気配に、書き物の手を止めると、弓月は顔を上げた。
これは知っている。
禍々しく、熱い、煉獄の気。本来現世にあってはならぬもの。
立ち上がると、そのまま襖の前まで歩き、片手で開いた。
月光差し込む庭の、ほぼ中央に大柄な人影が立っている。
「―――久しいな」
奥歯を噛んで、弓月は吐き捨てていた。
「柳生」
紅蓮の髪をした男、柳生宗崇は、口の端を上限の月のように吊り上げて笑う。
その禍々しい姿に、憎悪や嫌悪を通り越して、悪寒すら立ち上るようで、弓月は端正な面立ちを歪めた。
「そう怖い顔をするものでもないだろう」
囁くような声と共に、獣の目が光る。
「お互い知らぬ仲でもなし、久々に逢ったのだから、もう少し歓迎してはもらえぬか?」
「戯言を申すな」
「フッ」
冬の寒気がさあっと足元を撫でて部屋に入り込んできた。
空に黒い雲の影が泳いでいる。
その隙間は果てしない闇に沈み、星明りが見えるはずもない。世界は夜の底にある。
弓月は微動だにせず、柳生と正面から対峙している。
「―――その面、以前とまるで変わらぬ」
眼差しがすうと細められた。
「お前の対もそうであったが、御剣とはかくも罪深き一族よ、刻の呼び声に応え姿見せし剣、その姿麗しく、時に人心を惑わせる」
「この身は定めに従うもの、我が望んだ姿ではない」
「なれば、罪深きは龍か、いや」
言葉を区切り、柳生は再び、今度は声に出してクククと笑った。
「―――業深き人の心、か」
「人道より外れた貴様に人の何がわかる」
「わかるとも、我はそも、人より成りし現身ぞ」
紅蓮の髪が風に揺れる。
漆黒の姿は、光を吸収して、照り返す事は決してない。
「御剣弓月よ」
柳生の、屈強な片腕が、何の前触れもなしに弓月に向かって差し出された。
「以前最後だと告げた、その問いを今一度、此度こそ最後として問おう」
黒髪も風に揺れていた。
銀鼠色の弓月の瞳が、夜目にも鮮やかな色を発して輝いている。
「―――我が元へ来い、陰龍よ、そなたにはその資格がある」
空気が微かに震える気配がした。
あたりには物音一つしない。
ただ、闇を隔てて、二つの影は向き合い、互いから一瞬たりとも気をそらさずに、じっと睨み合っている。
風が凪いだ。
弓月は、フッと笑っていた。
「愚か者め」
全身からふわりと、黄金の気配が立ち上る。
「以前、貴様の問いに、我が半身があの岩戸の奥でなんと答えたか、たかだか18年足らずで忘れてしまったのか?」
柳生の表情から余裕の笑みが消えた。
「我と我が半身は一つ、なれば、我が答えも自ずと知れよう」
「否、か」
「当然だ」
フッ
月明かりの逆光で、影になった口元が笑う。
フフ、フフフ、フフフフフ―――
「そなたら剣に、古の盟約を守り続ける意義がどこにある、龍の御剣は定めのままに生きる、そしてそれは、人にとって都合の良い定めというわけではあるまい」
「剣は人だ」
弓月の言葉を柳生は鼻先で吹き飛ばす。
「剣は人にあらず、我はあの日、岩戸の奥にて、それをはっきり悟った」
忌々しく睨みつける銀鼠の瞳に、僅かに悲しみの影がよぎった。
「―――来い、弓月、そなたが片割れを失い、今更に最愛の息子まで奪われようとしているのは、まさに業深き人の望みの所為なるぞ、されば、斯様な場所でそれでもあえて定めを受け入れ、地に伏す理由がどこにある」
「剣は、人だ」
弓月はもう一度、はっきりと、噛み締めるように一言一言、言葉にして紡いだ。
その想いを。
「剣は、人だ、龍が与えし混沌を切り裂く定めの器でも、その本性は人だ、人として生き、人として死ぬ―――人として、人を愛する」
「愚かしい、悠久の時の流れの中で、その意思まで人に食われたか」
「違う、我らは元より、人として生きる身だ」
「フン、くだらぬ」
紅蓮の髪を、片腕が鬱陶しげに払う。
「くだらぬ、実にくだらぬ、そなたのその目に映りし想いは我に近しきものだというのに、それでもまだ己を捨て、定めに生きるというのか」
「我は定めに生きるに在らず、我は、我の望みのままに生きている」
「その確たる証拠はあるまい」
「ならば、貴様にも、その言葉を語る資格などどこにもないだろう」
は、と吐き捨てて、柳生は片手で額を覆った。
漆黒の双眸がまじまじと見開かれ、あざ笑うかのように口を大きく開き、赤々とした口腔を露出させる。
「我にも、だと?」
「そうだ」
「―――我は、我が意志のままに生きている、貴様なぞに問われる筋合いは無い!」
そのままくるりと背中が向けられた。
「どうやら時間の無駄だったようだな、残念だ、弓月」
「私は二度と貴様の顔など見たくも無かった」
「フン、過去の逢瀬を忘れたか、赤襦袢の女共より薄情な奴め」
「再び逢う事はあるまい」
「俺もそのつもりだ」
「―――貴様は、貴様自身が踏みにじってきた者たちによって、常世の闇へと葬られる定めにある」
柳生が一瞬だけ動作を止める。
「我と我が半身が命を賭して打ち出した嚆矢が、いずれ貴様の魂を屠るだろう」
「フ、弓月よ、我が手元には、もう一振り―――漆黒の剣があるのだぞ」
弓月は双眸に銀の光を宿して、じっと影を睨みつけていた。
「知っている」
「ならば、そこで見ていろ弓月、貴様の選択が、如何に愚かで無意味なものであったかを」
ふはは、ふはははと高笑いを残して、深紅の姿が闇に溶け始めた。
やがて、夜が何もかも飲み込んで、庭はただ静かなだけの夜の風景へと戻る。
気配がして、振り返れば廊下の端で千影がじっとこちらを見ていた。
「弓月様」
かすかな声と共に、歩み寄ってくる妻の姿を向かえて、弓月はその肩をそっと抱き寄せていた。
夜着の下の温もりが微かに震えていて、掌でしっかり包み込みながら、鎮めるように言葉を紡ぐ。
「案ずる事は無い、弦麻と迦代さんの残した剣は、手折られたりなどせぬよ」
「はい」
「それに、千影、君と私も、朋恵もいる、あの子は、光はきっと成し遂げてみせるさ」
「信じております」
「ああ」
そうして夜空を見上げる。
主人の横顔に宿るものが、信頼や信念だけでない、悲しく、寂しいものを孕んでいる事に気づいて、千影はそっと顔を伏せていた。
(叶う事ならば―――あの子には、人としての幸せを)
この身に流れる古き血に願う。
どうか、星の定めよ、我らの愛し子に大いなる慈悲を。
「御剣、か」
かすかな声に顔を上げて、まだ空を見ている弓月に千影は寄り添った。
二つの影は重なり合いながら、月光に照らされて、障子の先の畳の上へと長く伸びていた。