柔らかな羽根がふわりと落ちるような穏やかさで、瞳は見開かれていた。

少女は数回瞬きをして、そのままゆっくりと身体を起こす。

取り付けられていた計器類を外して、両足を冷たい床の上にペタリと下ろした。

ひんやりした感触に、心が浮き立つ。

私は目覚めた。

あの人を守るため、あの人を常世の迷宮から連れ戻すために、ここに帰ってきた。

すうと新鮮な空気で肺を満たすと、体中に漲る力の存在を確かに感じる。

これは、あの時手に入れたもの。そして、私という存在に定められていたもの。

「光さん」

栗色の髪が、さらりと肩にかかった。

「待っていて、光さん、今、貴方を迎えに行くから」

 

光が搬送されてすぐ、病院スタッフの手によって病室は片付けられて、新しいベッドが用意された。

蓬莱寺達は各々傷の手当てを受けて、今は静かな病室内でジリジリと時を見送っている。

他へ移動して欲しいと頼まれたのだけれど、誰一人、要求を受け入れるものはいなかった。

その場にいる誰もが、いずれここへ運び込まれてくるはずの人物を待ちわびていた。

無事であって欲しい、などと、願うことすらしたくない。

(無事に決まっている)

それは、祈りというより、半ば狂信に近い思いだった。

光は無事だ。

すぐに、何事もなかったように、ここへ運ばれてきて、心配をかけたと困り顔で詫びながら微笑むのだ。

いつものように。

誰も、何も言わず、互いの姿すら見ようとしないで、ただじっと思いを内に秘めていた。

焦燥感だけが周囲に充満している。

不意に聞こえたノックの音に、ハッと顔を上げると、返事も待たずに入ってきたのは私服姿の美里だった。

「美里」

驚いて立ち上がった蓬莱寺を見つけて、慌てて駆け寄ってくる。

「京一君ッ、光は?」

「どうして、お前が」

「光の妹さんが連絡をくれたの、それより光は?ねえッ」

「姉さん、ちょっと落ち着けよ」

村雨が、目深に被っていた帽子の庇を少し持ち上げた。

「先生なら今手術中だ」

そうですかと呟いて、表情を曇らせたまま俯いた姿に、蓬莱寺はぽんと肩を叩く。

「ここの医者は腕だけはいいんだ、心配いらねえよ」

「ごめんなさい、私―――京一君や、皆さんだって心配でしょうに」

「そんなこと、ないさ」

京一はわざと笑ってみせる。

そうでもしないととても耐えられない気分だった。

重苦しい沈黙に、誰もがまた、心の闇をさまよい始めた、直後。

一同はハッと顔を上げる。

遠くから響いてくる物音。知っている声。大勢の気配。

「姫ッ」

蓬莱寺が小さく呟いたのと、扉が開いたのは、ほぼ同時だった。

「光、光!」

ストレッチャーに乗せられた光と、同伴する看護婦と、駆け込んできた壬生の姿。

「姫!」

「先生」

「光」

「光ッ」

慌てて駆け寄る目の前で、看護婦達は光の身体をベッドに移して、酸素吸入器や計器類を手早く設置し始めた。

やがて全ての用意が整うと、高見沢だけを残して病室から出て行く。

パタンとドアの閉まる音がやけに耳に響いた。

「舞子ちゃん、姫はッ」

蓬莱寺に問いかけられて、高見沢は懸命に涙を拭っている。

如月と村雨は、ベッドの上の光と、すがりついている壬生の姿を呆然と見つめていた。

「光、光、光―――」

うわごとのように繰り返す彼は、片手に青色の太刀を握り締めて、光の胸に額を押し付けたまま動こうとしない。

肩が、小刻みに震えていた。

その小さく丸まった背中を見て思う。

なんて脆い、と。

敵として立ちはだかり、散々てこずらせて、情け容赦なく光を傷つけてきた人物と、これは同じ人物なのか。

罪悪感も無く、ただ欲しいままに貪り続けてきた、あの壬生紅葉と。

「光、光ぅ」

今の壬生には何も無かった。

悲嘆に暮れるだけの男がそこにいた。

直後に、高見沢から説明を受けた蓬莱寺が、肩を掴んで力任せに壬生を光から引き剥がした。

「今更ッ」

瞳が、怒りで充血している。

「光に、触るんじゃ、ねえッ」

そのまま突き飛ばすと、思い切りぶつかって、壬生がくぐもった声を洩らす。

高見沢と美里が悲鳴をあげた。

壬生の手を離れた太刀が、弧を描いて床を滑っていった。

「てめえのせいでなあ」

正面に立った蓬莱寺は腕を伸ばし、胸倉を掴んで高く持ち上げる。

「てめえのせいで、こうなっちまったんだぞ!」

拳を握って、思い切り頬を殴りつける。

ガンと鈍い音がして、壬生はグッタリと俯いた。

「光がどれだけ傷ついてたか、お前、知ってるのか?」

殴る。

「あいつが今まで、どんな思いで、あんな目にあってきたのか、わかってんのかよ!」

再び殴る。

「俺は、ずっと傍で、あいつを見てきたんだッ」

この程度の痛みじゃ、光が味わってきた苦しみの何分の一にだってならない。

どれ程殴っても、きっと足りることなんて無い。

それでも。

「あいつがどれだけ苦しんで、悲しんで、泣いて、それでもどれだけ―――お前のことしか頭に無かったのか、お前は分かってんのかよ!」

更に、もう一発、二発、三発。

「蓬莱寺君、もうやめて!」

叫んだ美里の肩を、村雨が掴んで首を振った。

蓬莱寺は再び壬生を殴る。

殴られ続けて、壬生の口の端が切れて、血が伝っていた。

「お前は光のこと、本気で考えた事があったのかよ!」

悔しい。

この男が何もかも奪っていったのかと思うと、嫉妬で気が狂いそうだった。

蓬莱寺は闇雲に拳を振り上げて、全ての感情の矛先を壬生に定めて、ひたすら打った。

拳に肉と骨の感触を覚えるたび、心がズキズキと軋んで泣いた。

光はこんな事を望みはしないだろう。

(けど、俺はッ)

これ以上もう耐えられない。

もし、本当に光が死んでしまったら、その時は―――

(柳生も、影生も、こいつも、全員、殺してやる―――)

