「非常に、よろしくない按配ですわね」

鳴瀧から届けられた封書を読みながら、朋恵が小さく嘆息する。

文面は光の近況についてであったが、その内容が彼女の気を重くさせていた。

(まさか、このようなことになっているとは・・・)

それが直接的な原因ではなかったにせよ、極命を任せられた身でありながら監視の目を怠った鳴瀧が腹立たしかった。

彼が不在の間の一週間、兄の身に何が起こったのか。

兄がどんな考えを抱くようになってしまったのか。

「これは、非常に由々しき状況ですわ」

極上の和紙に墨でしたためられた達筆の文を握り締めながら、朋恵は決断していた。

「誰か、車を」

「はい」

「出かけます、早急に用意なさい」

立ち上がり、呪をかけるための懐刀を取り出して、振袖の袷にそっとしまった。

 

朝早くからの修練がすんで、昼食後の一時、光は道場の庭の桜の花の美しい場所で壬生と話しこんでいた。

「それじゃあ、小学生はランドセルを絶対に背負わなくちゃいけないのか」

「絶対というわけではないけれど、大体そうだね」

「それって大変だよな・・・子供にはちょっと重過ぎるよ」

感心する姿を壬生はニコニコと見つめている。

外界を知らずに育ったせいもあって、光はとかく一般常識というものに疎かった。

それを一つ一つ教えてやるたびに、驚いたり笑ったり憤慨したりする姿が面白くて、聞かれるままに色々な話をしてやっている。

学校とはどういうものか、駄菓子とは一体なんなのか、テレビは、音楽は、皆どんな遊びをして過ごしているのか。

中には知識だけあって壬生自身が体験した事のない話もあったが、機転を利かせて面白おかしく脚色して話すと光はとても喜んだ。

この小さな箱庭で、外の景色に思いをはせる姿がとても無邪気で、愛しい。

光を守りたいと強く思う。

ずっと一緒にいたいと、心から願う。

そのためにはどんな犠牲だって払うし、どんな事でもするつもりだ。

「光」

柔らかな黒髪に触れると、光はくすぐったそうに笑った。

「どうしたんだ、紅葉」

頬に触れて、見つめるうちに長いまつげが自然と下に降りる。

仕草に吸い寄せられるようにして、どちらからともなく唇を寄せて、そうして離れると光は頬をほんのりと薄紅色に染めていた。

「ここでするのは違反だよ」

「僕と君以外誰もいない」

「でも、部屋でだけって約束だろ」

「目の前に君がいるのに、我慢なんてできないよ」

再び額にキスを落とされて、光が照れ笑いで上目遣いに睨んだ。

それが彼の美貌と相乗してとんでもなく魅力的な表情を作り出したせいで、壬生はたまらず光を強く抱きしめた。

痛い、痛いと言われて、少し放すと優しげな微笑が浮かんでいる。

「紅葉にこうされるのって、俺、好きだよ」

睦まじく見詰め合う少年達に、その声は突然平穏を乱すような鋭利な響きを持ってもたらされたのだった。

「紅葉、光様、いったい何をなさっておられるのですか?」

ビクンと大仰に震えて、慌てて振り返った二人の視線の先に鳴瀧が立っていた。

普段の優しく温かな様子は微塵もなく、能面のような無表情の強ばった目がじっとこちらを見つめている。

「館長」

「あ、な、鳴瀧さん、俺たちは」

急いで取り繕うとして、鳴瀧の背後から現れた姿に光は絶句する。

「お兄様」

「朋恵」

冷たい視線が光を射抜き、その隣の壬生を見るとき、彼女の瞳には確かに憎しみが宿っていた。

「御剣の次期当主に手を出すだなんて、随分肝の据わった門弟ですわね」

壬生は答えずに、光の肩に回した掌に力を込めた。

気づいた光がちらりと彼を見ると、強ばった顔色がわずかに青ざめていた。

「その方は貴方が気安く触れても良い人間ではありません」

何の感情も含んでいないかのような声が響く。

「今すぐ、側から離れなさい」

「朋恵!」

光はたまらずに声を上げた。

「朋恵・・・どうしてそんな言い方をするんだ、紅葉は俺を好きなだけで、危害を加えようとしているわけじゃない」

「お兄様の口にそのような言葉を上らせるだけで、もう十分被害は出ています」

「そんな言い分滅茶苦茶だ、俺は、俺だって紅葉の事を」

「お兄様!」

ぴしゃりと言い放たれて、思わず言葉に詰まる。

「それは、言ってはなりません」

「・・・どうして」

