「よお」
ベルの音とともにドアを開き、クラシックな内装の店内を見渡す壬生に、蓬莱寺が手を振った。
振り返って軽く一礼する。
テーブルには他に、如月、朋恵が、それぞれ席について待っていた。
「すみません、僕が最後になりました」
「別に待っちゃいねえよ」
「ああ、丁度約束の時刻だ、遅れてはいない」
「壬生、座りなさい」
壬生は空いている席に腰を下ろす。向かい側に蓬莱寺の姿があり、右隣に如月、左隣に朋恵がいる。
注文をとりにきたウェイトレスに、彼はそのままコーヒーをブラックでと頼んだ。
「さてっと」
伝票を持って立ち去る姿を見送って、蓬莱寺がテーブルの上に身を乗り出してくる。
「詳しい話しを聞かせてもらおうじゃねえか」
「ああ」
覚悟した表情が静かに頷いた。
この場に一同が会した理由はただ一つ。
「今、僕が知っている全てを、皆さんにお話します」
―――かつて柳生宗崇と影生依人の元にいた、壬生紅葉から敵方の情報を得るため。
現状において殆ど詳細の明らかになっていない彼らの話を訊きだすのに、これほど適当な人物はいないだろう。
彼は、つい最近まで、その尖兵として蓬莱寺たちに牙を剥いていたのだから。
どれ程光が希ったとしても、個々に刻まれた憎しみを消し去ることは難しい。
自分を見据える視線の厳しさに、壬生は改めて心中深く自身の置かれている立場を噛み締めていた。
「では、まずは君と影生の関係から聞かせてもらおうか」
「はい」
如月に促されて、重い口元が緩々と開かれていく。
壬生は、静かに語り始める―――去年の秋から、今年の冬までの出来事を。
「―――影生依人と、僕が出会ったのは、去年の秋頃でした」
あの日、忘れもしない公園での一時。
僕らは言葉も交わさず、本を読んだ。
その後も時折そういうことが重なって、だんだん自分の事など話すようになった。
事実関係だけを話しながら、壬生は過去に思いを馳せていく。
―――影生は初めから、あんな性質の人間だったわけじゃない。
(けど、恐らく、僕らは本質的な部分が似ていたんだろう)
今なら多少分かる。
当時からすでにその片鱗を見せ始めていた、影生の孤独、嘆き、悲しみ。
出会った頃はよく笑い、よく話す、多少臆病ではあるが、それでも繊細な、ごく普通の男であったのに。
一体いつから狂い始めていたのだろう。
(彼も―――僕も)
当時、壬生はすでに少しずつ壊れ始めている自身に自覚があった。
光と離れてすぐ、初めての任務で人を殺めて、それからもう何人もの血でこの手を濡らし、一生かけても清算できない業を背負い込んでしまった。
あの一件で守人としての任を解かれた自分が、それでも拳武館に在籍する事ができた理由はただ一つ、壬生は、すでに拳武の裏の仕事をこなせるだけの実力を身につけてしまっていたから。
鳴瀧の温情でずっとこちら側に関わり続けていられた。
もしそうでなければ、僕は再びただの身寄りの無い子供として、今頃は路頭に迷っていただろうと思う。
(いや、それこそ―――自惚れなのかもしれないな)
鳴瀧がどういうつもりで壬生をずっと手元に置いていてくれたのか、本当のところはわからない。
彼の口から、彼の言葉で、本心を聞いたわけじゃないから。
けれど、とにかくそのおかげで影生と知り合い、光と再会できたのは紛れも無い事実だ。
運命の輪はいつでも皮肉と共に回る。
僕は、心の闇に翻弄され続け、無様に躍っていたタダのピエロだった。
孤独に凍えそうになるたび、いつだって救いを求めて思い描いたものは、思い出の中にだけ残る光の笑顔だけだった。
『―――御剣光が、欲しいかい?』
何度もその名を語っていたから、影生が光の話をしたとき、それほど違和感を感じなかった。
『僕の、大切な人がね、いい方法があるって、教えてくれたんだけどさ』
低い声の囁きに、壬生は一瞬で心乱れた。
『君、剣が心を許した、御剣の守人なんだろう?ただの守人には仕えない秘術が、君には使えるはずだ』
『どうしてそれを』
