止めても一向に聞く様子の無い光に、結局蓬莱寺は折れざるをえなかった。

「お前もたいがい頑固なのな」

気乗りしない様子で渋々了解していたが、その後の動作は迅速で、一時間後には出かける仕度がすっかり整ったので光は苦笑してしまった。

院長の外出許可も、だいぶ無理を言って何とか取り付けてくれたらしい。

おかげで恐ろしい目にあったとぼやきながら、まだ自由のきかない体に「無理すんな」とシャツを着せてくれている彼に心の中で頭を下げる。

転校して数日しか経っていないというのに、蓬莱寺には随分迷惑をかけてしまった。

こんな事に巻き込まれて、それでもこうして色々と世話を焼いてくれるなんて、こんな人間そうはいないだろう。

「ほう」

言いかけて、光は口を閉じた。

「どうした、光」

ボタンを留め終えて、パジャマの下を脱がせようとしていた手をそっと押さえて微笑みかける。

「下くらい自分で着るよ、ありがとう、京一」

「あ、わり」

蓬莱寺が照れたように笑う。

「やっぱ野郎に着替えさせられるのなんか、あんまいい気分は」

そして、ハッとした様子で光をまじまじと見た。

「あ・・・いや」

軽く動揺して、それから本当に嬉しそうに笑った。頬から耳にかけてが僅かに赤い。

「ったく・・・なんつーか、とんでもないナンパ野郎な、お前」

「京一には負けるよ、多分」

蓬莱寺はまた笑って、ズボンをベッドの上に置いた。

「タクシー呼んでくる、駅までちょっと距離あるから、それで行こうな」

「うん」

光がうなずくのを確認して、蓬莱寺は病室を出て行った。

今着ているシャツも、ズボンも、これはたぶん蓬莱寺の私物だろう。

学生服は病室のどこにも見当たらなかったし、彼に自宅を教えた覚えも、合鍵を渡した覚えも無い。

見知らぬ衣服は清潔で、洗濯剤の匂いがした。

痛む腹部に難儀して、ようやくズボンと置かれていた靴下を履き終えた頃、衝立の向こうで音がして蓬莱寺が戻ってきたようだった。

「十五分くらいでくるらしい、荷物持って下行ってようぜ」

「うん」

肩を借りて起き上がって、光は蓬莱寺に支えられながら病院のロビーを目指した。

 

 タクシーに乗り込んだ後、十分くらいで新宿駅について、それから何本か電車を乗り換えて、目的の駅に着く頃には日が傾きかけていた。

携帯電話を切った後で、光は疲れた表情で目を閉じた。

駅前のバスの待合所には、自分達のほかに誰も居ない。

そもそも無人駅で、学生や会社員が戻るには少し早いから、今はちょうど凪ぎの時間帯なのだろう。

塗料のはげかかった安普請のベンチに蓬莱寺と一緒に腰を下ろしていて、ため息をついたら無意識に体が隣にもたれかかっていった。

「あ、悪い」

光の頭が触れた瞬間、肩先がビクリと震えたので、謝ると蓬莱寺は困ったように少しだけ笑った。

「いいよ、お前具合悪いんだから、これくらい気にすんな」

優しい言葉が嬉しくて、温かな気配にそっと息をついた。

丁度、三日前になるのだろう。

最後の一瞬だけ覚えている、彼の姿が頭の中で繰り返し再生され続けている。

(光、僕は君を殺す)

間違いなくそういった。

愛していると囁いてくれた、それと同じ声で、壬生は自分を殺すといったのだった。

(紅葉・・・)

光にはわからなかった。

あの日、訳もわからないまま引き離されて、記憶を封じられていなかったら自分は今でも絶望したままだったろう。思い出してしまった今となっては、当時よりも酷い喪失感に胸の奥がえぐられたように痛い。

それなのに、ようやく再会できたというのに、殺すといわれてしまった。

拒絶されてしまった、思い出ごと、自分も。

(どうして・・・)

