やや待って、再び床板を踏む気配が近づく。
隣で緊張したように背筋が伸びる光の姿に、蓬莱寺も何となく落ち着かないものを感じていた。
衣擦れの音が聞こえて、縁の木が微かにこすれあいながら襖が開き、正座して顔を伏せた朋恵の姿が覗いた。
「お待たせいたしました」
盆を手に持ち、静々と机の端に置く。
光と蓬莱寺の前には湯気の立つ茶碗が置かれ、その側に繊細な色使いの練り切りの乗った小皿が、竹を切り出して作った小さなヘラを添えて出された。
「美味そうだなあ」
小さな和菓子をものめずらしそうに覗き込んだ蓬莱寺に、朋恵は笑いながら答える。
「私がお作りいたしました、お口に合いますかどうか」
「これ、朋恵ちゃんが作ったの?!」
「はい」
光は内心呆れてため息でもつきたい気分だった。
朋恵、ちゃん、とは。
蓬莱寺は気安い人間だと知っていたけれど、出会ってものの数分もたたないうちに女の子を「ちゃん」づけで呼べるような人間を自分は今まで見た事が無い。
もっとも、光の妹だという認識あってのことのようにも思えるのだが。
(でもこいつは絶対それだけじゃないだろうな)
練り切りを楽しむようにヘラで切って、口に運んでやっぱり美味いなどと抜かしているのんきな横顔を眺めつつ、光は小さく息を吐いた。
「さて」
朋恵は二人の正面、向かい合った卓の向こう側に腰を下ろす。
「お兄様」
呼ばれて光は前を見た。
見知ったその顔を見つめていると、自然と視線に力がこもってしまう。
それに気づいた様子で、朋恵はまた少し寂しそうな微笑を浮かべた。
「ご用向きをお伺いした方がよろしいでしょうか」
「いや、その必要は無い」
何を話しに来たのか、妹は察しがついているようだった。僅かに光は身を乗り出す。
「朋恵、聞きたい事がある」
「はい、何なりと」
「あの時の・・・五年前のことだ」
隣で蓬莱寺が息を詰めて様子を伺っている気配がした。
「はい」
「お前は、どうして」
「その前にお兄様」
言いかけた言葉に重なるようにして声を発して、朋恵は隣に座る蓬莱寺を振り返った。
「こちらの方を紹介してはいただけないのでしょうか?」
「え、お、俺?」
いきなり振られて蓬莱寺はビックリしている。
光は困惑しながら、それでも礼儀を欠いていたことに思い当たっていた。
「ああ・・・そう、だったな、紹介もしないままじゃ悪いよな」
妹にもそうだが、何よりここまで自分を気遣って付いて来てくれた蓬莱寺に悪い。
「朋恵、こちらは蓬莱寺京一さん、転入先の学校で色々とよくしてくれている」
さん付けで呼ばれた事は初めてなのだろうか、蓬莱寺は光をまじまじと見詰めた。
「はじめまして」
朋恵は座ったまま深く頭を下げる。
「や、こっちこそ、よろしくな」
蓬莱寺は照れたように耳の後ろを掻いてから、慌てて同じように頭を下げた。
「京一」
「え、あ、おう」
「こちらは妹の朋恵だ、御剣朋恵、俺より三歳ほど年下になる」
「え?朋恵ちゃんってまだ中学生なのかよ!」
蓬莱寺がまたビックリしたように目を丸くして、今度は朋恵をまじまじと見つめる。
視線を寄せられた少女は少しだけ失笑した。
「見えませんか」
「ぜんっぜんみえねえ・・・俺、同い年か一個下くらいに考えてた」
「まあ」
鈴を転がすような声で笑う。
「私も、蓬莱寺様はお兄様よりお年が上なのでないかと思っておりましたのよ」
「マジで?」
まいったなーなどといいながら、まんざらでもなさそうなのはどうしてなのだろうか。
蓬莱寺の思考回路がまったく読めず、急に和みかけた場の雰囲気に光は僅かに憮然としていた。
「それで」
「蓬莱寺様は今日は何かご用事が?」
