年の瀬は静かな始まりだった。
柳生の襲来を受けた翌日、光は壬生と共に電車で東京まで戻っていた。
新幹線の中から富士山を見て、今この辺りはどういった土地で、と色々な話をしたけれど、あまり記憶に残っていない。
それは、恐らく壬生も同じだろう。
その日も、その翌日、翌々日も、時は静かに過ぎ去り、嵐の前の静けさが、不安と決意を同時に育んでいった。
12月30日の晩、壬生に求められて、光は寝床を共にした。
触れてくる感触や、熱い息遣いに、いつに無く激しく縋り付いて痴態を露にした姿を、彼はいぶかしんだかもしれない。
実際普段の自分らしくないほど、貪欲に、繰り返し、壬生を求めた。
彼は応えてくれたけれど、実際どのように感じていたのだろうか?
愛しい温もりに身を任せ、全てを焼き付けるように、肢体を絡ませあいながら、二人は夜が明けるまで抱き合って過ごした。
「おはよう」
目覚めたのは昼過ぎで、光は目をこすりながら、フラフラと今のソファに腰を下ろす。
「おはよう」
「お腹すいているかい?」
「ん」
壬生はすでにちゃんと着替えを済ませていて、微笑みながらキッチンへ歩いていった。
ソファにぼすんと横になって、唸り声を上げる光に、着替えてきなさいと優しい声が呼びかける。
「ふァい」
あくび交じりに浴室へ行き、軽くシャワーを浴びる。
上がるとちゃんと着替えが用意してあって、着替えてからタオルを頭に乗せて、水気を滴らせたまま再び居間へと戻ってきた。
「光、ちゃんと乾かさないと、ダメだろう」
「ん」
伸びてきた両手がタオルごとガシッと捕まえて、ごしごしこすられるままになりながら、光は微かに笑い声を漏らす。
タオルを取ってどうしたのと顔を覗き込んでくる壬生に、犬じゃないんだからと反論した。
「そんな事は僕も思っていない、ただ、濡れたままだと身体によくないから」
光は微笑んでいた。
この身は剣だ。
人と同じように、病にかかることなどない。
陰陽のバランスが崩れるときには風邪のような症状を起したりもするけれど、自己治癒は可能だし、怪我をして、それがどれほどの大怪我であっても、常人の倍以上の速度で治る。
壬生はそのことを知っているはずなのに、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
テーブルについて、食事を摂りなさいと、促す彼の腕を光は捕まえた。
「光?」
掌をそっと、頬にあてる。
―――この人を、好きになってよかった。
瞳を閉じてじっとしている光を、壬生は黙って見詰めている。
―――好きになってよかった、壬生紅葉と、出会えてよかった。
辛く、苦しいときもあったけれど、彼を愛しいと思う心だけは変わる事が無かった。
それだけが真実で、後は何もいらないような気がする。
壬生が、自分の全てだ。
彼がいてくれるなら、どんな運命も受け入れる事ができる。
剣であるこの身が、人並みの未来を願うだなんて、おこがましいと知っていても。
「紅葉」
名前を呼ぶ。
「―――なんだい、光」
優しい響きが返ってくる。
それだけで、泣きたくなるほどに、嬉しい。
瞳を開くと金色で、壬生は少し驚いた顔をしてから、そっと唇を寄せてきた。
口付けを交わして、手を離した光に、もう一度食事を摂りなさいと勧める。
「うん」
腰掛けて、箸を持つ姿を、壬生は無言で見詰めていた。
年末の参拝客でにぎわう靖国神社に、賊が乱入、数名を殺傷したというニュースが流れたのは、夕方近い頃だった。
ソファに腰掛けて、TV画面の速報を食い入るように眺めていた壬生は、直後に携帯電話の連絡を受けて、現状で知りうる情報の全てを受けてから、隣室に視線を向ける。
光は、少し前から眠いと言って床に入っている。
先ほど覗いてみたら、全身が淡い金の光を発していた。
(刻が、近いのか)
人に請われてその身を現す、混沌より生まれし、混沌を断つ剣。
守人として教育を受けていたとき、彼に関して、知りえた情報は、実はあまりに少ないのだということを、最近になって痛感している。
光と対峙していた頃は、考えもしていなかった。
彼の背負ったものがどれほど重く、大きいものなのか―――ただ欲しいと手を伸ばすのに必死で、大局などまるで見えていなかった。
「光」
靖国神社に乱入した賊は、奉納されていた神具の一つを奪っていったらしい。
報告ではそれは「鍵」だと聞いた。
対の大樹を起動させる、ひと揃えの鍵だと。
もう片割れが奉納された織部神社に、すぐさま御剣の護衛を向かわせたそうだが、間に合うかどうか。
それ以前の問題として、彼らが柳生に対抗する手段があるのか。
壬生は首を振って、立ち上がった。
支度をしておかなければならない。
犯してしまった過ちへの、贖罪として、この戦いだけは決して負けるわけにはいかない。
(光と、依人のために)
今更、などと、甘えた事を言っている暇は無い。
とりあえず何箇所かに連絡をつけて、自身の準備の整っている事を確認して、それからふと、思い立って夜食を作り始めた。
簡単に片手まで食べられるものがいいだろうと、握り飯をむすぶ。
そうしている間に時間は流れて、気づけばそろそろ午後10時を回っていた。
隣室の戸が開いて、ふらりと光が姿を現す。
気配に、声をかけようとしてその姿を見た壬生は、一瞬絶句した。
「紅葉」