『そんなことはどうだっていい、僕も詳しいことなんて知らない、あの人が教えてくれたんだから』
『あの人?』
恍惚の表情で微笑んだ、影生の目の中に浮かんでいた、暗闇。
『柳生宗崇様さ』
―――彼が尊敬し、また、崇拝する、身寄りの無い影生を引き取ってくれた、唯一無二の恩人。
「では、影生は柳生の養子であると、そういうことなのですか?」
「はい、法的な手続き云々まではわかりませんが、事実関係としては間違いないと思います」
壬生の言葉に一同は唖然としている。
二人の関係には明らかに密なものを感じてはいたが、まさかそんな繋がりであったとは。
「―――そちら方面からも手を回してみるべきですわね」
呟いた朋恵が続きを促して、壬生は頷いた。
「影生は、現状において僕だけが使うことのできる秘術、六門封神を使えばいいと、そう言ってきました」
「お前は彼奴がお兄様の御名を知っていたことも、六門封神の知識も、疑りはしなかったのですか?」
「―――申し訳ありません、当時の僕には、それだけの判断力が残っていませんでした」
ただ、光を再び抱けるかもしれないという期待感。
それだけでいっぱいになってしまって、他のことなど考える余地すらなかった。
『御剣光はあの力があるから、特別扱いされているんだろう?』
『だったらその力、封じてしまえよ、そうすればきっと、彼は君だけのモノになる』
影生の言葉はまるで麻薬のように壬生の心を沸騰させた。
あの日々がこの手に戻ってくるのかと思うと、居ても立ってもいられなかった。
『拳武館は私的な殺戮活動を禁じていて、それを破ると局中法度で殺されてしまうのだろう?なら、僕が柳生様に頼んで、正式な依頼として君にその権限をあげるよ、御剣光を害してくれってね』
『依人、どうしてそこまで』
『辛そうな君を見ていられないんだ、それに、僕も―――欲しいものが、あるから―――君もあの人形が欲しくてたまらないのだろう?僕らの利害は一致している、なら、僕は、いや、僕らは喜んで君に手を貸そうじゃないか』
「人形?」
朋恵は怪訝に表情をしかめて、考えるように視線を落とした。
壬生は更に話を続ける。
「それからすぐ、影生を代理人に立てて、柳生から正式に拳武館へ依頼がありました」
「光を害せ、と?」
如月が尋ねる。
「はい―――僕に、それを実行させろ、手段及び生死は問わない、一定の成果を上げれば、その都度そちらの言い値で報酬を支払う、と」
「拳武にとってはうまい話だな、君らを統括する上層部が引き受けたんだな?」
「正確には副館長の独断でした」
「副館長」
蓬莱寺が呟く。
「あの、人相の悪い男か」
「―――君は彼を知っているのか?」
「ああ、まあ、な」
それきり他所を向いてしまった。蓬莱寺から視線を戻して、壬生は続ける。
「本来、依頼内容は全て館長自ら一度目を通し、受けるか否かの判断を下すのですが、その時館長は渡米していて、全ては副館長が内々に判断し、計画通り僕に任務が下りました」
「そうして君はそれを受けた」
「―――はい」
「最低だな」
吐き捨てるように呟いた蓬莱寺を、如月がちらりと振り返る。
朋恵は何も言わない。まだ考え込んでいる様子だ。
壬生は、僅かに顔を伏せていた。
「―――後の事はご存知の通りです、僕は、光に六門封神を施して、彼の力を封じようとした」
本人の意思すら無視して、自らの欲のためだけに、彼を強奪しようとしていた。
愛しい人を傷つけても、そんな行為を省みもせずに。
「壬生」
朋恵の呼び声に、壬生は顔を上げる。
「一定の成果の報告とは、それはお前が影生に直にしていたのですか?」
「いえ、彼らはどこかで僕の動きを見ていたようでした」
そうして光に封印を一つ施すたび、報酬金とは別に、多額の金が副館長名義の口座に振り込まれていたらしい。
それは、外法によって鬼へと転じた彼が消滅した直後、彼の身辺を諜報部が捜査した際、明らかにされた。
そうして口を封じることで、柳生は自らの計画をより確実に実行しようとしていたのだろうと。
