ただいまと玄関を開いても何も聞こえないので、壬生は一瞬不安になる。

けれど、居間へ行き、その理由がわかると、ようやく肩の力を抜いてやれやれと微笑んでいた。

「光」

光は、ベランダに続くサッシの手前で寝ていた。

おそらくあの後もずっと外の景色を眺めて、そのうち眠くなってしまったのだろう。

エアコンの温度を調節して、和室の押入れから彼の上掛けを持ってくる。

物音を立てない様に近づいて、そっと寝顔を覗き込んだ。

睫が長く、色の白い、整ったきれいな顔だ。

177センチメートルも身長が無ければ、そして声を聞かなければ、誰もが彼の性別を見誤るだろう。

けれど、そういった部分を差し引いてもなお、光は男女の性を問わず好まれる美しい姿をしている。

時代の声に呼ばれ、万民に望まれて姿を見せる、御剣の『剣』

彼の存在はあらゆるものに愛される。そのように生まれてくる。

いつだったか鳴瀧から聞いた話だ。彼の父親も、そういう男であったと。

(けれど、僕は)

例え光がこの姿を失ったとしても、声を失ったとしても、そう、あらゆる全てを失ったとしても。

(君が、君である限り、それは僕にとってかけがえのないものだ)

そっと手を伸ばして、前髪に触れる。

柔らかな感触が肌をくすぐって、その下の滑らかな額をあらわにした。

(もし君が、君ですらなくなったとしても―――僕が自分を忘れたとしても、それでも、僕はきっと君の事を愛する)

