最後の荷物をバックに詰めて、光は病室内を見渡す。

「忘れ物は無いかい?」

「ああ、大丈夫」

振り返ってニコリと微笑んだ。

入り口で、他の荷物を持って待っている姿―――壬生は、静かに佇んでいる。

「じゃあ、行こう」

駆け寄っていって、どちらの手も塞がっているので、仕方ないから腕を握る。

見上げると、少し困ったような表情と視線があった。

「ダメ、かな?」

窺うと、いや、構わないよと首を振り返す。

「好きにしてくれていいよ、光」

「うん」

二人は並んで歩き出した。

胸に、例えようもないほどの幸福感があふれていた。

 

術後の経過は桜ヶ丘病院の院長が舌を巻くほど良好で、光の傷は僅か数日のうちに完治してしまった。

「まったく、あたしの楽しみを、こうも簡単に退院されちまうとはねえ」

軽口を叩いても、本音は喜んでくれているのだろう。院長は優しい顔をしていた。

彼女は光の身体を、常人では考えられないほどの治癒力だとつくづく感心していた。

「身体を鍛えているだけが理由ってわけでもなさそうだが―――まあ、詳しい事情は聞かないでおくよ」

―――実際、彼女の推察は半ば当たっている。

剣である光は、そもそもの治癒力が恐ろしく高い。

あの時柳生に切られても、もし彼が本来の力を少しも損なっていなければ、瀕死の状態にはならなかっただろう。

倒れたのは、壬生の施していた六門封神によって著しく体機能を損なっていたから。

その事実を責める朋恵を、光は必死でなだめて、許しを請った。

お兄様が何故謝るのですかと、妹は痛々しいほど悲しげな表情を浮かべていた。

それでも、光は壬生を憎めない。

どれ程の目に合わされようとも、想いが揺らぐ事は一度も無かったのだから。

「ゴメン朋恵、それに、皆も、ゴメン」

病室に戻ってきた仲間達に、光は頭を下げたのだった。

それがどれ程卑怯な行為かと知っていながら、ただ自分自身の想いのためだけに謝り続けた。

壬生も、隣でずっと頭を下げていた。

そんな二人に、彼らは憤り、悩んで―――それでも最後は、受け入れてくれた。

「お前にそんな顔されたら、俺らは何も言えなくなっちまうじゃねえかよ」

寂しく微笑んだ蓬莱寺の姿が未だに瞼に焼き付いてはなれない。

皆には散々迷惑をかけた。

もう二度と、こんな事はしない。

俺は迷ったりしない。

隣を見ると壬生がいて、あの頃と同じように、真っ直ぐ前を向いて歩いていた。

光の視線に気づくと、振り返ってかすかに微笑みを返してくれる。

―――紅葉がいてくれるなら、俺はもう、大丈夫

微笑み返して歩く、光の姿を見かけたほかの看護婦や患者達が、一瞬足を止めてぼうっと呆ける。

龍の剣は今、その光をすっかり取り戻していた。

彼の内側で滾る黄金の気配が、全身に隈なく漲っている。

病院から出ると、正面玄関のすぐ傍に黒塗りの車が待っていて、その傍らで朋恵が白い息を煙らせていた。光を見つけた途端、瞳をぱあっと輝かせて勢いよく駆け寄ってくる。

「お兄様!」

コートの裾を翻す、幼い仕草に光はつい笑ってしまう。

入院している間に、一気に季節が変わってしまったようだ。辺りの空気は冷たい。

気温差でクシャミをした光に、壬生が、首に巻いていたマフラーを巻きつけてくれた。

息急き込んで朋恵が正面に立ったとき、壬生の携帯電話から着信音が響いた。

「お兄様、退院おめでとうございます」

通話を始める壬生を他所に、朋恵は、嬉しそうに光を見上げる。

「―――お戻りに、なられたのですね」

言いたい所を理解して、光はああと答えて微笑みを返す。

彼女は頭から爪の先まで、心底満ち足りた表情で見回すと、不意に少しだけ瞳を伏せた。

「私は、妹として、お兄様の幸せを祈っています」

「うん」

「お兄様の幸せが、私の喜び」

朋恵、と呼びかけると、彼女は再びニッコリ笑いかけてくれた。

光とよく似た、綺麗な面立ちに、僅かの陰りも見せず、穏やかで真っ直ぐな眼差しで。

「幸せになってくださいませ、お兄様」

光は一瞬言葉に詰まって、それから、静かに頷き返した。

「―――ああ」

直後に守姫の顔をした彼女が複雑な笑みを浮かべたことに気づいて、剣は微妙に困り顔で微笑み返す。