「愚かな」
吐き捨てて、朋恵は更に質問を重ねる。
「お前は影生の居場所を知っているのですか?」
「はい」
「それは、何処?」
「正確な場所はわかりません、ただ、等々力にある竹林の奥に、その場所へ続く空間の歪みが作られていて、僕はそこを抜けて影生に会っていました」
「お前は柳生と面識があるのですか?」
「いえ―――あの男は影生としか会いません」
「彼奴らが何故、お前に力を貸して、お兄様の御力を封じようとしていたのか、詳しい事情を聞いた事は?」
「いいえ、ありません、ただ一度、影生が僕に話してくれた事があります」
「何ですか?」
「―――光の存在が、自分の存在を消す、と」
「消す?」
彼女は俄かに守姫の顔で、また何か思索の海に深く沈む。
彼らについての情報はあらかた話しつくしてしまったので、壬生も黙り込むと、朋恵のバックから不意に携帯電話の着信音が鳴り響いていた。
「失礼」
立ち上がり、バックを持って店の外へ出て行く。
後姿を目で追って、振り返った如月が改めて壬生を見据えた。蓬莱寺も同じようにしている。
「壬生」
「はい」
「では、改めて整理させてもらおう、君は去年の秋頃に影生依人と出会い、友人になった」
「はい」
「その後、交遊期間を経て、彼らは何らかの手段で君と光の関係を知り、君に、光に六門封神を施すように誘いをかけた」
「―――はい」
「そしてそれは君のためだと言いつつ、彼らにも何らかのメリットがあると、そういう事だな?」
「恐らくは」
「光の力が消滅することで生まれる、柳生方のメリット、か」
その関連性を考えているらしい如月の隣から、憮然と腕を組んだ蓬莱寺が口を開いた。
「おい、壬生」
「何だい」
「俺からも聞きたい事が幾つかある」
彼の目の前に置かれたカップからは、すでに湯気が消えて久しい。
壬生の手前にいつの間にか運ばれていたコーヒーも、すっかり冷え切っていた。
「この間の、病院での事だ」
その一言に表情が曇る。過去と呼ぶにはあまりに鮮明な、ほんの数週間前の記憶。
「あの時影生が言ってた、姫のせいでずっと苦しんでたとかいう話、アレは本当なのかよ?」
壬生は再び俯いた。
「―――ああ、本当だ」
視線の先に映る、琥珀色の表面が揺れている。
「僕は、五年前のあの日からずっと、耐え難い喪失感に苛まれてきた」
理不尽に、愛しいものを連れ去られて、憎しみや怒りを覚えたのは初めの一二年の間だけだった。
後に残されたものは、虚無。
それは自身すら飲み込んでなお、際限なく広がる漆黒の大穴だった。
胸に穿たれたその穴を埋めるものは何もなく、いっそ全てなくしてしまえたらどれ程楽だろうと、何度思っただろうか。
光との思い出や、あの声、笑顔、温もり、いっそ苦しむ自分ごと消してしまえたらと、苦悩に身悶えた日々は数え切れない。
蓬莱寺の苛立った気配が、僅かに伝わってきた。
「じゃあ、もう一つ訊くが、影生を助ける代わりに、お前の望みをかなえてやるっていうのは」
「依人は、僕にずっと傍に居て欲しいと、そう言っていたんだ」
君は初めてできた友達だから―――秋が、冬に変わる頃、そんな話をしていた。
ずっと一緒に居て欲しい。
この寂しさから、救い出して欲しい。
僕にとっての世界は柳生様だけれど、君は、僕にとって唯一親友と呼べる人なんだ、だから―――
(依人)
彼の、あの暗闇の中で見た最後の彼の表情や仕草がつぶさに蘇ってきて、壬生は堅く手を握り締める。
(裏切るつもりはなかった)
本心の言葉だ。自分は今も影生を友人だと思っている。
お互いの傷を舐めあうように、僅かの期間だったけれど、それでも影生は苦しみを和らげてくれた。
痛みを分かち合ってくれた。
影生にとって壬生がかけがえのないものであったように、壬生にとってもまた、彼はかけがえのない人だった。
―――けれど。
(もしも、この先)
「てめえは」
蓬莱寺が口を開く。
「そのダチと遣り合えるのかよ?」
二人の姿を、如月も見ている。気配がする。
