ここを訪れるのも久し振りだと思う。

修学旅行のとき以来だ。

あれから、それほど経っていないはずなのに、もうずいぶん以前のことのようだと、車から見える景色に光はぼんやり思いを馳せていた。

正面の門が開き、邸宅前に止められた車内から降り立つと、見覚えのある扉が控える。

そこを、ゆっくり横に開くと、目の前の板張りの玄関先で三つ指をつく姿を見つけた。

「お帰りなさいませ、お兄様」

「朋恵」

驚く光のすぐ後ろで、壬生がかしこまって頭を垂れた。

朋恵の斜め後ろで、同じ様に指をついていた千影も顔を上げる。

「光さん、お帰りなさいませ」

「朋恵まで、どうして」

立ち上がった朋恵は光に上がるように促しながら、少しだけ微笑んで見せた。

「こちらにこうして家族が揃うのも、久し振りですわね」

「あ、ああ」

「急にお呼立てして、申し訳ありません」

「それは構わないが」

千影も立ち上がり、少し下がって息子の姿にすうと瞳を細める。

けれど、すぐ表情を消してしまい、それは朋恵も同じであった。

壬生が靴を脱いで上がった頃を見計らって、彼女はすいと歩き出していた。

「お越しくださいませ、お兄様―――お父様から、大切なお話がございます」

光の指先がピクンと揺れる。

妹の背に続いて歩きながら、彼の表情にも緊迫したものが浮かびだしていた。

その後に千影、壬生と続き、一同は奥の間へ向けて歩を進めた。

 

「光、よく戻ったね」

襖を開き、そこに座る姿を見つけた途端、光は両掌を強く握り締めていた。

弓月の正面にしつらえてある席に腰を下ろし、その隣に朋恵、弓月から少し離れた傍に千影が腰を下ろす。

壬生は、光から離れた彼の斜め後ろに、畳に直に正座をした。

全員座ったのを確認して、弓月はさて、と息子を真っ直ぐに見詰めた。

「以前とは見違えるようだ、お前のその瞳、かつての弦麻を思い出させるようだよ」

「父さん」

「―――詫びる事は無い」

僅かに俯きかけた息子を、父は深い声で制止する。

「お前が、望んで、自ら選び、その道を歩んだというのなら、誰に詫びる必要がある、私に詫びるというのは、その想いを自ら偽りであったとするようなものだ」

光は真っ直ぐに弓月を見た。

「違うのであろう?光」

「はい」

背後で壬生は頭を垂れ、目を閉じる。

「私は、私の意志で選び、歩みました、今もこの身に一片たりとも偽りはありません」

「それでこそ、剣」

弓月の言葉に光は少しだけ目を伏せ、壬生は顔を上げた。

「光、此度お前を急に呼び立てた事には意味がある、朋恵の星視と東の御頭領の占術が同じ日、同じ刻に、同じ結果を見出したのだ」

「―――それは?」

弓月は静かに、一言ずつ言葉をつなげた。

 

「年明けと同時に、世を統べる龍が、現世に顕現する」

 

ぐ、と奥歯を噛み、膝の上で両手を握り締めた光と同じ様に、背後で壬生の気が大きく揺らぐ気配がした。

朋恵はただ静かに正面を向いて座っている。

千影は、真っ直ぐこちらを見ていた。

弓月も同じく光を見詰めている。

その双眸には際立った感情はなく、まるで水面のような静寂が広がるばかりだった。

「場所は東京の上野、寛永寺、かつては徳川幕府の鬼門にあたると、天海僧正が厳重に封じた逸話のある地だが、本来かの地に在りしものは、鬼門などでは無い」

「江戸本来の鬼門は浅草、浅草寺にございます」

朋恵が語る。

「言霊によって幾つも呪法を重ねがけし、かの地をここ、京と同じ呪法都市に作り変えた天海、ですが彼の方がもっとも厳重に封じたものは、鬼門などというつまらぬものではない、それは、黄龍のおわす御座」

「―――龍穴」

「そうですわ」

光の言葉に頷き返して、朋恵は更に続けた。

「いつ、如何なる時代にも、最高の権力を有するに至った人物は、更に力あるものの出現を恐れる―――隠し名で身を潜めていても、御剣に剣が生まれる事があれば、龍は迷わず御身に宿ろうといたします、それが人と龍との契であり、我が一族の祖たる媛巫女が繋ぎし定めであるのですから」

