案内されてたどり着いたのは、廃墟と呼ぶのに相応しい、朽ち果てたビルだった。
建築途中で放棄されてどのくらい経っているのだろうか、外壁のあちこちが崩れかけて、さびた鉄筋が覗いている。
「バブルの名残って奴だな」
「バブルって何だ?」
振り返った蓬莱寺が苦笑する。
「帰ったら教えてやるよ」
二人は建物内部へ踏み込んでいった。
中は、外以上に惨憺たる有様だ。
放置されたままの建築基材、ゴミや埃、生き物の糞、死骸。
空気が淀んで、濁りきっている。
足元気をつけろよと蓬莱寺に言われて、直後に当人がよろけていた。
「っと」
「大丈夫か、蓬莱寺」
光に支えられた瞬間、少し身が軽くなったような気がして、蓬莱寺は思わず顔を見詰めてしまう。
「何?」
「い、いや」
「―――ここは気が濁っているから」
「え?」
「俺の傍にいるといい、少しは楽になると思う」
(何言ってるんだ、こいつ)
今度は前後が逆になりながら、蓬莱寺は先を行く光の姿をじっと見る。
御剣光は、およそ、蓬莱寺の今までの常識を覆すような、強烈な人物だと改めて思った。
出会ってまずその姿に見惚れた。
こんなに綺麗な人間を見たことがない。
そして、いまいちズレ気味な言動に拍子抜けして、その腕っ節に衝撃を受けた。
今のよくわからない現象も、当人は理解しているようだ。
何もかもが新鮮で、面白くて、興味深い。
蓬莱寺は出会って間もない光に強く心惹かれている自分を、ようやく自覚していた。
不思議だ。
群れには馴染めないから、一匹狼が身上であったはずなのに。
「蓬莱寺」
呼ばれてハッと足を止めた。
「いた、けれど、やっぱりワナだったみたいだ」
光の視線の先、廃材に腰掛けた佐久間と、周囲を取り巻く十数名の手下の姿が暗闇の中にぼんやり浮かび上がる。
「みつるぎぃ!」
佐久間の大声が響く。
「よく来たな、待ってたぜえ」
パッと周囲が明るくなった。
どうやら、照明を用意していたようだ。
紫の包みを持ったほうの手で光を遮りながら、蓬莱寺がケッと吐き捨てる。
「随分と、準備がおよろしい事で」
「蓬莱寺も一緒か、まあ、そうだろうとは思っていたけどなあ」
「佐久間」
光が一歩、前に出た。
「俺の大切なものって、誰だ」
「はあ?」
途端、周囲からゲラゲラと笑い声が上がる。
「こいつまだフカされた事に気づいてねーよ」
「おめでたい奴だな、バカじゃねえ?」
「おい、あんた、んなもんどこにもいねーよ、まんまと嵌められて、てめえは自分で死にに来たんだよ」
御剣よォ、と、佐久間が立ち上がった。
「昨日は、何だか知らねえが、随分な真似してくれたじゃねえか」
「はッ!先に吹っかけたのは、どっちだ佐久間ァ!」
蓬莱寺が咆える。
「あっさりやられたくせして、ちょいとお頭が足りないんじゃねえか、それともまた伸されてえのか」
「ぬかせ」
つばを吐き捨てる。
「てめえと喋ってんじゃねえよ、蓬莱寺、俺はそっちの、女ヅラした野郎に言ってんだ」
「確かに、綺麗な顔してるよな」
「潰し甲斐があるってもんだろ」
再び笑い声が上がる。
「まあ、待てよ、お前ら」
佐久間が片手で制した。
「それは最後の楽しみだって、言っておいただろ」
「そうでしたね、佐久間さん」
「俺ら、あいつ見て、腹決まりましたぜ」
「一枚咬ませてもらいますよ、佐久間さん」
「へへへ、そうこなくっちゃなあ、お前ら」
御剣、と、佐久間が改めて光を呼んだ。
「昨日の続きと行こうじゃないか」
「何?」
蓬莱寺が眉間を寄せる。
「この人数で、お前を犯して、回してやるよ」
「はあ?」
今度こそ、完全に、蓬莱寺はあきれ返ったようだった。
光はずっと彼らのやり取りをただ見ていた。