「どうしてもです、お兄様はそんな事を考えてはいけないのです」

朋恵は真剣だった。何か、大きな真理から彼を隠そうとしているかのようだった。

「どうして」

光は繰り返す。

「どうして、言っちゃいけないんだ」

「お兄様」

「どうして、どうして、どうしてだ!俺は」

「お兄様!」

「俺は、紅葉のことが好きなんだ!」

途端、朋恵は目を覆いたくなるような落胆の色をはっきりと表情に映していた。

背後の鳴瀧が辛そうに顔をしかめる。

壬生が、光を少しだけ自分のほうへと引き寄せる感触がした。

「俺は紅葉が好きだ、紅葉のことを愛してる」

もう一度繰り返すと、耳元ではっきりとした声が続けて宣告する。

「僕も、光を愛しています」

朋恵は今にも気を失って倒れてしまいそうだった。

やっとの思いで立っているようで、力なく、呆然としている姿に光がわずかに顔を曇らせる。

「朋恵?」

彼女は答えない。

おぼつかない視線で、こちらを見ているのかどうかも怪しい様子だった。

「朋恵」

心配になった光は壬生の腕をそっと離し、朋恵の側へと近寄った。

同性を愛しているという告白はそんなにも衝撃的なものだったのだろうか?

もっとも、常識が欠落している光にしてみれば、異性に感じるような愛情を同じ男に持つことが不自然だとは思えなかった。

要は互いの感情が第一なのであって、そのほかのことなどオマケ程度の意味しか持たない。

性別がなんであろうと自分は紅葉を愛しただろうし、彼もそうであると信じていた。

「朋恵・・・大丈夫か」

肩に触れようと手を伸ばした瞬間、鋭くひらめいた刃が光の手首を切り裂いた。

「くうっ?!」

「光!」

仰天して駆け寄ろうとした壬生よりも早く、懐刀を握り締めた朋恵の手が印を切った。

「五の門、九の門、無間の門よ開け、血脈の流れを廻り、彼の門を塞げ、全ての門は開く事かなわず」

鮮血の滴った刃の先が、呆然としている光の眉間をすっと撫でる。

薄く割けた傷が一瞬だけ赤く光り、直後にふらりと倒れかけた光を鳴瀧が抱きとめた。

近づこうとする壬生に、朋恵が懐刀で牽制した。

「どういうつもりですか」

「貴方は知る必要などありません」

朋恵は機械的に答えて、刀身の血を払うと鞘に入れて袷に差し込んだ。

振った切っ先から飛んだ一滴が壬生の頬に付き、ぬるい感触がゆるゆると流れ落ちていく。

「何のまねだ・・・光に、なにをした?」

「お兄様は貴方の事を忘れました」

氷のような声だった。

壬生は目前の少女を凝視した。

「なん・・・だと?」

「お兄様はもう貴方の事など覚えていません、愛してもおりません」

「そんなバカな」

「私の呪は絶対です、あなたのことだけ、記憶から抹消いたしました」

「なにを、何を言っているんだ、そんなこと」

「紅葉」

朋恵のほうへ乗り出す壬生の体を、大人の手が捕まえる。

いつの間に背後に回っていたのか、青山が振り返った彼に悲しげな表情で首を振った。

「光様はお帰りになられる、もうよすんだ」

「放してください青山さん!」

暴れる体をしっかり押さえつけられて、体格ではまだまだ劣っている壬生は身動きが取れなくなってしまう。

それでも死に物狂いで暴れて、今、自分の前から連れ攫われようとしている光に向かって叫んだ。

「光、光!起きてくれ、行くな!」

様子を冷たく眺めていた朋恵が、振り返って鳴瀧に指示した。

彼は能面のような顔のまま、光を抱いてどんどん歩き去っていく。

壬生は喉が裂けるほど声を振り絞り、必死で名前を呼び続けた。

「光、光、ひかるううう!」

辺りに風が吹き、桜が狂ったように乱れ舞っている。

一面を覆う濃い紅色に、光を抱いた鳴瀧の後姿がかき消されていく。

朋恵が最後に一瞬だけ振り返り、風の向こう側からでも良く聞こえる不思議な声で壬生に告げた。

「このことは忘れなさい、御剣の剣は、誰にも心を奪われてはならないのです・・・・・

そして、何も見えなくなった。

叫ぶ事も忘れて、桜の渦の中、青山に押さえつけられたままの姿で壬生は呆然としていた。

今ここにあるのは絶望。

恐怖するほどの喪失感、そして、無力な自分への嘆き、怒り。

彼らが見えなくなった方向をいつまでも見つめながら、壬生の双眸からするすると透明な雫が流れ落ちていた。

 

(続きへ)