かつて、光と共に辿った道程を、今、蓬莱寺は壬生、如月、村雨と共に辿っていた。
「千葉の邸宅を訪れるのは、これで二度目だな」
呟いた壬生の言葉に蓬莱寺だけが気付いて、苦い思い出に僅かに口を閉ざす。
電車を数本乗り継いで、ようやく無人の駅にたどり着いた。
その頃にはすでに降り出していた雪も、あちこちに数センチほど積もっていた。
「タクシーの影すら見当たらない」
呆然と呟いて周囲を見渡すと、しんと静まり返った夜の闇と降る雪意外何も見えない景色の奥から、ヘッドライトが瞬いて、車のようなものがすーっと近づいてくる。
「あれ?」
距離が縮まるにしたがって、それはタクシーだとはっきり判別できた。
単純に喜ぶ蓬莱寺の脇で、如月と壬生は怪訝に首をかしげる。
「こんな場所に、タクシー?」
「一体どういうことでしょう、それに、あれは」
「何だっていいじゃねえか」
タクシーは一同の前で停車すると、扉を開いて「乗りますか?」と訊いてきた。
「おう、よろしく頼む」
警戒した如月が声をかける前に、蓬莱寺と村雨はするりと車内に乗り込んでしまう。
「お前等も早くしろよ!」
惑っていると、壬生が助手席のドアを開けた。
「壬生」
「行きましょう、如月さん、僕等には時間が無い、たとえこれが何であれ、縋るものがあるのなら掴まなければ」
そのまま助手席に乗り込み、ドアは閉まった。
「如月!」
村雨が顔を覗かせる。
「早くしろ、マジで時間が足りねえみたいだ、あいつがこんなもんまで寄越してくるくらいだからな」
「あいつ?」
「根性の悪い陰陽師だよ、どうやら全部ひっくるめて俺は利用されちまったらしい、まったく、格好つかないったら無いぜ」
「―――そういうことか」
如月はすぐ車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、発進したタクシーは雪道だというのに驚くほどのスピードで駆けていく。
見覚えのある白塗りの壁を通り過ぎて、門の前に到着すると、駅を立ってまだ5分程度しか過ぎていなかった。
「えッ」
車を降りて、時刻を確認して驚く蓬莱寺に、村雨は苦笑する。
続いて下りようとして、不意に運転手からお待ちくださいと止められた。
「あ?」
「一言申し上げておきます、御館様は悪性ではございません」
「―――あのな、俺を利用した地点で、十分根性が悪いんだよ」
「左様でございますか、ならば、そうお伝えしておきましょう」
「やめてくれ、あとでイチャモン付けられんのは御免だ、それと、お前等が勝手にやったことだからな、俺は借りとは思ってねえぞ」
「どうぞ、ご自由に」
壬生はすでに車を降りていた。
如月も降りて、結局村雨が最後になった。
タクシーが発進してから、蓬莱寺があとで払うなと村雨に声をかける。
「ああ、いらねえよ、俺も払ってねえ」
「は?」
「いいんだ、ありゃチャーター便だ、そんな事より―――」
門を見上げる。
「正面から行くのか」
如月の言葉に、他三人は無言で頷いていた。
「まったく、ここには御剣の守姫様が施された、強固な結界が貼ってあるんだぞ、それに、扉を壊せば器物損壊、無断で入れば住居不法侵入罪だ」
「そんなつまんねえ事言ってる場合かよッ」
やれやれと嘆息して、如月は懐から札を数枚取り出す。
「それは?」
「僕のご先祖様が、懇意にしていた当代の剣より頂いた、彼方の力の込められたお札だよ、蔵の奥で見つけておいた」
「おいおい、渋ってた割には随分準備がいいじゃねえか」
「まあね」
印を切って、投げつけた札は、重厚な門扉にピタッと張り付く。
「守姫の力を破る事が出来るのは剣だけだ、これを媒介に、玄武の気を送り込めば、陰陽のバランスが崩れて一時的に結界が解ける」
オン、と呟いた瞬間、扉から何かがパシンと弾けて、振り返った如月が壬生に呼びかけた。
「今だ」
壬生はためらうことなく門扉を蹴破る。
軋んで左右に僅かに開いた、分厚い板を蓬莱寺と村雨がそれぞれ押して、人が通れる程度の隙間を作ると、彼等は一気に御剣邸の中へ乗り込んでいく。