自分でも知らない、どす黒い感情が胸の奥で激しく炎を噴き上げるようだった。

生まれて初めて、はっきりと自覚する。これが殺意というものなのか。

再び拳を握りなおすと、凛とした声がおやめなさいと蓬莱寺を一喝した。

ユルユル振り返った視線の先、朋恵が、ドアの前でじっとこちらを見ていた。

「もう、それで終わりになさいませ、蓬莱寺様」

「と、もえ、ちゃん」

辺りの空気が一瞬で変わる。

澄んだ瞳で射抜かれた途端、急に何かがするりと抜け出して、蓬莱寺は掴んでいた手を解いていた。

壬生がズルズルと壁を伝いながら崩れ落ちていく。

散々殴られて、頬に大きな痣ができていた。

片方の目は腫れて、半分ほどしか開いていない。

鼻と口、両方の出血をぬぐって、ヨロヨロと立ち上がった傍らに、慌てて美里が駆け寄っていく。

蓬莱寺は自分の拳についた血液を睨んで、壬生に一瞬目を向けると、直後にベッドの上の光を見詰めて唇を噛み締めていた。

「姫」

計器は規則正しい数字を刻み続けている。

呼吸もいたって正常だし、まるで眠っているような穏やかな表情だ。

けれど。

光の意識だけ、まだ戻らない。

気配も六門封神をかけられていたときとそう変わりなくて、むしろ前よりひどくなったように思う。

「皆様」

高見沢に部屋を出るように指示して、扉が閉まった事を確認してから、朋恵がゆっくりと室内にいる全員の姿を見渡した。

「ただいまより―――四神相応の儀を執り行います」

「なん、ですか、それは」

青ざめた表情の美里が、壬生に治癒の奇跡を施しながら顔を上げた。

朋恵は答えずに、スッと病室の一辺を指し示す。

「東に青龍」

反対側を指した。

「西に白虎、そして、南に朱雀、北に玄武」

次々指していく。

「お兄様の周囲に、四神を配して、ここを四神相応の地と成します」

青の太刀を拾い上げて、壬生に歩み寄る。

差し出す太刀を、壬生は両方の手を差し出して受け取った。

「守人であるあなた方に託した御剣の宝物、それを用いて、四神の柱を立てます」

「これか?」

村雨が懐から赤い小太刀を取り出した。

如月と、蓬莱寺も、同じように預けられた黒と白の小太刀と太刀をそれぞれの手に握る。

「その太刀も、小太刀も、すでに封印解呪を施してあります、それらは各々、四神に刃の形を与えたもの、御剣の剣と等しき存在」

蓬莱寺がすらりと鞘を抜き放つと、刃から白い燐光があふれ出していた。

他もそれぞれ黒、赤、青と、太刀と小太刀は自らの役目を知っているように発光している。

「宝物は互いに響きあい、共鳴します、あなた方は私の指示する位置に立って、剣を掲げなさい」

「朋恵ちゃん、何するつもりなんだ」

困惑している蓬莱寺に、朋恵は真摯な眼差しを向ける。

「兄の魂を呼び戻す儀式を行うのです、手遅れにならないうちに」

ビクリと身体を震わせた背後で、壬生がヨロヨロと動き出していた。

支えようとする美里の手をやんわり断って、光の傍らに近づいていく。

「朋恵さん」

太刀の柄を握り締めながら、振り返って朋恵を見詰める。

「お願いします、僕は、何をすればいい?」

「壬生」

如月が小さく声を洩らす。

「こうしている間にも、光は黄泉路を下っていってしまう、早く指示をください、お願いします」

蓬莱寺が何か言おうとして、グッと口を閉じた。

村雨はじっと様子を伺っている。

朋恵は、咳払いをして、東西南北それぞれに対応する宝物を預かる守人が立ちなさいと指示をした。

「東は青龍」