「そんだけの恩義のある野郎を、てめえはいざって時本気で殴れるのか?奴らは多分、いや、絶対に、また姫を狙って姿を見せる、そんときアンタは影生を」
「戦える、さ」
指先がピクリと震えて、前髪の影で静かに瞼が閉じられたようだった。
けれど、次にはもうゆっくりと顔を上げて、壬生は真っ直ぐに正面を見据えた。
「―――僕にとって一番大切なものは、いつだって変わらない」
瞳の奥に微かに浮かぶ、狂気の残滓を見て取って、蓬莱寺は閉口する。
「身勝手な、言葉だな」
最後に如月が呟いて、それきり、テーブルを挟んだ彼らは感情を押し殺すように静まり返る。
それぞれの胸に取り留めのない感情の奔流が巻き起こっていた。
少しの間を置いて、店外から通話を終えた朋恵が戻ってきた。
「失礼いたしました」
そして三人の姿を見て僅かに怪訝な顔をすると、そのまま元の席に腰を下ろす。
「いかがなされたのですか?」
「―――いや」
何でもないと首を振って、蓬莱寺は冷たいカップを口元に運ぶ。
「それより朋恵さん、今の電話は」
「はい」
振り返った朋恵は、如月に頷き返した。
「拳武から連絡がありました、柳生達と副館長のおおよその繋がりが割り出せたそうです」
「そうですか」
「壬生」
「はい」
「お前の事に関しても、今回は依頼主の契約詐称という事で、咎は無くなりました」
「―――そうですか」
「先の話と合わせて、おおよその全体像も見えてまいりました、そろそろ出ましょう、長居は不要です」
再び席を立つ彼女に合わせて、壬生、如月も席を立った。
最後にのろのろとした動作で蓬莱寺が立ち上がる。
伝票を取ろうとした壬生の手元から先に素早くそれを取って、朋恵は精算台へ歩いて行ってしまった。
後に続く如月の姿を見送って、何となく手持ち無沙汰になりながら歩き出そうとした壬生を、蓬莱寺が呼び止めた。
「姫は、元気か」
振り返った先の表情は、複雑な気配を孕んでいる。
「ああ」
「そっか」
瞬間、僅かに安堵を滲ませた蓬莱寺を見て、表情を強張らせた壬生に、直後に蓬莱寺は再び鋭い眼差しを返していた。
反応に困って立ち尽くす壬生と、向かい合って立つ蓬莱寺の向こう、出入り口のほうから、朋恵が彼らを呼んだ。
「蓬莱寺様、壬生、何をしておられるのですか?」
直後にすぐ行くと答えて、蓬莱寺はじっと壬生を見据える。
「壬生紅葉、俺は、まだアンタを許しちゃいない、姫がなんて言おうが、アンタを認める事はできねえ―――けど、これだけは約束しろ」
どん、と肩を突かれて、強引に脇をすり抜けた、彼の言葉が小さく耳に響いた。
「てめえの命に代えても、姫を守れよ」
振り返ると、去っていく背中は逞しいのに、どこか切なくて、壬生はかける言葉を見つけられない。
「蓬莱寺君―――」
僅かに間を置いて、すぐ店の外へ出た。
見上げれば空は暗く、垂れ込めた雪雲から今にも純白の欠片が落ちてきそうだ。
吹きぬける風に身をすくめて、時計を見ればすでに数時間過ぎていた。
今頃、光はどうしているだろうか。
ふと考えた視線の先で、コートの背中が少し離れた黒塗りの車へ向かい歩いていく。
中から出てきた運転手が、扉の脇に立ち、主の戻りを待っていた。
「蓬莱寺様、如月様」
途中で立ち止まり、朋恵は二人を交互に見ると、丁寧に礼をした。
「本日はご足労有難うございます、今後の事も含めて、またお二方にはご連絡差し上げます」
「僕らはそれまでどうしていたらよいのですか」
「はい、これまでどおり、お兄様の警護をお願いいたします」
「おう、わかったぜ」
「了解しました」
頷く二人に、朋恵はもう一度礼をする。
「よろしくお願いいたします、守人として、お兄様のためにご助力くださいませ」
「やめてくれよ朋恵ちゃん」
蓬莱寺が苦笑いを浮かべた。
「朋恵ちゃんに頼まれなくたって、俺らはそのつもりだぜ、なあ、如月」
「ああ、その通りだ、朋恵さん、どうかお気遣いなく」
如月も笑顔で朋恵を真っ直ぐ見詰めている。