「うひゃー、凄いな」
村雨の一言は、何も整えられた広大な邸宅内部の様相だけに向けられたものでなかった。
「やっぱ、姫様奪還には障害がつきものか」
門から玄関に向かうまでを埋め尽くす、異形の姿。
「こりゃ、式鬼だな」
「これだけの数を一時に使役できるのか、さすが守姫殿、計り知れない」
「感心してる場合か、こいつら何とかしないと、奥に進めないぜ」
向こうから襲ってくる気配はない。
どうやら本当に、防衛のためだけに用意されたらしい、数十体に及ぶ獣の軍団を見渡して、壬生、と村雨が振り返った。
「こいつらは、俺が何とかする、だから、お前は先に行け」
「村雨さん」
「先生、いや、光をこっち側に繋いでおけんのは、壬生、お前さんしかいないだろうからな」
どくん。
蓬莱寺の胸が鳴った。
僅かな痛みをかみ殺して、壬生を振り返る。
「壬生」
如月も同様に壬生を見ていた。
「僕もそう思う、光があれだけ望み、欲し続けていた君だ、君なら、きっと光の楔になれる」
「行け、壬生、迷ってる暇はねえ」
「壬生」
ポンと、蓬莱寺が壬生の背中を叩く。
「オイ」
「蓬莱寺君」
「てめえの命に代えても、姫を守るって、約束だろう?」
その眼に映る気配を察知して、壬生は僅かに閉口した。
同情なんかするなと、直後に無言で睨みつけてくる蓬莱寺に、壬生は頭を下げる。
「有難う」
「おら、行けッ」
村雨が懐から取り出した札を式鬼に向かって投げつけた。
攻撃を受けた式鬼たちは、途端雄叫びを上げて踊りかかってくる。
「急げ、壬生、蓬莱寺、時間が無いぜ!」
「僕も加勢しよう、村雨ッ」
「ヘッ、そりゃ助かるぜ」
如月が暗器を投げ、小太刀を振るい、忍法を駆使する。
村雨が札を投げ、足りない分は拳で殴りつけながら、二人が切り開いてくれた道を壬生と蓬莱寺は一気に駆け抜けた。
玄関を開いて、土足のまま上がり込み、奥へ向かって廊下を走る。
何故か屋敷内部に人の気配はなく、灯りもついていない薄闇の中を彼等は闇雲に走った。
突き当たった襖の一つをスパンと開く。
そして、そこで―――足を止めたのだった。
「守人が揃って主に楯突くとは、正気の沙汰とは思えませんわね」
白装束に身を包み、髪を高い位置でひと括りに縛って、片手に薙刀を備える。
凛とした眼差しは金色に輝き、まるで月の光をそのまま人型にしたような少女―――御剣朋恵は、百畳に及ぶ大広間の中央にすっくと立っていた。
「あなた方をこの先へ通すわけにはまいりません」
「朋恵ちゃん!」
薙刀を構えて、油断無くこちらを窺う姿に、蓬莱寺が困惑と焦燥を滲ませた眼を向ける。
「何やってんだ、姫が、朋恵ちゃんの兄貴がヤバいんだろうが!」
「やはり、聞き及ばれていましたのね」
「朋恵ちゃんッ」
「だとしても、私は守姫、御役目を全うされる御剣をお守りする務めがございます」
朋恵の双眸には揺るがない決意が見て取れた。
「兄は、剣です、人ではございません」
「何言ってんだ!」
「―――いずれ太極に還られる日が来る事など、御方も私も、生じたときより解しております」
途端、壬生がハッと息を呑んだ。
「そうなのか?」
しんと深い静けさの中、その声は衝撃を伴って、冷たい大気を割って響く。
「光は、自分がいずれ消滅する運命だと、生まれた時から知っていたというのか?」
「ええ」
拳が、強く握り締められていた。
自身に対する怒りと嫌悪で、壬生は叫んでしまいそうだった。
ならば、五年前のあの頃には、光はすでに何もかも知っていたというのか。
その上で、僕を愛してくれたのか。
月の夜、乱暴に求めた手を振り解かず受け入れてくれた、何度も愛していると言ってくれた、戦うばかりだった僕の心に生きる意義を見出してくれた、君の存在を、再会してからは独善的に求め、暴力で奪おうとして、何度も傷付けた、それでも光は変わらぬ愛を捧げてくれた。
(その君が、いずれ自分が消えてしまうと、知っていたのか?)
