庭に面した通路に出ると、空はすっかり漆黒と星明りに彩られ、冬枯れした風景に寒風がさやさやと吹いていた。
光はふと立ち止まって、遠い輝きを見上げる。
「光?」
後から付いていた壬生も立ち止まって、こちらを伺っているようだった。
朋恵は、奥の間の前で別れて、今はいない。
静かな夜。
(もうすぐ―――もうすぐ刻が満ちるなんて、嘘みたいだ)
4月からこちら、ずっと戦いと苦難の連続だった。
そのほとんどが自身の心の脆さから来るものだと、知っていて弓月はあんな話をしたのだろうかと考えていた。
剣は人に非ず、だが、その本性は人也。
(でも、俺は剣だ)
この身の内で咆哮を上げ続ける、金色の龍の気配がそのことを何より強く実感させる。
呼び声は、俺を求めて、何度も連れ去ろうとする。
まだ刻は満ちていないのだと目を背け続けた―――だが、いずれそれすら叶わなくなるのだろうか。
そっと自分の体を包むように抱くと、背後から伸びてきた両腕が更に光を抱き寄せていた。
「大丈夫かい?」
「うん、平気」
微かに呟いて、寄り添うと、ほんの少しだけ気が安らいだ。
自分にとって、壬生の存在は偉大だ。
以前刃を向けられていたときもそうだったけれど、今は更に、幼かった頃よりもずっと、彼が愛しくて堪らない。
肌が触れ合うだけで、その存在を思うだけで、何度でも立ち上がれるし、何でもできそうな気がしてくる。
髪を撫でて、暫くそうして、腕が離れると壬生は光の顔を覗き込んできた。
「ここは寒い、部屋に戻ろう」
頷くと、そっと手をとり歩き出した。
そういえば彼は自分の部屋を知っていたかなと思う。
「紅葉、俺の部屋がどこか知ってるの?」
不意に歩みを止める彼を、見上げて光はクスッと笑った。
「俺が先に行くよ、紅葉、一緒に行こう」
「あ、ああ、すまない」
そういえばこういう人だったなと昔を思い返していた。
いつでも自分の手を引いて、あちこちに連れて行ってくれた。壬生は、今もとても優しい。
「―――光」
「何?」
僅かに間をおいて、控えめな声がぽつぽつと聞こえてくる。
「後で、僕の話を少し聞いてはもらえないだろうか」
光は歩きながら振り返った。
「先ほど、弓月様からお話を伺って、君に語るべきことができた、だから、聞いて欲しい」
「わかった」
「ありがとう」
少しだけ笑う壬生に、光も微笑み返して、再び前を向いて歩き出した。
いくつかの通路を抜けた奥詰まった部屋の襖を開けて、中に入るとひんやりした空気が肌に触れる。
「ここか?」
「そう」
千葉へ発つ前の、龍の巣籠。
見渡しながら壬生が感心した声を漏らす。
「凄い―――結界だな、数え切れないほどの呪法と方陣の数だ、それに、ここは、屋敷内で一番侵入し難い箇所だね、通路も注意してみなければほとんど見逃すようなものだった」
「だから、小さい頃はよく自分の部屋に帰れなくなって、母さんやトキさんに部屋まで連れて行ってもらったんだ」
笑う光を振り返って、壬生も笑っていた。
「なるほど」
「俺はこの屋敷の奥から出ることは禁じられていたから」
不意に声が沈む。
壬生は、笑うのをやめた。
「ここも、千葉の屋敷も、剣のために作られた結界なんだ、そこから出られないし、入ってこれない、俺は更にその一番奥で、息を潜めて、ここだけが世界の全てのようにして育った」
「光」
「守ってくれているんだって、わかっているんだけどね」
そして困り顔でまた微笑むので、壬生は何も言わずに光を強く抱きしめた。
背中に腕が回されて、ぎゅっとしがみついてくるので、そっと髪に頬を摺り寄せる。
「ありがとう」
どちらともなく離れた後で、顔をあげた光は壬生の胸を押す。
「ごめん、紅葉の話を聞くんだったね」
「いや」
「ううん、いいんだ、聞かせて欲しい」
そして、部屋の隅にあった座布団を引き寄せると、室内に壬生のものと合わせて二つ、用意した。
片方に光が座り、もう片方に壬生が座る。
向かい合うようにして正座して、なんだかかしこまった雰囲気にお互い少しだけ背筋を正した。
「―――こうして君と向かい合うと、何から話したものか、正直少し戸惑うな」
「全部、聞かせて欲しい、話し方なんてどうだっていいから、紅葉のことが知りたい、俺の知らなかった頃の事も」
「ああ、そうだね」
壬生は僅かに表情を綻ばせると、とつとつと話し始めた。
「影生のことは、前に少しだけ話したね」
「うん」
「―――彼と僕は、去年の秋に出会って、友人になった」
最後の部分で遠い目をする壬生を、光は気遣うように見詰める。
「影生、いや、依人はね、ごく普通の男だったんだ、多少控えめで、はにかみ屋で、けれど、一途で一生懸命な、多少のユーモアも持ち合わせている好人物だった」
「紅葉は、影生が好きだったの?」
