暗い。

果てしない虚無が広がっている。

(ここは、どこだろう)

光は闇の中を歩いていた。

ここへ来る前の最後の記憶は、柳生宗崇の壮絶な笑みと、振り下ろされた凶刃。

そして、壬生の声。

「紅葉」

ぽつりと呟いてみる。

壬生を守りたい気持ちが爆発して、意識が戻った直後、再び抱きしめられた腕の中で。

「紅葉」

―――俺たちは、五年の歳月を飛び越えて、ようやくあの頃の二人に返る事ができた。

世界中が愛情に満ち溢れていた、輝く日々の姿に。

ひどく胸の奥が空虚で、自分が空っぽの入れ物になってしまったような気がする。

悲しいのに、なぜか涙は一粒も滲んでこなかった。

ただ、何もかも終わってしまったのだという虚しさだけが、光の足元を突き動かしていた。

(結局)

何にも出来なかったなあ

御剣の『剣』として生を受けて、18年。

先代の双振りの成し遂げられなかった業まで背負って、今日まで必死に鍛錬を積んで、何もかも今、この時のためだけだったはずなのに。

(俺は、俺自身の我侭のために、全部無くしてしまうんだ)

あの時ひらめいた斬馬刀の刃は、いずれ噛み砕きに訪れるはずだった龍の牙だ。

遅かれ早かれ、こんなことになっていたのだろう。

俺は役目より俺自身の思いを選んだ、出来損ないの剣。

今はすでに壊れて、ゆっくり闇の底へ落ちていく。

 

―――りいん。

 

彼方から伝わってくる懐かしい波動に、ゆっくりと瞳を閉じた。

 

―――りいん。

 

知っている。

俺はこの感覚を、知っている。

 

―――りいん。

 

呼ぶ方へ、ふらりと歩き出そうとした途端、凛とした声が暗闇に響き渡った。

「行っては、ダメ」

光はふと足を止めて、背後を振り返った。

 

「目が覚めない?」

処置室から出てきた看護婦の話に、壬生は信じられないといった表情を浮かべる。

「手術は成功したんだろう?」

「そーなの、うっく、だけどぉ」

話す傍から涙がこぼれるので、彼女自身まともに話の出来るような状態ではないようだった。

彼女は、高見沢舞子という。光とは親しい間柄だったようだ。

確かに友人なのかもしれないが、同時に医療関係者なのだからと、壬生は苛立ちを抑えきれない。

「なら、どうして昏睡が醒めない!」

「ま、舞子が知りたいのぉ!それは舞子も知りたいことなのッ」

直後に病院の廊下だという事を思い出して、二人はハッと口を閉じていた。

幸い、周囲には誰もいなかった。

静寂ばかりがやけに圧し掛かってくる。

「―――麻酔の、せいじゃないんですか」

「院長センセが言うにはね、コンが戻ってないんだって」

「魂?」

「そうなの、だから、ダーリンこのままじゃ死んじゃうかもしれないって」

最後は泣きだしてしまった高見沢を見詰めながら、壬生は呆然と立ち尽くしていた。

魂が戻っていない?

(六門封神は確かに解いたはずだ)

今、この体のどこにも、彼にかけた呪の残り香は存在しない。

全部光に返したはずだ。

(なのに、何故)

もしかしたら、と壬生は突然―――絶望的な思いに駆られていた。

光は、苦しみ、傷つくことに疲れ果てて、このまま黄泉路の坂を下る事を望んでいるんじゃないのか?

(バカな!)

それこそ、愚かな考えだと自身を戒める。

彼に限ってそんな事は決してありはしない。

自ら剣である事を認め、その使命に忠実であった彼が、全てを捨てて去っていくなんてこと、ありえない。

けれど。

壬生は思う。

(僕が、癒えない程に傷つけてしまったんだろうか)