いや、それ以上に―――
「御剣の剣は、人に非ず」
朋恵の声が静かに響く。
「剣は、人として生きることなど叶いません、それは身の程を過ぎた願い、人でないものが、人の世に在り続ける事などできない」
「けど、光は人間じゃねえか!」
「いいえ、御方様は剣です、あなた方とは違う、定めに呼ばれ、定めに従い、そして、定めのままに滅する御身、何者であろうと、彼方の宿星を変えることなどできません」
「朋恵ちゃんッ」
薙刀を構える朋恵と、睨み合う蓬莱寺。
傍らで壬生は瞳を閉じていた。
瞼の裏に光の姿を思い描きながら、深く呼吸を繰り返す。
(光)
初めての対面では、とても綺麗な人だと思った。
容姿だけではない、その眼に映る輝きや、彼の発する気配、眼差し、そして、声、紡ぐ言葉の一つ一つが煌いているかのようだった。
この人を守ることが、身寄りのない自分が唯一手にした生きる為の術なのだと、知って心底嬉しかった。
この手を汚すことに戸惑いと不安を覚えていた心が、一瞬で晴れ渡ったのを覚えている。
光のためなら、どれほどの事も、厭わない。
(光―――)
その名の通り、光は壬生にとっての『光』だった。
孤独と混沌の最中にいた身に、生きる意義と戦う意味を一時に与えてくれた。
それらを強制的に奪われて、世界を恨んで破滅を望んだ、この手を掴んで、傷だらけになりながら、それでも必死に救い上げてくれた。
そして、以前と変わらない愛情で、再び包み込んでくれた。
(光だけが、僕の全てだ)
もう迷わない。
二度と心を卑下したり、偽ったりなどしない。
(僕自身が何より強く願う)
光と共にあることを。
光のためだけでなく、壬生自身のために、願う。
(君が消える事を、僕は許さない)
運命が立ちはだかるというなら、それすら砕いて見せよう。
この世界にある唯一つきりの真実。
それは、光を愛している、この想いそのもの。
「―――朋恵さん」
壬生は瞳を開いた。
真っ直ぐ、朋恵を見据える。
「光は人だ、剣じゃない」
「壬生」
「僕は、人として彼と生きる、人として、光が何者であっても、僕は愛する」
「お前」
蓬莱寺がこちらを見ていた。
壬生は、もう一度、噛み締めるように繰り返した。
「光は、僕の愛している『人』です」
無言で薙刀の切っ先を定めながら、けれど朋恵の瞳の奥は何故か揺れているようだった。
隣で微かな笑い声がして、紫布がはらりと畳の上に落ちる。
「おい、壬生」
振り返ると、蓬莱寺が木刀を構えていた。
「よく言った、お前、ちょっとだけ見直したぜ」
「蓬莱寺君」
「仕方ないから見せ場は譲ってやるよ、だから絶対に、あいつ、引き止めてこい」
「蓬莱寺様」
朋恵の声。
蓬莱寺は口の端でニヤリと笑い、青眼の構えを取った。
「悪いな、朋恵ちゃん、怪我させたくないんだが、俺もこいつも諦めが悪くてな」
「私と戦うおつもりですの」
「男には、やらなきゃならない時ってのがあるんだ」
「随分時代錯誤な考え方ですのね」
「格好いいって言ってくれよ」
「ならば、女にも、やらねばならぬ時があります」
壬生が二人を交互に見る。
「蓬莱寺君」
「うるせえ、とっとと行け、こうしてる間に姫が消えちまうかもしれねえじゃねえかッ」
びくりと身体を震わせて、先に行こうとした壬生を朋恵が止めに走る。
「なりません!」
「朋恵ちゃんの相手は俺だぜッ」
ガツンと、木刀の腹と薙刀がぶつかり合って、木片が飛んだ。
「行け、壬生!姫の事―――頼むッ」
「はあああッ」
切りかかってくる朋恵の攻撃を防いで、打ち合う二人から踵を返すと、壬生は向かい側の襖を抜けて走り出した。
何かに導かれるように廊下を抜けて、一心不乱に足を運ぶ。
底冷えするような寒さの中で、けれど身体は熱く、鼓動は早かった。
光を、運命などにくれてやるものか。
それが宿星だというのなら、ねじ変えてでも留めてみせよう。
「光ッ」
吐く息が白く染まり、僅かに外気を感じる。
踏み出した先は、中庭に面した縁台だった。
雪が板の上まで白く染めて、一面の銀世界の中、ポツリと佇む白装束の姿を見つける。
「ひ、光!」
降り注ぐ雪を掌に受け止めるのをやめて、くるりと振り返る。
髪に積もった雪が落ちて、金色の粉粒になって消えた。
