り締めている。
「還れ、剣よ」
汝の主の下へ。
「一つの時代に、器は二つ要らぬ―――」
光は、とっさに壬生を突き飛ばしていた。
そのまま一息に間合いを詰めて、拳から発剄を打ち出す。
剣の一振りでそれを弾くと、柳生は面白そうに口元を歪めた。
「なるほど」
振り下ろされる剣閃を紙一重でよけながら、次々に連打を叩き込んでいく。
「さすが御剣というわけか、お前達は限り有る身でありながら、いつの刻も実に俺を楽しませてくれる」
「ふざけるなッ」
振り上げた拳を屈強な掌が易々と捕らえた。
「なッ」
光は目を剥く。
ギラギラした眼差しがその様子を眺めながら、クククと声を洩らした。
「あの時―――父は逃したが、お前は逃さぬ」
「何」
「その力、我が貰い受けるぞ」
剣先が落ちてくるのが見えた。
腕を振り払って、防御の姿勢を取るのが僅かに遅れる。直後。
「光!」
「お兄様?!」
胸から腹にかけて、袈裟掛けに赤い筋が走りぬけた。
同時に焼け付くような痛みに貫かれて、目の前が真紅に染まる。
ゆっくり、柳生の姿が歪み始めていた。
辺りの闇が急に濃さを増したようだった。
(ああ―――)
世界が、暗い。
朋恵の絶叫が遠く聞こえる。
最後の風景の中に、壬生の姿が見つけられなくて、光は小さく呟いていた。
「くれ、は」
傷口から大量に出血しながら、倒れた光はそのまま動かなくなった。