金茶の瞳が、いつのまにか黄金の輝きを湛えていた。

それを見詰める弓月の銀鼠の瞳にも、淡く金色の輝きが宿る。

向かい合う二振りの剣を有した室内は、濃い気の奔流が渦を巻いているようだった。

「徳川が恐れたのは、当時すでに遥か昔語りとして語られるだけの『剣』の存在でした、だから天海僧正は寛永寺を厳重に封じた、そして更に浅草寺を祭る事で、目的自体を偽装した」

「何のために」

「御剣の力を無闇に揮われる事を恐れて、ですわ」

朋恵はほんの少しだけ微笑を浮かべた。

「愚かしいですわね、人は、自ら恐れるものを敬い、崇め奉る事により、その気を鎮め、支配下に置こうとする、ですが時の流れは人如きの意思でどうとなるものでもございません、それが証に幕末、我が一族より生まれし剣は、徳川の威を借る事も損なうこともなく、ただ自らの定めのままに御身を振るい、天を覆いし黒雲を払ったと伝え聞きます」

「その時姿を現したものが―――柳生宗崇であったと、文献には記されてあった」

柳生。

その名前を聞くたび、全身が震える。

恐れや怒りなどではない、ただ静かに、けれど津波のように押し寄せてくる想いは―――悲哀。

あの男によって、多くの者が生を狂わされた。

東京を訪れてから幾度も遭遇した異形然り、父は彼の者との戦いの果てに討ち死に、光自身その凶刃の前に一度倒れた。

(影生も)

そうであるのだろうか?

―――柳生の内に蠢く暗黒に飲まれて、道を見誤っているのだろうか。

人の身に、定めの筋道の行き着く果てまでは、観えない。

「かつて、我が一族の剣の前に倒れし魔人は現代に蘇り、この地を自らの望む修羅の世に変えようとしているのでしょう」

朋恵が静かに語る。

「そのために、彼奴は寛永時の龍穴より御出ましになる龍を、自らのものとして取り込もうとしております」

「それは」

「影生依人は、陰の剣だという事です」

今度こそ、光と壬生は同じ様に目を瞠っていた。

時代の呼び声に応えて姿を現す、龍の御剣。

それはいつの時代にもただ一振り、いずれ地上に光臨する龍を受け入れ、その力を行使するためだけに存在する。

「影生が、剣?」

ポツリとつぶやいた声に、朋恵は頷いた。

「ええ、ですが、お兄様とは本質から異なるものです」

「どういう事だ」

「影生依人の本質は闇、彼の者は、かつては人であったのかもしれませんが、今はその身をただ柳生のためだけに振るうよう造り変えられた歪な器です」

「どうしてそんな」

「以前、桜ヶ丘病院でのことを、お兄様はほとんどご存知ありませんわね?」

壬生の気配がわずかに硬化する。

「―――あの時、もしやと思ったのです」

「何を」

「守姫である私を制することができるのは、御剣であられるお兄様のみ」

ですが。

朋恵は忌々しげに表情をゆがめた。

「影生依人は、いとも簡単に私を押さえ込んだ、それどころか、私の張った結界すら容易く解いてみせた、いくらあの時、以前より格段に彼の者の力が強まっていたとはいえ、そのような芸当が只の術者にできるはずもない」

「蚩尤旗が流れた刻より、我らは柳生の動向を探っていた、そして夏にお前が影生と遭遇した報告を受けてからは、二人の繋がりを調べていたのだ、今回拳武にあのようなことが起こり、壬生の話など併せ、答えに至った」

双眸を閉じて、弓月の口元から深い吐息が漏れる。

「何故、我と我が半身はふた振りの剣として生まれたのか、なぜ弦麻と迦代さんはお前を残して逝ってしまったのか、その答えを今更理解しようとは―――宿星とは時に無慈悲なものであるな、まるでこの世に、人の意思の介入する余地など無いかのようだ」

「父さん」

「案ずるな、光」

どこか寂しげな笑みをそっと浮かべて、けれど弓月は確かな声で光に頷いて見せた。

「定めもこの身の望みの内だ、嘆くことはない」

「―――はい」

俯く光の背中を、壬生がじっと見詰めている。

「柳生の目的、そして影生の正体がわかった今、いずれ訪れる変革の刻を狙い、彼奴は必ずや行動を起こすであろう」

「刻、満つるとき、大地鳴動し、対の大樹が現れると、星は示しておりました」

「対の大樹?」

「御身を寄せし真神に、その片割れは眠っています―――もう一方の大樹は、真神の対である天龍院学園という場所に」

「天龍院?」

壬生の呟きを捕らえて、朋恵は頷いた。

「ええ、影生依人が在籍していた、天龍院学園です」

「影生が、真神の対の学園に?」

言葉にしながら光は呆然としていた。

予定調和というには、あまりに出来すぎている。

運命とはこれほどまでに絶対的なものなのか。誰も、時の流れに逆らうことなどできないのか。

(それは、俺自身も―――)