そればかりが脳裏に浮かんでいる。

痛い記憶と、呼び起こされた悲しみ、そして、解くことの出来ない謎。

考えようとしてもまだ衝撃から立ち直れない思考がそれを拒むので、光は諦めて代わりに嘆息した。

「光」

「うん」

「腹、痛いのか?」

「大丈夫だよ、ごめん、気を使わせて」

「いや、いいんだけどさ」

困惑したそぶりの声を聞きながら、今だけは蓬莱寺の好意に甘えてしまおうと思って体を預けた。

その時だった。

「あれ?」

驚いた声とほとんど同時に、光は瞳を開けていた。

聞き覚えのあるエンジン音と共に、黒塗りの高級外車が寂れた田舎道を走ってくる。

「すげえな、こんな田舎でもあんな車乗ってる奴がいるのか」

「田舎の小金持ちだよ、ただの」

体を起こした光に、蓬莱寺が気遣うような視線と共に顔を窺ってくる。

「大丈夫」

頷いて、立ち上がろうとすると、肩の辺りを彼の両腕が支えてくれた。

「ありがと」

「あのなぁ光、自分のことだぞ、ちょっとは気にして」

外車は二人の目の前でぴたりと停車する。

「って、え?」

蓬莱寺がポカンとしたまま間抜けな声をもらした。

運転席のドアが開き、中から降りてきた中年の男が光の姿を見つけ、小走りに駆け寄って正面で恭しく一礼するまで、彼は光を支えたままピクリとも動かなかった。

「お待たせいたしました、光様」

「さ、様?!

蓬莱寺が耳元で大声を上げたので、光は僅かに顔をしかめた。

男が車の後部座席のドアを開き、手で指し示して乗車を促した。

「おい光、こりゃ一体・・・」

「うちの車だよ、心配しなくても大丈夫」

「いや、そういうことでなくだな」

うめき声を洩らす蓬莱寺の腕をやんわりのけて車に乗ろうとすると、同じ腕が伸びて慌ててそれを支えようとするので笑ってしまった。蓬莱寺は恨めしそうに光を睨んだ。

「さっきの電話はこれか、お前ってひょっとして、とんでもねえお坊ちゃまだったりしてるわけ?」

「家の資産に興味なんか無いよ」

「お前が無くても俺があんだよ、ちくしょう、こんなの詐欺だぜ」

ぶつぶついいながら一緒に乗り込んで、その後降りて荷物を取りに行こうとする蓬莱寺を運転手は礼儀正しく車内に戻らせた。荷物をトランクに運び込んで、それから戻ってエンジンを入れる。

音もなく走り出した車内で、興味深そうに辺りをきょろきょろ見回していた蓬莱寺がちらりと光を振り返った。

「光、辛かったら」

ポンポンと自分の肩を叩く、もたれていい、という事らしい。

光はちょっと笑って、首を振ってそれを断った。

「平気だよ、心配するな」

「お前・・・」

蓬莱寺はふと何かに気づいたように眉間を寄せたが、すぐに気を取り直してクシャリと破顔した。

「そうだな、俺、ちょっと過保護すぎか?」

「まあな」

「おい、人の好意にはちゃーんと感謝するもんだぜ、誰が院長に頼み込んでやったと思ってんだ、おかげで俺は恐ろしい目に」

「なにかされたのか?」

うっと唸って黙り込んでしまった彼に、光も苦笑しただけでそれ以上聞かなかった。

こんな片田舎の砂利道を走っているというのに、ほとんど揺れも無く車は二十分ほど走って停車する。

門にたどり着いた時、しばらく続いていた白塗りの壁がすべてここに繋がる塀なのだとようやく気づいた蓬莱寺が再びうめき声を洩らした。

少し待つと門が開いて、両サイドに竹林の広がる邸内を車は滑るように走りぬけていく。

竹林を抜けた所で完全に停車して、車を降りた運転手は玄関の前につけた側の扉を恭しく開いた。

「京一、着いたよ」

降りる時も蓬莱寺は光を支えてくれた。様子を確認した後で、再び車に乗り込んだ運転手がハンドルを切り返す。

「あ、おい、荷物は」

「平気だよ、ちゃんと部屋まで運んでおくから」

光は格子目の美しい、曇りガラスのはまった硬固な作りの玄関を指し示した。

「行こう」

「お、おう」

歩く光を助けるようにして、蓬莱寺が隣に付く。

引き戸の取手に指をかけて、油の効いたレールの上を滑らかに滑る扉を開けるのに大した力はいらない。

高さ二メートル弱ほどの間口が目の前に開けて、それから五歩くらい先に一段高くなった板の間が、正面の衝立に遮られて見えないが、ずっと奥まで続いているのだろう。その衝立の前、少し開けた玄関先に、三つ指を着いて頭を下げている姿をまず見つけて、蓬莱寺が面食らったように足を止めた。

