長い、悪夢を見ているようだ。

桜降る中で見つけたあの姿。忘れていた自分。蘇った過去。

そして、壬生紅葉。

殺すと言われた、それを受け入れようとした自分・・・なんて弱い。

俺は弱い。

この手で何かを守りたいだなんて、おこがましいにも程がある。

「俺は・・・」

暗闇の中で見下ろす両手に涙がいくつもこぼれて、病室の中、光はいつまでも嗚咽を止める事が出来なかった。

 

 学校が終わってからこんな辺境の病院まで、蓬莱寺は懲りずによく通ってくれている。

来る度に細々と何か持ってきては、やれ次は何が欲しい、ヒマじゃないか、食いたいものは無いのかと聞いて再び帰っていく彼に、申し訳ないような有難いような複雑な気持ちで光は曖昧に笑う事しか出来なかった。

「京一」

今日は林檎を持ってきた、その危なげな手元を見ながら、ベッドに半身だけ起こした光は声をかける。

「何だよ、今ちょっと手が離せねえンだから、声かけんなよ」

「俺やるから、貸して」

蓬莱寺は顔を上げた。

「バカ、怪我人に皮剥かせたんじゃ、何のために俺が持ってきたか分かんねえじゃねえか」

「でもお前、怪我しそうだ」

「しねえよ」

「見てて心臓に悪い」

「悪かったな」

光は有無を言わさず手を伸ばし、強引にナイフの刃の部分を掴もうとした。

「っうわ、あぶねえ!」

慌てて体を引きながら、蓬莱寺は本気で怒ったように光を睨みつけた。

「何考えてんだ、怪我したらどうすんだよ!」

「別に・・・今更切り傷の一つくらい増えたって、そんなに変わらないじゃないか」

「な」

自嘲気味に笑った光を、信じられないものでも見るように蓬莱寺は唖然と見つめている。

病室の空気が少しだけ重くなった気が、した。

「・・・バカ言ってんじゃねえよ」

ナイフの柄を握る力を強くして、腹の底から絞るような声を吐いた。

本当に、バカ言ってんじゃねえ。

わざわざ新宿くんだりから、誰のためにこんな辺境の場所まで来てやってると思ってんだ。

電車代だって馬鹿にならなくて、とっとと退院して欲しいっていうのに。

これ以上俺に余計な負担をかけるつもりなのかよ。

今だって・・・目の前のお前が、このまま消えちまうんじゃねーかとか、そんなこと考えてるっていうのに。

「これ以上」

心配させんな。

不安に、させんなよ。

「ガッコ休んだら、お前本気でダブり決定だぞ」

「ダブりって」

「留年すっかもしんねーって事!」

シーツの上に皿と林檎を置いて、刃先を自分で持ちなおし、蓬莱寺はぶっきらぼうにナイフを突き出した。

「ほれ、剥きたきゃ好きなだけ剥け!」

光はちょっと笑って、ありがとうと言ってそれを受け取った。

「これでやっと安心できる」

「まったくだ」

半分嫌味で言ったつもりなのに、聞こえなかったようにするすると林檎の皮を剥いて、あっという間にそれは六個のかけらに変身してしまった。一つ手に取って差し出してくる。

「ほら、食べなよ」

蓬莱寺はぐうの音も出ずにいた。

「お前、弁当といい、本当にこういうの得意なのな」

「一通りできるって話さなかったっけ?」

受け取ったかけらを口に放り込んで、返事の代わりにむしゃむしゃ食べると光がまた笑う。

病室には少しオレンジがかった光が差し込んでいて、それに照らされる姿はまるで幻のようだった。

こうして、笑顔だけ見ていられたらいいのに。

これ以上、こいつが苦しむような事がなければいいのに。

けれど状況は何も変わっていなくて、怪我が治って真神に戻れば、光にはまた現実が待っている。

こいつを殺すかもしれない現実が。

(そんなことはさせねえ、絶対に)

今一時だけ、僅かに訪れる安らぎが、彼を癒せばいい。その手伝いが出来ればいい。

(俺が守る、絶対に)

すぐ側に立てかけた木刀をちらりと見て、蓬莱寺は林檎を食べる光をじっと見つめていた。

膝の上に落ちた真っ赤な皮が、まるで血の跡のようだった。

 

 それから数日経って、ようやく退院できる日、蓬莱寺が来ると病室はあらかた整理された後だった。

ボストンバックに僅かな荷物を詰めて、ロビーへ降りると朋恵は少しここで待っていて欲しいとだけ残して行ってしまった。

それで、二人で手持ちぶさたに椅子に腰掛け、とりとめも無い話をする。

美里や杏子の事や、学校の事、最近のこと、話しながら蓬莱寺が課題に手をつけていないことを思い出して苦悩するので、光は面白そうにそれを眺めていた。

「言っとくけどな、入院していた分だけ待ってやるっていうだけで、お前にもあんだぞ!」

え、と言って眉を寄せた光に、今度は蓬莱寺がザマミロと笑い声を洩らす。

そうしてつまらない談笑を繰り広げているうちに朋恵が戻ってきた。

兄の元気そうな姿を見て心底安心したように微笑む。

光は、いつもと何も変わらなかった。

(朋恵ちゃんのこと、もう気にしてねえのかなあ)

一時はあれほど怒っていたのに、もう気は済んだのだろうか。

少し前、実家に戻ると言い放った光は朋恵に対して頑なな態度を崩そうとはしなかった。けれども今こうして見える二人は普通に仲の良い兄と妹の顔をしている。

朋恵のことはもう許したのだろうかと蓬莱寺は思う。

・・・多分そうなのだろう。

実際、今の光の気持ちなどは知りようも無いが、彼の性格なら多少は把握できているつもりだ。

ここで以前の事を引きずっていても、押し寄せてくる今が何か変わるわけでもない。

そう、重要なのは今、そしてこれからなのだから。

参りましょうかと促されて、立ち上がりつつ窺った光は本当になんてことも無い表情をしていて、それでまた少し不安を覚えつつ、蓬莱寺はそんな自分を心中で叱責する。

新宿に戻ったら、こいつを守るのは俺の役目だ。

むざむざ死なせたりはしない、そんなこと、させるものか。

振り返った光が首を傾げたので、それで久し振りに胸に湧き上がった感情につい照れ笑いがこぼれた。

(俺も大概、こういうのに弱いよなあ)

面倒だと思うけれど、やっぱり仕方が無い。

戦いはまだ始まったばかりだった。

 

(続きへ)