あの暗闇の底からこちら側に戻って以来、頻繁に聞こえるようになった呼び声が、また光を呼んでいた。

違う、まだその刻じゃない。

必死に御手を振り払う兄の心中を、守姫だけが察していた。

「在籍していた、というのは」

続けて問いを投げかけて、直後に壬生はかしこまって再び頭を下げる。

「―――失礼いたしました」

「構わん、お前は再び御剣の守人たる許しを剣から受けているのだから、何なりと申せ」

もう一度礼をする壬生を一瞥して、朋恵がそれに答えた。

「拳武の一件の直後、副館長の残した書類からその名を知ることができましたが、我らが調査した時にはすでに彼の名は在籍名簿から抹消されていました」

「抹消」

「いえ、正確には、そもそも在籍していた記録自体がありませんでした」

驚いた顔をする壬生を、光は心配げに見つめている。

「在籍の記録が無い?そんなバカな」

「ええ、馬鹿げていますわ」

「それは何故ですか?」

「影生依人の天龍院学園に於ける在籍記録は無い、ですが、今現在在学中の何人かの生徒は、彼が確かに天龍館の生徒であったと証言しているのです」

「っつ―――それは、一体」

「何者かが、意図的に影生依人という人間の存在を消し去ったということですわ」

朋恵は忌々しげに顔をしかめた。

「この調子では、戸籍の類もいじられているかもしれませんわね、書類上の影生依人という人間は、もはやこの世に存在しないかもしれません」

「そ、んな」

壬生は半ば呆然として、それきり黙りこんでしまった。

光はしばらくその姿を見つめていたけれど、何も言わずに正面に向き直った。

今の彼に、かけられる言葉が何一つ見つからない。

(紅葉)

心中を察して、更に俯いてしまった兄の姿に、朋恵は少しだけ表情を曇らせてため息を漏らすと、彼女も再び前を向いた。

「誰が、何のためにそのようなことをしたのか―――おそらくは柳生、あの男の仕組んだことでしょうが、その意図は此度のことを踏まえての行為」

「そう、それが、我らの導き出した答えだ」

朋恵と弓月を交互に見て、光は困惑気に表情をしかめた。

「―――それは?」

「影生依人を、陰の黄龍の器として、最終段階まで昇華させるつもりなのでしょう」

壬生が膝の上で手のひらを強く握るのと同じように、光もまた奥歯をかみ締めていた。

「影生を、陰の器として、昇華?」

「そうです」

「どうしてそのために、彼の存在を消す必要があるんだ?」

兄の眼から視線を背けるようにして、朋恵は初めて僅かに言葉を詰まらせた。

「―――人としての影生依人は、すでに必要がなくなったのでしょう」

「どういう事だ」

「戸籍を消され、存在を抹消されて、影生依人は、柳生にとって都合のいいモノとなった」

光はびくりと肩を震わせて、再びまじまじと彼女を見つめる。

背後の気配がいたたまれなかったが、それ以上にあまりに残酷な現実を突きつけられて、一瞬心臓を鷲掴みにされたような衝撃が胸中を走り抜けていった。

(柳生に都合にいい、モノ?)

影生依人は、あの男は、今まさにそのようなただの『道具』へと造り変えられてしまっているのか。

朋恵はまだこちらを見ない。

横顔から痛いほど張り詰めた様子が伝わってきて、振り返れば千影も同じような表情でこちらをじっと見詰めていた。

弓月は一瞬だけ瞳の奥に悲壮感を漂わせていたが、直後には再び表情を消し、ただ静かに座している。

今、改めて―――光は自身の宿命を思い知らされたような気がしていた。

万人に望まれて、この世に振り下ろされたる一振りの剣。龍の御剣。

(其は、人にして)