朋恵に再び言葉を遮られて、今度こそ光は不快をはっきりと表情に露にした。
様子に気づいた蓬莱寺が気まずそうにそれは無いと答える。
・・・朋恵は明らかに自分に話をさせまいとしている。気づいた光がイライラと卓の下で手を握り締めるのを、横目で確認して蓬莱寺は朋恵の顔と見交わした。
「それならば、お兄様の事もありますし、今日はこちらへお泊まりくださいませ」
「えっ」
「もう夕食時ですし、ご恩のあるお方をお持て成しいたしたいのです」
「そりゃ、俺は別にかまわねえけど」
突然光が卓を叩いて膝を着いたまま立ち上がった。
「朋恵!」
「では、お部屋をご用意いたします」
「朋恵、俺は!」
「用意が出来たらお呼びします、それまでこちらでご歓談を」
「朋恵!」
「お兄様!」
光の怒号より更に大きな声で、朋恵が一喝した。
勢いに飲まれた光は一瞬だけ身を引く。
「・・・お話はまた後ほど、今はお客様が優先です」
「朋恵」
「今お命があるのは、どなたの助けがあっての事とお思いか」
途端にビクリと身を硬くした。朋恵はあのときの事を知っているのだ・・・何故だかは知らないが。
そのことに気づいたらしい蓬莱寺も真面目な顔で朋恵を凝視している。
緊迫した空気を割くように、朋恵が不意にコロコロと笑い声を上げた。
「すみません、お見苦しい所をお見せいたしましたわ、お気を悪くなさらないでね」
「あ、そりゃ、まあ」
「では、後ほど」
座布団から降りて、丁寧にそこで三つ指を着いて礼をすると、朋恵は立ち上がって部屋を出て行った。
光は微動だにしない。
俯く肩が僅かに震えているので、蓬莱寺は彼が泣いているのでは無いかと不安になった。
「光」
そっと触れようとすると、先に振り返った金茶の瞳が彼を見据えた。涙は無かった。
「京一、ごめんな」
「え」
「俺、お前にちゃんとお礼言ってなかった、そうだよな、あそこにお前が居てくれなかったら、俺はあのまま殺されてた」
「光」
殺されてもいいと思っていた、の間違いではないのだろうか?
あのときの光は確かに死を受け入れようとしていた。
それが我慢ならなかったから、自分はあんな無茶をしてまで二人の間に割り込んだ。多分、それは間違いない。
(あんときはそんなこと考えもしてなかったけどな・・・)
光を守りたいだけでいっぱいいっぱいだったけれど、その気持ちは否めなかった。
「俺はまだ死ぬわけに行かないから、あの時お前が居てくれて本当に助かった」
「そっか」
「うん、ごめん、それとありがとう」
改めて言われると何だか照れくさくて、蓬莱寺は僅かに赤らめた顔をごまかすようにへへへと笑った。
「気にすんなよ、その、ダチを助けんのは当たり前だろ?」
ようやく光が笑ったので、なんだか少しホッとする。
同じくらいの目線をしげしげと眺めながら、多少憂いを含んだままの微笑が僅かに瞳を細くした。
「お前って本当にいい奴だな」
「え?」
「お前が居てくれて、今ちょっとだけ嬉しい」
「ちょっとかよ」
「うん、ちょっとだけ」
こいつ、と頭を軽く小突きながら、それでもまだここに来た本来の目的は何も果たせていないことに蓬莱寺は不安を覚えていた。
そしてその気持ち以上に、笑う光の胸の内でも様々な感情が渦を描いて廻っている。
(朋恵・・・)
何が何でも聞きださなければならない。
事の真相を。
そうでなければ多分、壬生紅葉の本心を探ることなど出来ないだろうから。
彼の事を思い出すだけで辛くて、それでも今だけはこの気のいい友人に余計な心配を掛けたくなくて、光は無理やり微笑んでいた。
互いにその面が繕い物であると気づきながら。