彼らに流れる御剣の血だけがその意味を知る。

通話を終えた壬生が携帯電話をしまいながら朋恵を振り返った。

「朋恵さん、今、鳴瀧から電話がありました」

朋恵はすぐ厳しい顔になって、彼を仰ぎ見た。

「拳武のことですね?」

「すでに伝わっていましたか、今、青山が事後処理をしているそうです」

「どうしたんだ?」

驚く光に、壬生が硬い表情を向けた。

「僕の所属する拳武館高校の事は、知っているよね」

「ああ」

文武両道を校訓に掲げ、高い学生水準を誇る私立校、拳武館高校。

その裏の顔が日本屈指の暗殺集団である事は、暗部にかかわる人間以外誰も知らない。

校内でも暗殺者として働く生徒は選抜生扱いで、一般生徒ですらそんな事実はあるとは夢にも思っていないだろう。

―――そして壬生は、その暗部に関わり、トップクラスの実力を誇る、暗殺者としての一面も持っている。

「鳴瀧館長がいない間、代理として『指示』を出していた、副館長が、外法で鬼に変じた」

光は瞠目する。

以前拳武館を訪れた時、一度だけ見かけた、尊大そうな痩せぎすのあの男が鬼に変じたというのか。

「なんで」

問いかけた口元をハッと閉じた、仕草に気づいた壬生が、微かに頷く。

「君の、考えているとおりだよ」

「柳生、か?」

「あの男は、拳武の依頼人だった」

僅かに瞳の色が暗く染まったようで、光は思わず壬生の服を掴んでいた。

戻される視線を、しっかりと見詰め返す。

―――大丈夫だよ。

困り顔が微かに微笑んでくれて、光はようやく手を離す。

「詳細は、追って連絡が行くと思いますが」

彼は再び表情を引き締めると、朋恵を振り返り、話を続けた。

「今回の行為は、契約違反条項に該当します」

「なるほど」

「拳武の掟と照合した結果、館長を含めた理事会の全員一致で契約は反故、柳生の権限の消滅及び、私に下されていた任も解かれました」

「そうですか」

感慨深く呟いた後で、朋恵は不意に、ホホと口元に手をやり、笑っていた。

「ずいぶん都合よく運びましたこと―――まあ、先日の事を思えば当然ですわね、むしろ、彼奴等の計は初めから破綻していたと考えた方がよろしいのかしら」

光によく似た眼差しでじっと睨むように見据えられて、壬生が僅かに眉根を寄せる。

光は、不思議そうに妹を見ていた。

その姿にふと気づいて、朋恵はそっと口の端を緩ませる。

―――このように穏やかなお姿を、どれ程振りに拝見しただろうか

最愛の兄であり、また何を措いても守るべき主であり、血が呼び合う自らの運命そのものでもある人。

けれど、その際たる感情は、やはり妹のものであったのかと、今になって改めて思う。

(罪深きは人の業、いえ、これも定めのひと繋ぎであるのか)

頬をそよぐ風は冷たい。

春、夏、秋と過ぎ行き、季節は冬へ移り変わろうとしている。

桜の頃を思ってそっと瞳を閉じると、朋恵、と優しい声が呼びかけていた。

「どうしたんだ?」

いえ、と答えて、朋恵はふわりと微笑んだ。

「お兄様のお役目に思いを馳せておりました」

白い、しなやかな手が、同じくらい白くて、古武術の使い手とはとても思えないような優しい兄の手をそっと取り、両掌で包んだ。

「傷も癒え、御身に再び龍の光の満ちた貴方様を、柳生はいよいよ本格的に狙うでしょう」

「朋恵」

「御身に天のご加護がありますように、私が、いえ、私達が、貴方様をお守りいたします」

隣で壬生が深く頷く。

光は、不意に兄の顔になって、朋恵の黒髪をそっと撫でた。

「ありがとう、朋恵」

朋恵の内側に喜びがこみ上げてくる。この人は、何者にも代えがたい、私の兄だ。

その双眸に宿るものは、紛れもない龍金。揺るがない意志の光。

(お守りいたします、お兄様)

それは、光も同じ様に思っていることだった。

(皆を守る、もう二度と、誰も傷つくことのないように)

自分を想い、愛してくれている、こんなにもたくさんの人々のためにも―――

(御剣の『剣』として)

使命の成就を。

遠く、あの闇の底で聞いた咆哮が、今も胸に轟くようだった。

呼ぶ声に背を向けて、朋恵に誘われながら、光は壬生を伴って歩き始めた。

 

(続きへ)