ニヤニヤ笑って、佐久間を中心に、男たちが2人に向かって歩いてくる。
「とりあえず、手前の野郎をボコ殴りで、そのあと、後ろの御剣を動けなくなる程度にしてやれ」
「骨折っていいッスか」
「ああ、だが、顔にだけは傷つけんじゃねえぞ」
「判ってますよ、これから、俺たちの濃いのぶっかけて汚してやるんだからなあ」
「突っ込まれて女みてぇによがってるとこ、写真にとってやりましょうぜ」
「いいな、それ、そんで真神にばら撒いたら、転校生君はどーなっちゃうのかなあ?」
笑い声が廃墟に木霊していた。
蓬莱寺は鞄と重箱を足元において、黙って肩を震わせている。
光も鞄を置いた。
目の前で、紫の包みがはらりと解かれた。
「どうやら、てめえら皆―――」
手元で使い込まれた木刀が、ヒュッと振り下ろされる。
「揃ってぶっ殺されたいらしいなあ」
「何だぁ、てめえ、あの女男に惚れてんのか?」
「うるっせえ!」
怒鳴りつけた蓬莱寺が周囲を見回すと、彼らの足が僅かにすくんで止まりかけた。
「てめえら!」
佐久間の一括で、はっとしたように、一斉に襲い掛かってくる。
「御剣!」
木刀を構えた蓬莱寺は、手始めに最初の1人を打って沈めた。
飛んでくる拳や足をひらりひらりとかわして、光は彼らの様子を見ている。
蓬莱寺の背後に及びそうな攻撃にのみ、反撃をした。
イラついた佐久間の怒号が合間に何度も聞こえてきた。
「殺せ、早くぶっ殺しちまえ!」
少年の1人の、拳を肩先でいなしてよけて、もう1人の叩き込んできた蹴りを、体を反転してよける。
更にそのまま、腰でくの字に折れ曲がり、更に蹴りをよけて、飛んできた拳を軽く手で薙いだ。
(遅い)
光には、彼らの動作の総てが見えている。
(蓬莱寺は、本当に強かったんだな)
片っ端から切り捨てていくその剣技は、実際見事なものだ。
「この、フラフラとよけやがって!」
少年の1人が、光の顔面めがけて拳を繰り出してきた。
(そろそろ頃合だろう)
光は片手で拳を止めた。
攻撃を仕掛けた少年が次に見ていたのは、廃墟の天井だった。
そして一気に意識を失う。
光が拳を突き出すたびに、誰かの姿が吹き飛んで落ちる。
気づいた蓬莱寺は思わずその様子に見惚れていた。
すかさず飛んできた蹴りは、容赦ない木刀の一撃にあっさり叩き落とされた。
「凄え」
まるで整理反射のように応戦する光の姿に、蓬莱寺は釘付けになっていた。
綺麗な人間が、綺麗な動作で戦っている。
流れるような連撃。
右の手を繰り出したあと、踏み出した片足に重心をかけて、蹴りを繰り出し、その反動でもう一方の拳を繰り出して、更に蹴りが続く。
しゃがんでよけた攻撃に反撃しながら、下段の攻撃をよけて、動作の流れで背後の敵を撃った。
倒れた何人かは出血しているのに、光は、一滴の返り血も浴びていない。
ゾクリ。
背筋が震える。
最後の一人が床に転がり、残っているのは佐久間だけになっていた。
「ひ、ひいいッ」
太った体を揺すりながら、佐久間は後退りを始める。
「く、来るな、化け物、来るなああッ」
「よりによってそうきたか、この変態め」
仕掛けようとしない光との間に、蓬莱寺が割って入る。
「さて」
自分の肩で木刀の刀身をトントンと弾ませながら、唇の端を吊り上げた。
「誰が、誰を回すってんだ、言ってみろ、うん?」
「てめえ、蓬莱寺いいッ」
「何だよ、いいのか佐久間、これ以上潰されたら、いよいよ見れねえ面になっちまうんじゃねえのか」
「だッ、黙れ!」
「フン、まあ、嫉妬すんのは勝手だがな、核の違いってもんを、知っておくべきだったな」
さて、どうしてくれようか。
「なあ、御剣よぉ、こいつどうする?」
振り返った蓬莱寺に、困り顔の微笑が返ってきた。
(あれ?)