光も足を止めてまじまじとその姿を見下ろす。

「お帰りなさいませ、お兄様」

「朋恵・・・」

伏せていた顔を上げて、光によく似た少女がニッコリと微笑を浮かべた。

それはとんでもなく美しい少女だった。濡れたような黒髪は腰の辺りまで伸びて、白い肌、朱の唇、切れ長の瞳、背後で蓬莱寺が呆然と見とれている気配がする。

光は大した感慨も沸かず、逆に湧き起こる感情に妹を強くねめつけていた。

「聞きたい事がある」

怒りを含んだ低い声にも朋恵は動じなかった。少しだけ困ったように微笑んで、光と蓬莱寺を促す。

「まあ、とにかくお上がりくださいませ、お兄様はまだお体の具合がよろしくないご様子、お客様も兄の引率でお疲れでしょうし」

「や、僕はそんな」

照れる蓬莱寺を呆れたように振り返ると、視線に気づいた横顔が少しだけ気まずそうな色を浮かべた。

「じゃあ、遠慮なく」

光を手伝う蓬莱寺共々板の間に上がると、朋恵は少しだけ寂しそうな色を視線に浮かべてから、先に立って歩き始めた。

「こちらへ」

案内されるまま二人は歩く。

黒い木目の美しい廊下は、慎重に進まなければ転んでしまいそうなほどに磨き抜かれていた。人三人が並んで歩けるほどの広さの、途中途中に障子紙の張られた扉があって、その様子はまるで時代劇の城の中のようだ。白塗りの壁に、天井のところどころに付けられた人工の明かりが、ここが現代である事を思い出させてくれる。

幾つかの角を曲がり、見事な和風庭園に面した廊下の途中にあった襖の前で正座すると、朋恵は戸を開いて二人を中に招き入れた。

「こちらへ、今茶菓子を用意いたします」

「あ、わりいな」

笑う蓬莱寺に、朋恵はいいえと穏やかに笑う。

光だけが憮然としたまま室内に入っていった。

二十畳ほどもある畳部屋の、中央近くに据え置かれた樫財の机の前に置かれた朱色の座布団に腰を下ろすと、遅れて蓬莱寺も隣に腰を下ろす。

部屋の中にはほかに家具は無く、正面の壁に一間ほどの床の間があって、竜の描かれた掛軸と花が生けてあった。

朋恵はそのまま襖を閉めて、床板を踏む足音が段々離れて去っていく。

「しっかし、すげえ家だよなあ」

きょろきょろと見回している蓬莱寺を一瞥して、顔を俯けて嘆息すると光は目を閉じた。

聞かなければならないことがたくさんある。

問わなければならないことも。

(朋恵・・・)

どうして。この世で唯一人の、何よりかけがえのない存在。自分に全てを捧げ、全てを与えてくれた少女、その妹がどうしてあんな事をしたのか。

兄が人を、同性を愛した事にそれほどまでに腹を立てたのか。

・・・本当の事を言えば、今だに同性愛が悪い事だとは思えない。性が同じであっても、違っても、そこに確かな愛情の形さえあれば誰かに否定されるいわれなど無い。自分は確かに世間知らずで、一般的な見解がどのようなものかよくはわかっていないが、それでも誰かが誰かに見返り無しに捧げる想いは尊いものだと思っていた。

そして、自分は確かにあの時、壬生紅葉に掛け値なしの想いを注いでいたのだった。

それは壬生も同じであってくれたから、殊更強く彼を想った。与えられる以上に与えたいと願った。

それをなぜ、あんな形で裂かれなければならなかったのだろう。

何が朋恵にそうさせたのだろう。

ひょっとして朋恵は

(あのことが、理由で・・・?)

膝の上で手を握り締めると、突然肩に触れるものがあって、光はハッと顔を上げた。

「光、どうした、やっぱ具合悪いか?」

心配そうな蓬莱寺に、間を置いて微笑んで見せる。

「そうじゃなくて、ちょっと考え込んでただけだ」

「そ、そうか」

蓬莱寺はまた少しだけ頬が赤かった。

「まあ、そうだな・・・」

僅かに顔に影が差す。あの現場に居たのだから、当時の事を思い出したのだろうか。

光は何も言えずに、無言で視線をそらすことしか出来なかった。

 

(続きへ)