まだ、その時でないと知っている。
わかっていても恐ろしかった。抗えない強い力に押さえ込まれているようだった。
軽い目眩を覚えて、靴下のまま庭先に降り立つともうすでに日は暮れて空には星が瞬いていた。
光は深く息を吐いた。
今更ながらにこの身に宿るものが恐ろしい。
呼ぶ声はいつでも聞こえていて、手を伸ばしてもどこにも逃れる場所などなかった。
壬生が側にいてくれた、あの一瞬を除いて。
「紅葉」
小さく呟いて、体を抱くと幼い頃の抱擁の感触がうっすら蘇ってくる。
彼に抱かれている時、彼が側にいるとき、その時だけ、自分は救われていた。伸ばす手を掴んでいてくれたのはいつだって壬生だった。彼だけが、今ここにいる自分に強い実感を与えてくれた。
それなのに、今は殺すと言っている。
脳裏に浮かぶあの冷たい眼差し、それだけで、世界は凍りつきそうなほどに温度を下げる。
無力感にうな垂れると、ふと妙な気配が頭上をよぎった。
光ははっとして上空を見上げる。
しかし、そこには星しか見えない。雲もなく、月もなく、ただ満天の星々が広がるばかり。
顔を戻して首をかしげかけた瞬間、聞き逃しそうなほど小さな悲鳴が店のほうから響いた。
(比良坂さん?!)
今の声は間違いない。考えるまもなく体が駆け出していた。
(いけない、彼女が危ない!)
さっきの気配といい、ここを嗅ぎつけた刺客が訪れたのかもしれない。
そう考えた途端、よぎった面影に、光は僅かな不安を覚えていた。
もしも彼だったら。
そのとき、俺はちゃんと戦えるのだろうか?
また大怪我を負わせられて、病院送りにされたら?いや、それ以上に彼の行為に逆らいきれるのだろうか?
今度こそ、殺されるかもしれない。
光は目をギュッとつぶって、考えを振りほどくように頭を振った。
今はアレコレ悩んでいる場合ではない。比良坂に危機が迫っているのだ、すぐに助けださなければ。
廊下を駆け抜け、店に出ると入り口の戸が開いていた。
比良坂の姿は無い。
慌てて靴を履いて、外へ飛び出すと恐怖に満ちた声が光を呼んだ。
「御剣さん!」
振り返ると比良坂が駆けてくる。胸に飛び込んできた細い体を抱きとめて、そのまま辺りを窺うと近くの暗闇から何か唸るような声が聞こえてきた。
「比良坂さん、ここは危ない、店の中に戻っていて」
ギュッとしがみつく彼女の肩を掴んで耳元で囁くと、上を向いた蒼白の表情が不安げに見つめてきた。
光はできるだけ力強く微笑んで見せる。
「大丈夫だから、待っていて」
「はい」
震える声で答えて、比良坂は店のほうへ駆けて行った。
店内に入るまで、目前の気配に注意を向けながら光は彼女を背中で庇う。後ろ手に戸を閉めて、改めてその何かと対峙した。
唸り声が段々大きくなっていく。
闇の奥から、鋭い爪を持った前肢が覗いた。
(来る!)
思った瞬間、勢いよく飛び出してきた巨体をかわす。振り返って見て光はうっと声を洩らした。
それは、小山くらいの獣だった。具体的な大きさといえば二メートルほどはあるだろうか、人が四つんばいになった程度の大きさだ、土気色の肌をしていて、トカゲのような巨大な尾が生えている。そして、その顔面は人のものだった。
「異形・・・外法か」
呟いて身構えると、獣は低く唸り声を洩らした。それはなぜか泣いているように聞こえて、胸を刺す悲しみに表情を曇らせる。
これはもう人じゃない。
かつてそうであったけれど、もう元に戻るすべは無い。
ならば、倒すのみ。
ぐっと構えた拳に力を込めて、飛び掛ってくる巨体に振りかぶった。
「ガルルッ」
前肢をかわし、頭上を飛び越える腹に一撃、そのまま上に吹き飛んだ姿を追って側面を飛び、踵で背中に一撃加える。獣はアスファルトの上に叩きつけられた。
「ギャウッ」
悲鳴をあげた直後、降り立った光に体制を整えて再び飛び掛ってきた。人の口が限界以上に大きく開いて、裂けた口角から巨大な剣のような牙が覗く。
防御に構えた腕の側面に喰らいついた獣が深々と牙を沈ませた。
光は顔をしかめながら、動きの止まった獣の額に掌をあてた。
「これでお終いだ」
中央に集中させた剄をそのまま叩き込む。
「掌底、発剄!」
獣の全身が大きく震えた。一瞬目を剥いて、カッと開いた口からずるりと牙が抜ける。
直後に噴出す鮮血を押さえて、光が後ろに飛びのくと獣はゆらりゆらりと揺れてから音を立ててその場に昏倒した。だらしなく開かれた口から舌が垂れ落ちて、あふれ出した赤いものがコンクリートの上に広がっていく。
光は気を収集させて、腕の回復力を増進させながら獣の姿を油断無く見つめていた。
異形の輪郭が徐々に崩れて消え始めた。
「倒した、か」
呟いた頃、腕の流血もほとんど治まっていた。穴はまだ開いたままであるけれど、何とか血管の補修だけは終わったらしい。痛む患部を押さえて店に戻ろうとした、その時。
「危ない!」
戸が少し開いて、そこから覗いていた比良坂が飛び出してくるのが見えた。
光には何が起こったのかよくわからなかった。
彼女の細い腕に突き飛ばされて、油断していたせいもあってか路上に倒れこんでしまう。
慌てて起き上がった目の前で、流れるように揺れる栗色の髪、続いて線を引く赤い色。血しぶき。
全てがひどくスローペースのコマ送り画像のようだった。
気付くと、足元に比良坂が倒れている。
光は暫し呆然として、慌てて彼女を抱き起こした。
「ひ、比良坂さん?」
「御剣さん・・・怪我は、ありませんか?」
延ばされた細い指は血にまみれていて、ぬるりとした感触が頬に触れた。光は震える手でその手を掴み、顔を覗きこむ。比良坂の口元から胸にかけて、吐き出した血でべっとりと濡れていた。唇の端からは話すたびに鮮血が滲んでは零れ落ちる。
「御剣さん?」
「俺は、大丈夫、君が助けてくれたから」
比良坂は弱々しく微笑んだ。
「そう、よかった・・・私、夢中だったから・・・」
新たに血を大量に吐き出して、比良坂はグッタリと腕の中で動かなくなった。
ぶるぶると震える光の手がその胸に触れる。不規則な鼓動は今にも消えてしまいそうだった。
「こんな、ことって」
まだ現状が理解できない。
敵は倒したはずだ。何が起き、どうしてこんなことになったのか。
比良坂はどうして血を流しているんだ?
見れば、首が妙な形に折れ曲がっている。人形のような彼女を抱いて座り込んでいると、闇夜に抜き身の刃のような冷ややかな声が響き渡った。
「残念、まさか横槍が入るとは思わなかったよ」
途端、光は全身をビクリと震わせる。
辺りの空気が一瞬で凍りつくのがわかった。
比良坂を強く抱きしめながら、顔を上げて闇に立つその姿をはじめて強く睨みつけていた。
「紅葉・・・どうして、こんなことを」