よく見れば、全身が金の燐光に包まれている。
「紅葉」
寂しげな微笑を浮かべた。
光は、今や向こう側が透けて見えてしまいそうなほど青ざめている。
まるで幻のような姿に、一瞬息が詰まった。
呆然と立ち尽くす壬生に微笑みかけて、光は片手をふいと上げると、雪を一片捕まえた。
「ここで会うのは二度目かな」
表情を曇らせた様子にすぐ気付き、困り顔で笑う。
「そんな顔しないで、紅葉」
「光」
「この庭は毎年、春が来ると一面の桜景色で凄く綺麗なんだよ、その頃また来るといい、俺は、縁台からの風景が一番気に入っていたんだ」
壬生は答えない。
「紅葉も見に来ればいい、朋恵には、言っておくから」
僅かに身じろぎして、縁台から降りると、庭に踏み出した。
靴底で雪を踏みしめて、壬生は光に近づいていく。
金の眼差しがじっと見詰めていて、数歩手前で止まった壬生は、そのまま立ち尽くした。
「どうして来たんだ」
叱責するわけでも、嘆いているわけでもない。
ただ静かな響きに、壬生は心底脅えた。
「御剣の、剣が役目を果たしたらどうなるのか、聞いて来たんだろう?」
また、答えはない。
光は再び雪を捕まえると、濡れた掌をじっと見詰めた。
「俺は、剣だ」
ふわり。
白装束の裾が膨らむように揺れて、輝き始める。
素足の爪先から光の浸食が始まっていた。
「定め、なんだよ、紅葉、もうずっと呼ばれている、今も聞こえているんだ」
ちりん、ちりんと、鈴を鳴らすような音。
あの黄金に輝く混沌から戻って以来、頻繁に聞こえるようになった声。
太極の意思たる存在、黄龍。
人の願いに応えて、混沌から成る、混沌を断つ剣。
生じたときから全て定められていた。
「剣は、平和な世界に必要ない、この地はすでに秩序と繁栄が約束されている」
「光」
「俺の役目は終わったんだ、だから―――消える、定めのままに」
光は膝から、更に腰に及びつつあった。
爪先はもう輝きに包まれて見えない。
すでに還ってしまったのかと、壬生の背筋が凍りつく。
「紅葉」
愛しい声。
ふらりと近づいて、壬生はありったけの想いで光を抱きしめていた。
「光ッ」
「ごめん、俺、約束したのに」
伝わる温もりは確かに現実のものなのに、光はすでに消えかけている。
運命を受け入れようとしている事実が、何より恐ろしかった。
必死に、願いを込めて、抱く腕に力を込める。
「年越し蕎麦、食べられなかったな」
「光」
「還るところ、見られたくなかったけれど、やっぱり、最後にこうしてもらえて、凄く嬉しいよ」
「光」
「有難う、紅葉」
「ダメだ、光」
「俺は、どこにでもいるから」
「行くな」
「万物は陰陽の気により成り立っている、その全てに、かつて俺を構成していた気脈の力は廻っているから、いつも傍にいるよ、紅葉、たくさん好きでいてくれて、有難う」
「還ってはダメだ、還るな、光」
「紅葉」
震える声に、壬生の内側で何かが爆発していた。
「光!そんな事を、僕は、許さないッ」
怒鳴りつけられて、光は呆然と壬生を見詰めている。
「紅葉?」
すでに胸の辺りまで、金の光に包まれている。
「愛していると言ってくれた、どれだけ傷付けて、苦しめても、変わらずこんな不甲斐ない僕を愛し続けてくれた、その君が、今更全て捨てるというのか」
「紅葉」
「僕は認めない、君は、そんな弱い人じゃないはずだ、心からの望みならどれだけの事をしてでも必ず叶えてみせる、そういう人のはずだ」
光は瞳いっぱいに悲しみを湛えて、苦しげに壬生を見詰めている。
「俺は、剣だ」
「君は人だ!」
ハッと見開かれた双眸が、黄金の気配を強くした。
「人なんだッ」
もう一度、強く繰り返す。
光の両腕を強く掴んで、今、確かにここに在るのだと伝える。
豊かな感情と、胸の奥には確実に鼓動を刻む心臓、肌を切れば血が流れる、その色は赤い。
「―――君は人だよ、光、剣かもしれないけれど、モノじゃない、ヒトだ」
「俺は」
「ヒトには、望むままに生きる権利がある」
肩甲骨の辺りにまで光は迫っていた。
確かに抱いているはずなのに、腕の中の感触は酷く頼りない。
壬生は、それでも抱き寄せて、光の顔を覗き込みながら、優しく穏やかに微笑を浮かべる。
「君の望みはなんだ、光」
「俺は」