様子がおかしい。
「どうした、御剣」
怪我などしていないはずだが。
「どっか、やられたか?」
「違う、蓬莱寺、佐久間は、好きにしていい」
「は?」
「俺は戦うつもりのない相手に、拳を向けられない」
「はァ?何言ってんだお前」
それは余りに甘すぎる。
今始末をつけておかなければ、佐久間は間違いなく、再び復讐を考えるだろう。
こういう手合いには体に教え込んでおいた方が早い、それが一番簡潔で、手っ取り早い方法だ。
「お前がやらなきゃ、意味がねえ」
「俺は、もうそんなつもりはない」
「バッカだな!あのなあ御剣」
―――その甘さが、命取りだよ。
蓬莱寺はハッと口を閉じた。
光も瞠目している。
闇の奥まで逃げ込んで、震えていた佐久間の体が、一瞬大きく痙攣した。
「あ、ああ、あ」
濁った声が上がる。
「俺、は、おれは、オレハ」
「佐久間?」
「オレハ、オ前ラナンカニ、ヤラレ、ネエ」
ふらり。
佐久間が立った。
だが雰囲気が、明らかに異様だ。
蓬莱寺は咄嗟に木刀を構えて、光も、油断なく様子を窺っている。
「ウグゴゴ」
ブワッと噴出した異臭に、2人は互いに顔をしかめた。
「蓬莱寺」
光が傍に近づいてくる。
すると、辺りを覆っていた不気味な圧迫感が、多少薄れたように感じられた。
(まただ)
木刀を構えたまま、蓬莱寺も僅かに光に体を寄せる。
理由や理屈は判らない。
けれど、今は―――そうしていた方がいいような気がした。
佐久間は、ズルズルと足を引きずって、照明の中央に立ち、そこで気味の悪い笑い声を上げだした。
ブクブクと体が膨らんでいく。
錯覚かと思わず目を擦ったけれど、幻のように消える事が無い。
蓬莱寺は呆然と成り行きを見送っていた。
(何が、起こってるんだ?)
佐久間の体はどんどん膨らみ、制服の前が弾けて、ズボンが裂けた。
現れた肌には無数の吹き出物が現れて、汚液を垂れ流している。
その肌自体、緑に変色していた。
口は耳まで裂けて、牙が次々と生え揃う。
目の色は青黒く濁り、髪の間から何か生えてきた―――角、だろうか。
「こいつは、一体」
グヘヘフへェ。
口元から滴った唾液が、腹の上に落ちる。
今や、佐久間でなくなってしまった、かつて佐久間であった『何か』は、理性を失った瞳で辺りをギロギロと見回して、舌なめずりをした。
オボボボボ、ウマソウナ、肉ダアアア。
ずん、と、片足が前に出る。
呆気にとられたままの蓬莱寺の脇から、光がスッと踏み出した。
「御剣ッ」
「佐久間は、邪法で堕ちた」
「じゃほう?」
「陰の外法だ、人を鬼に変える、こうなってしまっては、もう元には戻せない」
「なん、だよ、それッ」
「蓬莱寺は、下がっていて」
行こうとする光の肩を、蓬莱寺は咄嗟に引き止める。
「ちょっと待て、説明しろよ!」
「今はその時間がない」
「だからって、あれは元々佐久間だったんだろうが!」
蓬莱寺は、佐久間自身に何かしらの思い入れがあるというわけでなかった。
ただ、見知った人間が、こんな訳の分からない化け物に変わってしまった。
そして光はそれを知っている口ぶりで、更に『元には戻せない』と言う。
(信じられるかよ、そんなことッ)
たとえ、今目の前で繰り広げられている現実だとしても、俄かには受け入れ難い。
いや、受け入れたくなかった。
これは元佐久間だった―――元人間だったものだ。
(それを、どうするつもりなんだ、御剣ッ)
光は蓬莱寺を見詰めて、不意に、悲しげに瞳を眇めた。
ハッとさせられる。
「蓬莱寺」
手が重ねられる。
「倒すしか、ないんだ」
「何」
「それしか方法がない、元には戻せない、理は、何人たりとも変えることはできない」
「そんなお前」
「蓬莱寺は下がっていて、頼むから、離れた場所で」
「ふ」
ふざけるな、と、怒鳴りたかった。
けれど光の目が、今は如何なる理由であろうと、それを許しはしなかった。
静かに燃える金茶の瞳―――いや、今は金だ。
スルリと手を離されて、背中を向けた光はそのまま駆けだして行った。
化け物が、ニヤリと笑ってこちらを見ている。
「御剣!」
蓬莱寺の声と共に、細い体が宙を舞う。
繰り出された足技に蹴り倒されて、化け物が悲鳴を上げる。
ぐぎゃああ!