「僕も、蓬莱寺君も、光のために、友人として出来得る限りをする覚悟です」
「そうそう、だからさ、朋恵ちゃんもそう難しい顔ばっかりしないで、少しは肩の力を抜くといいぜ、とりあえずは―――姫も、元に戻ったんだしよ」
そうしてちらりと壬生を見る―――如月も、同じ様に一瞬だけ視線を向けたようだった。
「じゃ、俺らはそろそろ行くぜ」
片手を上げて、蓬莱寺は踵を返すと、そのまま歩き始めた。
「では、僕も、失礼します」
如月も朋恵に会釈をした後で、壬生に目礼すると、反対方向へと歩いて行く。
二人の背中はあっという間に雑踏に紛れて見えなくなってしまった。
残されて、立ち尽くす壬生に、凛とした声が呼びかけていた。
「壬生」
朋恵が歩いてくる。
この少女は、光と面立ちがよく似ている。
時折見せる表情などは瓜二つで、それがどこか愛しく、また苦手でもあった。
彼女の長い髪が風にふわりと揺れる。
「務めはちゃんと果たしているようですね」
「はい」
「御身をお守りする事だけが、私やお前の最たる行動原理、他はありません」
「心得て、おります」
「よろしい」
朋恵はフッと瞼を閉じた。
「―――壬生」
「はい」
「お前に、一つだけ訊いておきたい事があります」
そうして再び見開かれる。彼女の瞳が、淡い金色に輝いて見える。
「お兄様の事、どのように思っているのですか?」
咄嗟に質問の意図が読めなかった。
壬生に、朋恵は更に言葉をつなげる。
「お前は、お兄様を、御剣光をどのように思っているのですか?」
「どう、とは」
「御身は剣です、そしてお前はその守人―――彼の方を乞い求めるお前の想いはわかります、ですが、それは何故?何かを紛らわせるためなのですか、それとも、何かから逃れるため?単なる独占欲からなのですか、私は、お前の口から、はっきりとその理由を聞いておきたいのです」
あたりの喧騒が急に遠のいたようだった。
今、こんなにも多くの人が行き交う往来で、ただ自分の心の奥底だけを覗き込んで、壬生は静かに呼吸を繰り返す。
「僕は」
混ざり気のない声だった。
「正直、僕自身まだ正確に把握しきれていません、僕自身の心は、光に何を求めているのか、それは、愛情なのか、欲望なのか、依存心なのか、まだよくわかっていません」
ですが。
答を待つ朋恵と、真っ直ぐに向き合う。
もう迷ったりしない。
僕は、僕自身の心の闇に溺れて、二度と愛する人に傷をつけたり、苦しめたりなどしない。
「僕は、光と共に在りたい」
いついかなる時も、それが例え苦しみであっても、何かを失うようなことになったとしても。
「光は僕の、全てですから」
長い苦しみの果てに起こった奇跡を、決して裏切りはしない。
それは血を流すほどに願い、欲したものだから。もうこの手を離さない。
朋恵はその表情に何の色も示さず、ただ一言そうですかと答えただけだった。
「―――壬生」
「はい」
「今、御方にとって最も必要であり、また御方が最も必要としているものは、お前です」
「はい」
「共に在りたいと願う、その心を決して忘れずにいなさい、お前自身の言葉を、決して裏切らぬよう、その努力を惜しまぬよう」
「朋恵さん?」
言葉に強いものが混じったような気がして、窺った先の姿は不意に踵を返していた。
長い髪が揺れて、コートの裾が翻る。
「―――お兄様によろしくお伝えください、朋恵が気にしていた、と」
そのままつかつかと歩き去って行く。
少女は、後は一度も壬生を見ることなく車に乗り込み、運転手がドアを閉めると、黒塗りの車は滑るように走り去ってしまった。
ただ一人取り残された壬生は、暫らくその場に立ち尽くし、ふと上空を見上げていた。
空が低い。
灰色の雲は、まるで混沌とした状況を暗に示しているかのように写る。
「光」
呟いた声は雑踏に呑まれて、壬生は、正面を向くと、心持ち性急に歩き出していた。
今すぐ光の元に戻りたい。
彼の傍らで、ただ静かに寄り添っていたい。
冬の寒気が、その背中を後押ししてくるようだった。