「君には全ての望みをかなえる権利がある、それは、君が人である何よりの証拠だ、だから光、教えて欲しい、君が、望むものはなんだ」
「紅葉」
「この運命が、君の望んだものなのか?」
欲のない彼の、本心の望み。
それがどのようなものであっても叶えたいと思った。
それこそが壬生の望みであり、願いだ。
確かに光は人でないかもしれない。
けれど、自分にとっては、世界に二人といない、かけがえのない尊い人だ。
誰も代わりになどなれないし、光は誰でもない。
同様のことを、おそらく蓬莱寺も、如月も、村雨も、美里も、比良坂も思っている。
彼を知る誰もが、彼の代わりなどいないと言うだろう。
それは、朋恵や光の両親も例外ではないはずだ。
いや―――彼等こそ、真に願っているに違いない。
光が、この世に在り続けることを。
愛しているから。
「俺は」
口付けると、光の双眸から涙が零れ落ちた。
壬生はただひたすらに、眼差しの奥を見詰め続けている。
「―――消えたくない、よ」
震える唇が、かすかに伝えた。
けれど、想いの籠もった声で。
「紅葉と出逢うまで、考えもしなかった、御役目を果たすためだけに生まれてきたんだって、知っていたから、宿星も何もかも理解していたつもりだった」
まだ残っている腕の、白い指先が、壬生のコートを強く握り締める。
「でも、紅葉と出逢って、俺には分不相応な願いが出来てしまった」
「光」
「俺は剣だから、そんな望みを抱いちゃいけないって、それでも、心に蓋をして―――役目を終えた剣が還るのも定めの内なんだ、俺がここに居続けると、無用の争いが起こってしまうから」
「そう、なのか」
「平和な世界に、剣は必要のないものだろう?」
光は微笑む。
酷く儚げな、哀しい眼差しで。
「―――それでも僕は、君に居なくなって欲しくない」
壬生は殆ど消えてしまった光を強く抱きしめていた。
まだ感じるぬくもりを、散らばってしまった身体を、かき集めるように。
「誰かを苦しめてしまうかもしれない、傷付けるかもしれない、俺の呼び寄せる混沌が、紅葉の命を奪うかもしれない、それに、この地の平穏は約束されなくなってしまうよ」
「咎なら僕が全部引き受ける、君のためなら命だって捧げる、君を引き止めるのも、全部僕のエゴだ、けれど、その上で僕は望む」
「何を?」
「君が、僕と同じ願いを求めてくれる事を」
柔らかな気配が、そっと壬生の髪を撫でた。
「―――紅葉の咎なら、俺の咎だ」
今や、全身を光に包まれて、黄金の幻のような姿に成り果てた光は、それでも腕を伸ばし、壬生の身体を抱きしめた。
壬生も感触の無い空間を強く抱き寄せた。
両腕の中に、光の身体を、確かに抱いているかのような姿で、強く、強く。
「俺も願う、紅葉―――還りたくない、俺は、ずっと紅葉と一緒にいたい」
「光!」
「紅葉ッ」
ちりん、りん、りんと、鈴の音が激しくなる。
眩い光は壬生の体ごと、庭全体を黄金に輝かせている。
降る雪は風も無いのにふぶき、まるで花嵐のように渦を巻いた。
壬生の腕の中で、飽和していた気配が収縮し、一気に爆発する。
震動は大気を伝い、結界で囲まれた邸宅全体を震わせた。
「な、何事ですのッ」
切り結んでいた朋恵がハッと顔を上げる。
同様に蓬莱寺も、壬生が駆けて行った襖の先を見た。
「これは!」
「な、何だッ」
幾ら倒しても際限なく蘇り続けていた式鬼たちが、一時に動作を止めた。
肩で息を継ぎながら、顔を見合わせた村雨と如月は、同時に邸宅内部に駆け込んでいく。
天空から雪が舞い降りてくる。
まるで降る桜の花びらのように、はらはら、はらはらと。
縁台に立った朋恵は、そのまま両手で口元を覆い、息を呑んだ。
隣で蓬莱寺も呆然と庭を見ている。
遅れて到着した村雨と如月は、同様にそのまま立ち尽くしていた。
舞う、雪の、白銀の世界の中で。
壬生の腕には―――少年が抱きかかえられていた。
五年前、出逢った頃の様な幼い姿で、夢見るように瞼を閉じて穏やかな呼吸を繰り返す光を、ぶかぶかの白装束で包み、宝物のように抱き上げながら、壬生は薄紅色の頬に自身の頬を摺り寄せて、愛情と喜びに満ちた声で囁きかける。
「光、もう決して離さない、君は、僕の、唯一つきりの希望の光だ」