「友人としてね、それは、今も変わらない」
君には悪いけど、と、瞳が語っていて、そっと首を振って返した。
壬生は優しい顔をしている。
「僕らはすぐに意気投合して、それなりの付き合いが始まった、依人と僕はよく二人で本を読んだよ、彼は君みたいに冒険小説が好きだった」
「俺、みたいに」
「そう、だから尚更、僕は彼に親近感を持ったのかもしれない、実際―――君と依人は、雰囲気が少し似ているよ」
「雰囲気?」
「そう」
伸びてきた手がするりと頬を撫でて、口元に寂しい笑みが滲む。
「君も、依人も、時々酷く思いつめた顔をする、僕なんかが立ち入ることのできない、そんな顔を」
光は少しだけ俯いた。
静かな声が、続きを話し始めた。
「―――一体いつ頃からだったんだろうな、僕はもうすでに少しおかしかったから、彼の変調に気付けなかったんだ」
「紅葉」
「すまない、光、そんな顔をしないでくれ、でも僕は、どうしても君を忘れることができなかったんだよ」
そうして再び手が、今度は膝においてあった光の手に重なるので、その手を掴んでしっかり握り返した。
「今は、ここにいるよ」
「そうだね」
壬生は幸せそうに笑う。
「君はここにいる、僕にとっては一番大事で、一番重要なことだ」
「俺にとっても、だよ」
「うん、ありがとう」
微笑み返す光の手を握ったまま、壬生は再び話を続けた。
「彼は、元からああいう人間だったわけじゃない」
漆黒の奥に宿る真摯な輝きに、金茶の瞳はまっすぐ視線を返す。
「依人は、いや、依人こそが柳生の被害者なんだ、彼は、多分きっと、望んで器になったわけでもないと思う」
「うん」
「君にした事だって、恐らくあの男の差し金だろう、だから、君が見てきた依人が、彼の全てじゃない」
「うん」
「その事を―――君だけには知っておいて欲しかったんだ」
そしてするりと手を離すと、姿勢を正した壬生が僅かに下を向く。
「身勝手なことは承知している、君に、散々害をなしておいて、今更かつての身内を庇うような事を言って、僕は卑怯者だな」
「そんなこと」
「けど、もし君が僕を憎んだとしても、それでも僕は、かつての友をただ見殺しにはできないんだ」
「紅葉」
膝の上の拳がぎゅうと握られていた。
思いつめた表情に、光は瞳を細くする。
「たとえ、もうどうにもならないのだとしても」
双肩が震えている。
「―――僕は、依人を助けたい」
「紅葉」
立ち上がった光は、そのまま壬生の正面まで歩み寄ると、座りながら彼の体を抱きしめた。
肩口に額をこすりつけるようにして何度も首を振り、いいんだ、いいんだよと繰り返す。
「紅葉、別に俺は憎んだりなんてしない、怒ったりもしない、俺が紅葉の立場なら、きっと同じようにした」
「光」
「紅葉の友達なら、俺にとっても大切な人だ」
そっと体を離して、顔を覗き込む。
「俺も、助けたい」
驚いた顔をする壬生に、もう一度繰り返した。
「一緒に助けよう?紅葉、紅葉の望みなら、俺の望みだ、だから、一緒に頑張ってみよう?」
「光、君」
それ以上言葉が続かなくて、澄んだ瞳に移る自分の姿をかみ締めるように、壬生は光を抱きしめていた。
―――こんなにも暖かい。
優しい、慈しみの心にあふれる彼が愛しい。
「ありがとう」
鼻の奥がつんとして、こらえきれずに涙が一筋、頬を伝っていた。
「ありがとう、ありがとう、光」
これは、影生を受け入れてくれたからだけじゃない。
(僕は光が好きだ、光を愛してる)
改めて湧き上がる想いを、伝えたくて腕に力を込めると、光はそっと抱き返しながら背中をトントンと叩いてくれた。
「紅葉」
「光」
「嬉しいけど、ちょっと、苦しいよ」
す、すまないと言いながら慌てて離れた姿を見上げて、光はまた微笑んでいた。
壬生は赤くなった目元を申し訳なさそうにぬぐいながら、困り顔で、それでもやはり微笑を返す。
すっきりしたいい表情になった。
彼が、内面の葛藤を吐き出してくれたことが、ただ素直に嬉しかった。
―――ちりん
和やかな空気を割るようにして響いた、不気味な鈴の音に二人は同時に振り返る。
―――ちりん、りん、りん
「この、気配は」
顔を見合わせて、先に光が立ち上がる。
壬生もすぐ後に続いた。
襖を開くと、通路の先にすでに朋恵が立っていて、やはり厳しい顔をしてこちらを見ていた。
「お兄様」
光は無言で頷くと、先頭に立って駆け出していた。
深夜に不似合いな物音と共に廊下を駆け抜けて、壬生と朋恵を従えて表玄関を開く。
そこから正面玄関に続く通路を走り、大きな正門を押し開くと、世界は漆黒に塗りつぶされていた。
ちりん。
鈴の音が響く。
まっすぐ見詰めた、その先に―――
「依人」
壬生の声が小さく聞こえた。
暗黒の世界の中、影生依人を従えた、柳生宗崇の姿がそこにあった。