愚かな想いのままに、彼を苦しめた報いが廻ってきたというのか。

「っつ!」

ドン、と壁を叩くと、高見沢がビクリと肩を震わせた。

悲しくて、憎くて、悔しくて―――心が砕けてしまいそうだ。

この命を捧げてもいい、魂など、僕のを持っていってしまえばいい、僕はもう何も要らないから。

光さえ、生きていてくれたらそれでいいから。

「僕はッ―――愚かだ」

血を吐くような言葉だった。

取り戻せない過去に、恐ろしくて苛立つ。震えが止まらない。

処置室の扉に歩み寄ろうとすると、何か感づいた高見沢に制止された。

「だ、ダメ、入っちゃダメっ」

「頼む、光に合わせてくれ、僕は、僕の責任なんだ、何もかも僕が」

「ダメッ」

「光、光ッ」

途端、扉が開いて、高見沢に引きずられるようにして壬生は二三歩後ろへ下がる。

ストレッチャーに乗せられて、まだ酸素吸入機をつけたままの光が運ばれていく。

壬生は腕を振り解いて、傍らに駆けつけた。

「光」

長い睫は、降りたままだった。

「光、お願いだ、目を覚ましてくれ、光」

声は届かない。

白磁のようだった肌の色はますます青ざめて、すでに死者の色味を帯びている。

「光ッ」

何事か言われたような気がしたけれど、壬生の耳には殆ど入ってこなかった。

ただ、自分の心臓の音だけ、頭の中で煩わしいほどに鳴り響いている。

浅い息を繰り返しながら、祈るように何度も呼び続ける。

「光」

壬生の頬を、ぬるい何かが伝っていた。

「ひかるぅッ」

―――声に答えていつも微笑み返してくれた温もりは、もう二度と戻らないような気がしていた。

 

「誰、なの?」

辺りを見回す。

光のいる闇は、段々濃さを増しているようだった。

このまま一番下まで落ちていけば、再び浮上することはできなくなってしまうだろう。

わかっていたけれど、抗うつもりは起こらなかった。

ただ、静かに、引き寄せられるままに沈んでいく。

呼びかける原初の声へ返っていく。

それはとても自然で、当たり前のことのように思えた。

「ダメ」

また声が光を引きとめた。

「行っては、ダメ」

「誰?誰なんだ」

「行かないで、光」

「光?」

―――唐突に、自分自身を思い出す。

そうだ、俺は、剣じゃない。

御剣光という名前の、一人の人間だ。

「そうよ、光」

声が優しい響きを孕んだ。

「貴方は、御剣光、剣などではありません―――貴方は、新宿で暮らす、一人の男の人」

「新宿」

懐かしい響きに、スルスルとつられて記憶が蘇ってくる。

真神学園、3-Dの教室、黒板、机、鉄筋コンクリートの校舎、生徒達の声。

「京一」

眩しい笑顔が浮かんだ。

「美里」

優しい少女の面影が浮かんだ。

ああ―――

ズブリ。再び足元が闇に沈む。

(俺が、不甲斐ないばかりに)

大切な彼らを傷つけてしまった。本当は何が一番大切なのか、よくわかっていたはずなのに。

―――役目も、果たせない、剣など―――

「貴方は剣じゃないわ、光、もっと思い出して」

「けれど、俺は」

光は両手で顔を覆っていた。

「怖い、よ」

声が震える。

本当に、本当にまたあの暖かな場所に戻ってもいいのか?

俺は、俺自身のせいで、また彼らを傷つけてしまうんじゃないのか?

「もう、誰かが傷つくのを見るのは、いやだ」

辛いなら、俺一人だけでいい。

苦しむなら、俺一人きりでいい。

―――他の誰も、壬生ですら、あんな姿を見たく無い。

「怖い」

そして、それと同じくらい―――

 

俺は、拒絶と別離の恐怖に、怯えている。

 

「もう、痛いのはいやだ、苦しいのは、いやだ」

 

―――りいん。

 

懐かしい声が呼んでいた。

そこへ戻れば全てから解き放たれる。

苦しみも、悲しみも、喜びすら―――

「行ってはダメ」

光は小さく首を振った。

「行かないで、光、貴方にはまだやる事がある」

「俺にはもう、何もできない」

「いいえ、そんなことはありません」

「何もない」

「そんなことはありません」

「―――紅葉も、ここにいない」

憎まれているのだと。

傷つけてしまったのだと、思うほど胸が苦しくて、いっそこのまま落ちてしまいたい。

俺などいなくなってしまえば、きっと何もかも元に―――

「そんなことはありません」

声が、急に強い口調でキッパリと否定した。

「貴方はまだ何もなくしていない、これから、始まるのです」

光は顔を覆ったまま、その場に立ち尽くしていた。

足元から濃い闇が絡み付いて、遠くに金色の光が見え隠れを始めている。

「光」

声が呼ぶ。

「貴方に、思い出させてあげましょう―――私はそのために力を与えられた、今なら分かります、私達の出会いの意味も、この定めも、何もかも」

「キミは、誰?」

知っている誰かがふんわり微笑んだような気がしていた。

「―――時が、満ちました」

 

(続きへ)