―――その瞳は、紛れもない龍金。
いや、瞳だけでなく、今や全身が強い金色の輝きをまとっていた。
光は暫くその場に立ち尽くして、深呼吸を繰り返しながら、身体の中の何かをなだめているようだった。
肩が上下するのにあわせて、光が徐々に消えていく。
やがて、普段どおりの姿に戻った彼は、困り顔で微笑みながら壬生の側までやってきた。
「どうにも、龍脈が活性化しすぎてるみたいだ、気を抜くと溢れ出しそうになる」
「光」
「おにぎり」
え、と呟いて、目を丸くした壬生の傍らにひょいと手を伸ばして、皿の上の握り飯を一つ掴む。
「中身、何?」
「あ、さ、鮭だよ」
「タラコは?」
「こっちだ」
手渡されて、二つのおにぎりをもったまま、ソファまで歩いていく。
すとんと腰を下ろして、外を見ながら食べ始めた姿を目で追って、壬生はようやくため息を漏らしていた。
光は、光だ。
何も変わらない。
これから始まる大きな運命のうねりは、彼を中心に巻き起こるものかもしれないけれど、光が彼以外のモノになってしまうことなんて、無い。
どんな時も、それだけは変わらなかった。
(それなのに、何故―――)
俄かに背筋を駆ける、嫌な予感。
首を振って、光の隣まで、握り飯の載った皿を持って歩いた。
腰掛けて、テーブルに皿を置く。
「お腹が空いていたのかい?」
「昼に食べて、さっきまで寝ていたのに、食べすぎかな?」
「いいや」
恐らくそうだろうと思って作っておいたんだよと答えた壬生に、光はニコリと笑う。
「紅葉は、俺のことがよくわかるんだね」
それが、どれほどの意味をはらむ言葉なのか。
すぐに察して、壬生は、光の肩をそっと抱き寄せた。
今更、謝罪や後悔の意を示せば、きっと彼を傷付けるだろう。
そしてそんなものは全て、自己満足でしかない。
ただ一言、有難うと囁いた意図を、光は理解してくれたようだった。
「紅葉」
「うん?」
「お茶が欲しい」
壬生は腕を解いて、ソファから立ち上がりながら、微笑み混じりに待っていてくれとキッチンに向かう。
淹れたお茶を盆に乗せて彼の元へ運び、隣に座って自分も二個、三個、握り飯を食べた。
部屋の中は音も無く、ただ深々とした窓の外の暗闇に、仄かにちらつく白いものが見える。
光がほとんど言葉もなく、食べる事に専念しているので、壬生も自然と無口になった。
年明けまで、残り僅か三時間程度。
たったそれほどの後に、天地を揺るがすような大事件が起こるなど予想もできないくらい、今は穏やかだ。
食事を終えた光が、皿に手を伸ばそうとするので、それを断って、着替えてくるように彼に言った。
壬生は、汚れ物をキッチンに運び、片づけをはじめる。
光は一人で何でもできてしまう人だけれど、だからこそ、世話を焼きたくなるのかもしれないと、他愛も無い考えが脳裏を過ぎる。
「紅葉」
両手の水気を切って、振り返ると、再び姿を現した光は、真神学園の制服を着ていた。
「―――やっぱりこの姿が、今の俺には一番合うと思って」
登校するわけでもないのに、おかしいかなと呟く声に、壬生はゆっくり首を振る。
「けど」
「けど?」
「それだけで君を外に出すわけには行かない、防寒具も、ちゃんと着るんだ」
光は僅かにきょとんとして、それから、はい、と笑顔で答えた。
僕も着替えてくるからと、壬生もキッチンを後にする。
背中を見送って、光はベランダのサッシ越しの外を眺めに近づいた。
冷たいガラスに触れて、見上げた空からはまだ雪が降り続いている。
「―――待たせたね」
戻ってきた壬生も、拳武館の制服を着ていた。
持っていたコートを光に差し出してくる。
それを着ている間に、自分もコートを着て、光の首にマフラーを巻いてくれた。
手袋を渡されて、それは嵌めたけれど、帽子は苦笑いで辞退させてもらった。
「大丈夫だよ」
マフラーも手袋も、帽子も、壬生の手編みだ。
天辺に大きな梵天のついたかわいらしい帽子を、壬生は多少残念そうにソファの上に置く。
彼自身は、コートの上から薄手のマフラーと手袋だけの姿だ。
「じゃあ、行こうか」
光は静かに頷き返して、共に玄関へ向かう。
靴を履き、ドアを開けて、外に出ると、冷気が頬を撫でた。
「光」
鍵をかけた壬生が、振り返って真っ直ぐ、瞳の奥を見詰めてくる。
黒髪が風に逆さに撫でられて、視界にかかるそれを指先で煩わしく払う。
「必ず、戻ろう」
強く、悲壮なほどの決意を感じさせる声―――
けれど、光は不意に、ふわりと微笑を浮かべていた。
「もちろん、当たり前、だよ」
壬生の肩に触れて、ポンポンと数回叩く。
そこで何かがほぐれて、壬生はようやく自身が気負っていた事に気がついた。
何もかも見透かすような、清んだ綺麗な瞳が、同じようにこちらをじっと見詰めている。
「紅葉」
光の声は静かだ。
そしてとても、暖かい。
「初日の出が上がるまでには、帰ってこよう」
「光」
「なあ、紅葉」
年越し蕎麦には油揚げを入れて欲しいんだけど。
壬生は僅かに間を置いて、苦笑いで乱れた光の髪を撫でる。
「それじゃ、ただの狐蕎麦だよ」
「蕎麦ならなんだって構わないんじゃないのか?」
「まあ、そうだけどね」
くすっと笑い合って、短く唇を交わした。
さあ行こうと踵を返す壬生の後から、光が続く。
だから―――
直後に金の瞳の奥を過ぎった影に、壬生は気付く事ができなかった。