ベッドの東側に、竜牙刀を持った壬生が立つ。

「西に白虎」

ベッドの西側に、虎爪刀を持った蓬莱寺が立つ。

「南に朱雀」

ベッドの南側に、雀炎刀を持った村雨が立つ。

「北に玄武」

ベッドの北側に、蛇亀刀を持った如月が立つ。

「―――これで、いいのか?」

蓬莱寺の声に、朋恵は静かに頷いた。

「貴女」

振り返って、呼ばれた美里がハッと朋恵を見詰めた。

「あなたは陽の門の役をなさい」

「陽の、門?」

「そうです」

朋恵は深く頷く。

「あなたのその力、その身に宿る光は、菩薩眼の光」

「菩薩眼?」

「気脈を読み、龍が与えし剣を生むことの出来る、ただ一つの存在です、菩薩眼は、剣の守姫」

「じゃあ、もしかして、貴女も」

驚いた様子の美里に、朋恵はかすかに微笑を浮かべる。

「そう、私も―――菩薩眼、ですが、守姫の役を与えられている私は、唯一龍へ通じる道を開くことができる」

「それは」

更に問いかけようとする美里を、視線で制する。

「貴女も、兄を呼び戻したいと、願ってくれますか?」

美里はキュッと口元を引き締めて、直後にええ、と深く頷き返した。

「光の、助けになりたいです」

「では、貴女の力もお貸しください、お願いいたします」

朋恵の指示で、美里は村雨と壬生の中間位置に立った。

彼らの一人一人を見回して、不意に表情を曇らせる。

「あと、一つ―――いまだ目覚めぬのか、イザナミは」

蓬莱寺たちが朋恵を振り返った瞬間、カチャリ、と扉が開かれた。

ぺた、ぺた、ぺた。

まるで陽炎のように、ふわりと滑り込んできた姿を見て、蓬莱寺と如月が唖然とする。

「君は」

「さ、紗代ちゃん?!」

 

―――そこに立っていたのは、現在昏睡状態で入院しているはずの、比良坂紗代の姿だった。

 

比良坂はそのまま羽根のような軽やかさで、白い病院着の裾を翻す。

「意識が、戻ったのか?」

蓬莱寺に向かって、ハイと微笑んだ。

「光さんのために、戻ってきました」

「光の?」

怪訝な顔をした美里を真っ直ぐ見詰め返す。

「私はあなたの対、陰の門です」

「私の、対?」

「伊耶那美、目覚めたのですね」

朋恵に呼びかけられて、振り返った比良坂はハイと深く頷いた。

「光さんが私に、すべき事を教えてくれた―――目覚めさせてくれたのは、貴女ですね?」

「そうです、黄泉比良坂をたどることの出来るその力が今こそ必要なのです」

「わかっています」

そちらへ、の差す手に従い、蓬莱寺と如月の中間辺りに立った。

朋恵はベッドの傍らに立ち、手を伸ばして光の額に触れる。

「守人よ、剣を掲げなさい」

四人が、言われたとおり、鞘から抜き放った剣を頭上にかざす。

「陰陽の門は龍へ祈りを、太古、人が龍より剣を賜りし場を、今ここに再現するのです」

美里と比良坂が、両手を組んで瞳を閉じた。

彼女達が祈りだしてすぐ、それぞれの体に青白い輝きが宿る。

それに呼応するように、掲げた太刀と小太刀が眩い四色の色を放ち始めた。

「お兄様」

朋恵の体は金色に輝いている。

瞳の色も金で、それは光のものとよく似ていた。

「お兄様、お戻りあそばせ」

静かな、それでいて、強い力のこもった声で、朋恵は呼び続ける。

「御身の宿星はまだ途絶えていない、御身は、まだ成さねばならぬ事がある」

光の全身が淡く発光を始める。その輝きもまた、金色だった。

「お戻りくださいませ、お兄様」

―――まだ、御許へ戻られるのは、早すぎます。

室内は眩い輝きで満たされていた。

 

(続きへ)