―――人に非ず。

「光」

見かねた弓月が声をかけた。

「―――はい」

「お前は確かに、人の身には重過ぎる宿星を背負って生まれてきた、だが、お前は今、お前自身の望むように生きている」

光はまっすぐ弓月を見上げた。

朋恵もまた、兄を見て、弓月を見詰める。千影も、壬生も同じようにしている。

「これまでも、そして、これからも、お前はお前の望んだ道を生き、そして生きていく、そうだな?」

「はい」

「人とモノの違いは何であるか、お前にはわかるか、光」

無言の息子を一瞥して、弓月は続けた。

「自由、だ」

「自由」

「そう、それこそが人とモノとの最大の違い、モノはただ使われるのを待ち、そしてそれのみに生きる存在、だが、人は違う、自ら考え、選び、歩むことができる」

銀鼠の瞳が輝いた。

「剣は、人にして人に非ず」

光が唇を咬む。

「だが、その本性は、人だ」

その場の誰もがハッとする中、弓月は光に静かな眼差しを向け続ける。

「龍の御剣がなぜ人として生まれるのか、剣の名を冠するのであれば『モノ』であっても構わぬはずであるのに、何故人の姿を持ち、心を持って生まれてくるのか」

背後の壬生の存在を強く感じる。

光は、大きく息を吸い込んで、目を閉じた。

「万物の理である龍が、人に与えしひと振りの剣―――その答えは、お前にしかわからぬ」

「父さん」

「我が身はすでに剣の宿星から外れている、私に知ることはできない」

すっと開かれた双眸が、金に煌いていた。

見事な輝きに朋恵と千影が目を細くする。

「彼の『モノ』を止めよ、光、それは御剣たるお前にしかできぬこと」

「はい」

「次に影生と向き合いしとき、我が言葉をもう一度思い出せ、そしてよく考えるのだ、それこそがお前にとっての希望となり、力となり得るものなのだから」

「―――はい」

光は、そのまま深々と、目の前の座卓に額づくようにして礼をした。

後ろで壬生も同じように頭を垂れる。

「私の話は以上で終わりだ」

「私も、語るべき全てを語りつくしました」

顔を上げた光は、そのまま席を立つ。

「では、私と壬生は、失礼いたします」

「ああ」

「私も失礼いたします」

「朋恵」

同じように立ち上がりかけた朋恵を、弓月が呼び止めた。

「はい」

「お前に、今更言うことでもないと思うが―――兄をよく助けるように、いいね?」

「無論、心得ております」

深々と一礼をして、先に立ち上がって襖の所で待っていた光と壬生の元へと歩いていく。

娘と、息子と、その守人の姿を、彼らの両親は感慨深い表情でただじっと見詰めていた。

出て行く間際にもう一度礼をして、閉じられた襖と遠ざかっていく足音を聞きながら、弓月のため息が深々と和室に広がっていく。

「あの子は、光は本当に、弦麻に生き写しだな、千影」

卓の向こうで妻は優しい笑みを浮かべて夫を見詰めている。

「ええ、先ほどのお姿、一瞬見違えましたわ」

「私もそうだ、心に雑念が無くなり、あの子本来の輝きを取り戻したからなのだろうな」

「はい」

「―――弦麻も、かつて柳生との戦いに赴く前に、あのような目をしていた、決意に満ちた美しい目を」

千影がふいに悲しげな顔をするので、弓月は慰めるように微笑みかけた。

「案ずるな、千影、確かにあの時弦麻は死をも覚悟の内にここを発ったのだろう、だが、光は違う」

「ですが」

「あの子は、弦麻と迦代さん、そして私とお前が、産み、育んだ子なのだぞ、あの子は違う、あの子は御剣の定めなどに縛られはしない」

「弓月様」

「龍や、星が、何だというのだ、人はその生き方を自ら決める、だから人なのだ、剣は、そのために人として生まれるのだと、私は信じている」

そうして明日を祈る旅人のように、ひたむきな姿で弓月は双眸を閉じる。

「未来は、誰にもわからない」

再び見開かれれば、銀の輝きをますます明らかにして、瞳はしっかりと千影を見据えて言った。

「だからこそ信じなければ、私や、お前が、我が子を信じてやらなければ、それこそが親の務めであろう?」

「はい」

頷き返した妻は、すでに迷いをなくしたようだった。

弓月は再び微笑を浮かべる。

「あの子は我が一族から生まれ出、初めての希望の輝きとなるだろう」

「はい」

襖の外は、恐らく夜の闇が広がっているのだろう。

だが、それすら明日の光に繋がっているのだと、二人は確信にも似た思いで、今ここにいない姿を胸の中に描いていた。

 

(続きへ)