「や、やめろ、御剣」
ダメだ、いけないという心の声と、動かない体。
蓬莱寺は動けない。
光は、そのままひらりと地に降りて、一気に間合いを詰めて拳を繰り出した。
「発頸」
どん、と拳から衝撃波のようなものが生まれて、化け物に当たる。
汚液を撒き散らしながら、化け物はもんどりうってギャアギャアと叫んだ。
その転がっていった先に、倒れた仲間のひとりの姿がある。
光が、サッと青ざめた。
駆け出す動作は間に合わなくて、化け物は、意識の無い少年を捕らえると、脇腹にガブリと喰らいついた。
「っつ!」
蓬莱寺は息を呑む―――こんな光景は、見たことが無い。
少年は声を上げる事もできず、苦しみ、もがき、食いちぎった肉と共に引きずり出したはらわたを、化け物はうまそうに噛み砕いていた。
ニク、ニク、ニク。
腸をずるずると啜り上げる様子に、吐き気がこみ上げてくる。
光は駆け寄って、鬼に再び拳を繰り出した。
少年の体が、仰向けに転がり落ちた。
すでに、息は無いようだった。
辺りに立ち込める血と、腐ったような汚物の匂い。
ゲハハ、ゲハア、オマエモ喰ラッテヤル、犯シテヤル。
「ふざけるなっ」
双眸に怒りと悲しみを宿して、滾る力と裏腹に、光は泣いているようだった。
こんな悲しそうに戦う姿を、見たことが無い。
さっきまでとはまるで違う。
化け物の指から長く伸びた爪が、光の腹を薙いだ。
途端、鮮血が散り、呻いて降りたところを、巨大な手が細い腕を捕まえて、ひねり上げた。
食ウ、食ウ、オ前、喰ッテヤル。
「くうッ」
露になった股間から、歪な形の一物がそそり立っていた。
あまりの姿に、蓬莱寺はようやく、木刀を持つ手に力を蘇らせていた。
(何がなんだか、訳がわからねえ、けど!)
このままではいけないと、本能のようなものが告げている。
佐久間は、確かに、元人間で、見知った相手だ。
けれど今は違う。
奴が人を食う姿を見てようやく悟った、あれは―――もう『人』ではない。
光は発頸を打ち込んで、どうにか化け物の拘束から逃れていた。
途端、弾かれたように駆け出して、蓬莱寺の口から自然と雄たけびが上がる。
「うおおおおおおッ」
「蓬莱寺?」
ハッとこちらを振り返った光が、咄嗟に動作を止める。
「剣掌おおッ、発頸!」
青い光を纏った刀身が、衝撃波の刃を打ち出した。
思いもよらぬ攻撃に、化け物も、意表をつかれた様子だった。
グギャア!
叫んで、吹っ飛ばされた巨体が、埃を舞い上げて倒れる。
「御剣、オイッ」
光の傍に駆け寄って、蓬莱寺は急いで腹の傷の具合をうかがった。
「それほど出血してねえな、おい、大丈夫か?」
「ああ」
「なんだか色々と最低だが、最後にもう一度だけ―――答えてくれ、アイツは、佐久間はもう」
元に戻せないのかと。
光は俯いて、そうだと答えた。
辛く、苦しげな言葉だった。
「そうかよ」
蓬莱寺は答える。
「なら、俺達の手で、引導渡すしかないだろうな」
木刀を構える隣で、光も、再び拳を構える。
「行くぜッ」
同時に駆け出した。
起き上がった化け物は、不気味な咆哮と共に、両腕を振り上げて2人を迎え撃つ。
「八相斬りッ」
「雪蓮掌」
同時に放たれた二つの技が、巨体を切り刻み、氷の華を咲かせる。
ギャアアアッ
「喰らいな、剣掌、旋!」
下段から上段へ打ち上げる刃により真空の竜巻を生み出し、巻き込まれた化け物の体に無数の亀裂が入った。
頃合を見計らって、光が、とどめの一撃を放つ。
「龍星脚!」
天駆ける龍のようにも見える、華麗な蹴り技―――それにより、化け物の体は中空に吹き飛んだ。
ぐお、お、お、お、おおおお―――
濛々と塵を舞い上げて、コンクリートの床に激突する。
照明が派手な音を立てて次々に倒れた。
光と蓬莱寺が駆け寄ると、化け物の形は崩れて、それは佐久間本来の姿を取り戻しつつあった。
「く、るし、悔しい、くやしい、くやしいいいッ」
「佐久間」
光が、胸元にそっと手を翳す。
「すまない」
ドンッ
(あっけねえ)
それは、本当にあっけない、佐久間の最後だった。
心臓まで届いた衝撃波に、一瞬カッと目を見開いて、事切れた佐久間の体はサラサラと細かい砂粒に変わりながら消えていく。
蓬莱寺は、何故か目の奥が疼くようで、指先で目尻を拭い捨てていた。
立ち上がった光が気遣うような表情で覗き込んでくる。
「蓬莱寺」
―――その時。
場にそぐわない空々しい拍手が、辺りに響き渡ったのだった。