いつでも、どこでも、どんな状況であったとしても、何度でも。

「愛しているよ」

そっと口づけて、身体を起こすと、壬生は光に上掛けをかけてやろうとした。

端を両手に掴んで広げ、ふわりと身体を包み込んだその端から金茶の瞳がじっとこちらを見ていることに気づき、はたと動作を止める。

「光」

「おかえり、紅葉、遅かったね」

「あ、ああ、すまない」

なんとも気まずそうに視線をそらしながら、壬生は片手で口元を押さえる。

「その―――いつから起きていたんだ?」

「さっき、紅葉の気配がしたから」

「そう」

そのまま僅かに躊躇して、着替えをしなくてはととって付けたような理由を自分の中で呟いてから、背中を向けた彼に、小さな声が呼びかけていた。

「紅葉」

肩越しの視線が光に向けられる。

「―――俺も、紅葉のこと、愛しているよ」

ぐ、と息が詰まり、心臓が一瞬、ドクンと鳴った。

室内灯を反射して星を映し出す瞳は、先ほどの朋恵の瞳よりずっと胸の奥深くに響く何かを伝える。

それが、僅かに息苦しいようで、身じろぎすらできずにいる壬生に、光は上掛けからちゃんと顔を覗かせて柔らかな笑みを浮かべた。

「どれだけ離れて、どれだけ変わって、たとえ、俺の事を忘れていたとしても、それでも俺は紅葉が好きだよ」

「ひか、る」

「もし俺が忘れたとしても、何度でも出会う、何度でも好きになる、俺が選ぶのはいつだって、紅葉だけだから」

黒髪が床の上でさらさらとこすれて、色白の肌は仄かに紅い。

壬生の内側で、何かが弾けるようにして広がっていく。

―――今、僕らの間にどれ程の隔たりがあるというのか。

まだ戸惑うつま先を、そっと彼に向ける。

そろそろと近づいて、横たわる姿を抱き起こした。

優しい温もり。覚えのある感触。

「紅葉」

光の、きれいな瞳。

あの頃と同じ、無垢な輝き。いつでも真っ直ぐに僕を見ていてくれる。

この瞳に見詰められるだけで、生まれ変われそうな気がした。何度も救われていたんだ。

伸ばされた指先を絡め取りながら、そっと唇を重ねる。

煌々と照らし出す室内灯の下で、二人は互いの想いを飲み干すような口づけを交わし続けた。

静寂の中に熱っぽい吐息と、水音だけ響いていた。

どれ程そうしていただろう。

ふと、離れて見詰めると、緩々と開かれた光の双眸は金色に染まっていた。

上気した頬が僅かに緩んで、優しい笑みが広がっていく。

「こんな風にされたの、久しぶりだ」

凭れかかる姿に頬を摺り寄せて、髪や、こめかみや、額に、壬生は口づける。

封印などではなく、今はただ愛しさを込めて、繰り返し、想いを注ぎ込むように。

服越しに感じる気配はやわらかくて温かい。

抱きしめているだけで震えだしてしまいそうだ―――全身が、彼を愛していると告げている。

「―――紅葉が気にしていること、俺にもわかるよ」

壬生は僅かに瞳を伏せた。

やはり勘付いていたか。

昔から聡い人だったから、僕の身勝手な不安や罪悪感なんて、とうに見抜かれているだろうと思っていた。

「でも、俺は今、幸せだから」

「光」

かすかな声に息が詰まりそうになる。

見詰めると、いつだって真摯な眼差しが、今もよどみなく紅葉を見ていた。

刃を向けても、実際に切りつけても、変わることのなかった彼の想い。

だからこそ、まだ真っ直ぐ向かい合えない。

愚かだった自分が心苦しくて、果たして君に愛されていると、そう自負してもいいのかと。

「紅葉が、傍にいてくれて、今凄く嬉しい」

黒髪がそっと、コートの上でこすれた。

「過去は、過去だ、戻れないし、取り戻せない、でも、今は違う、そして、未来はいくらでも作り出すことができる」

そう考える事のできる、光は強い人だ。

僕には出来なかった。過ぎた過去にいつまでも捕らわれ続けて、更にはその想いを利用されてしまった。

影生の姿が微かに脳裏をよぎる―――

(君も、僕と同じなのか?)

執着心や、想う心の脆さを見抜かれて、付け込まれてしまったのだろうか。

「多分、俺も、紅葉も、きっとあの頃のままじゃないんだよ」

胸が大きく一度鳴る。

「光」

「でも俺は、今の紅葉が好きだよ」

―――また鳴った。

「何度だって言える、何度だって誓える、今の俺が一番大切なのは、俺自身ですらない、紅葉なんだ」

「それは」

「―――わかってる」

僅かに困ったように呟いて、その瞬間だけ、視線がそらされた。

「自分でもいけない事だと思う、俺は『剣』だから、何かに心を捕らわれるなんて、あっちゃいけないことなんだろうって思う、でも、俺は―――紅葉を無くすぐらいなら、自分が無くなってしまったほうがいいから」

黄金に輝く瞳が、また真っ直ぐに紅葉を見上げて、微笑みかけてくる。

「愛する人を手にかけてまで、守りたい世界なんて無いよ」

「光」

「紅葉がいるから、俺は戦えるんだ」

こみ上げてきた想いに、そのまま光を強く抱いた。

胸に刺さる思い出の欠片が痛い。けれど、これは望んだ罰だ。

この痛みがある限り、二度と道を間違える事は無い。

大切な人は彼だけ、僕も、僕自身より、彼が愛しい、彼が望みの全てだ。

二度と傷つけたりしない。苦しませも、悲しませたりもしない。

苦しいよと小さく聞こえた声に、そっと身体を起こした―――壬生の目の端に、光るものがあった。

「紅葉」

「光、本当にすまない、すまなかった」

「いいんだ、俺こそゴメン、もっと上手に伝えられたら良かったんだけど」

「いや」

そっと唇を重ね合わせる。

ただそれだけのことで、世界は存在するに足りるだけの意味を持つ。

「けれど、光」

睫の先を触れ合わせながら、壬生は吐息で囁きかけるようにして、彼の髪を撫でる。

「―――これだけは言わせてもらう、僕は、君に死など望まない、僕が言うのはおこがましいかもしれないが、けれど、そんな事を簡単に言わないでくれ」

「紅葉」

「君の事は僕が守る、これからも、ずっと―――もう二度と想いを違えないと誓う」

そうして口づけを交わすと、合間に小さな声が「うん」とこたえたような気がした。

光のシャツの裾に掌を這わせて、たくし上げながら他の場所にも唇で触れていく。

体の内側に生まれた熱が、ごく自然に壬生の全身を突き動かしていた。

伸ばされた白い腕が首に絡みついて、こぼれる吐息は僅かに乱れている。

懐かしい気配が満ちていた。

あの頃、愛しくて一夜の内に何度も求め合った、懐かしい日々の記憶が蘇ってくる。

「光」

コートも脱がず、外出着のまま、半ば脱ぎかけの体の上に覆いかぶさって、壬生は光にキスの雨を降らせた。

優しい声が何度も名前を呼んで、そのたび、内側にこみ上げてくる。

光は今、ここにいる。

たくさん傷つけて、散々想いを裏切ったのに、何もかも受け入れて許してくれた。

(なら、僕は、君のために生きよう)

新たな誓いに全身が震える。

拳武館に入る時、鳴瀧と交わした誓約を、今更だけれど強く思い返していた。

あの頃は守人として、彼を守る事は自身の義務だと考えていた。

(守る想いは、そんな形式的なことじゃない、僕自身の内側からあふれ出すものだ)

瞳を覗き込めば、光はそっと微笑み返してくれる。

その中にまだ多少行為に困惑する様子が見て取れて、そうだったなと壬生はまた思い出す。

「光」

愛しさを込めた口づけで、優しく心を解いていった。あの頃も僕らはそうして想いを伝え合った。

壬生はコートを脱いで、改めて横たえた光に身を重ねる。

深々と寒い夜の闇を窓の外に感じながら、暖かな室内で、互いの熱と目に映る姿だけ繰り返し求め合う。

闇の中に、今年最初の雪が一片、はらはらと舞っていた。

 

(続きへ)