あれから数ヶ月が過ぎた。
比良坂は、桜ヶ丘病院でいまだ昏睡状態のまま入院している。幸い命だけは取り留めたが、このままでは死んでいるのと何も変わらなかった。
光の元にあれから壬生は訪れていない。
初めの一ヶ月こそ彼の襲来に怯える日々だったが、今ではもう現れないような気すらしていた。
そのたびに沸き起こる胸の痛みを、錯覚だと何度も自分に言い聞かせている。
壬生のことは忘れなければならない。
この身には六門封神の一つ目が施されているのだし、自分を想い、心配してくれる人達のためにも彼と戦い、考えを改めないようならば排除しなくては。
(俺は、この手で紅葉を)
思っただけで心が引き裂かれそうで、光は意識してその事を考えないようにしていた。
蓬莱寺や美里達と過ごす平凡な学生生活は、彼の内側に空いた空洞を少しずつ埋めていくようだった。
「ひーめっ」
背後から抱きつかれて光は困ったように笑った。
隣にいた蓬莱寺が仰々しく声を上げる。
「アン子!てんめえ、校内セクハラは控えろとあれほど・・・」
その先の言葉が続かなかったのは、彼女の鉄拳制裁が蓬莱寺の顎にクリーンヒットしたからだった。
どおと勢いよく倒れた彼の前でパンパンと手を払って、改めて振り返った遠野がニコリと笑う。
「ね、姫、そろそろいい返事聞かせてよ、新聞部に入りたくなったんじゃないかしら?」
蓬莱寺が始めたあだ名がすっかり周りにも認知されて、この頃光はよく姫と呼ばれていた。
校内にいつの間にか出来上がっていた親衛隊の面々の功績が特に大きいと思われる。転校直後に二週間近く学校を休んだミステリアスな生徒として、教師の間でもよく噂されているようであった。
もっとも、心のファンクラブ会員番号一番を自負する蓬莱寺としては、人気の原因は外見とそれに見合った性格のせいではないかと踏んでいるのだが。
学校に戻ってしばらくの間、無表情でいる事が多かった彼も、最近はよく笑うようになった。
いい変化だと思う。
困り顔の笑顔が多いのは考えものだけれど、それでも過去に捕らわれて塞ぎこんでいるよりは余程いい。
六門封神の術など、早く消えてしまえ。
今すぐにでも壬生を忘れて欲しかった。隣にいつでも自分がいる事を、もっとよく感じて欲しい。
イテテと顎をさすって起き上がると、蓬莱寺は光を見つめて瞳をそっと細くした。
季節は夏。
桜も散り、梅雨も明けて、六月末の陽光は日ごとに暑さを増している。
時間は確実に流れていた。
辛い出来事も、過去も、全てが思い出に変わっていく。これからの日々で光と共にあればいいとだけ思っていた。それだけが今の蓬莱寺の一番強い願いだった。
学校も終わり、帰り仕度をしていると、隣から美里が声をかけてくる。
「ねえ、光」
「うん?」
美里もいつの間にか自分を名前で呼ぶようになっていた。
それだけ親しくなれた証拠なのだろう、普通に振り返ったつもりだったのに、美里は少しだけ頬を赤く染めていた。
「あのね、今日の帰りにアン子ちゃんと一緒にお買い物に行くの」
「うん」
「だから、一緒に行かないかしらって、そう思って」
はにかんだ視線が上目遣いに光を見た。
その様子が可愛らしくて、二つ返事で返したいところを光はぐっとこらえる。
今日はこれから行く所があった。
「ごめん、せっかくだけど用事があるから」
途端、美里がすっかりしょげたような顔をするので、光も申し訳なくて困ったような顔をする。
気付いた彼女が、不意に微笑んだ。
「いいの、それなら仕方ないから」
気を取り直してニコニコと笑っている。
「また今度一緒に行きましょう?」
「ああ、必ず」
光は安心して素直に頷いた。
鞄を持った美里がまた明日といってくれるので、こちらからもまた明日と手を振り返す。
いつも鬱陶しいほどに付きまとってくる蓬莱寺は、今日は剣道部の有能な副部長にしょっ引かれてここにはいなかった。
一人きりになった光は、ぼちぼちと身支度を終えて鞄を掴んだ。
今日はどのみち一人で帰るつもりだったし、丁度都合がいいだろう。
夕方近くなってむっと湿気た空気に、額の汗を拭いながら昇降口へと向かう。
外に出て、時々見かける知っている顔や知らない生徒、教師に声をかけられながら校門を抜ける。
「うん?珍しいな、お前が一人とは」
途中ですれ違った生物教師の犬神が声をかけてきた。
光はペコリと会釈する。
「やかましいのがいなくて、お前ものんびりできるだろう」
「そんなこと無いですよ」
「友人を庇うのは結構だが、あまりバカに引き込まれんよう気をつけろよ」
苦笑する光に、犬神は背中越しに手を振りながら校内に戻っていった。
彼と蓬莱寺はまさしく犬猿の仲だ。犬神は犬が付いているから、蓬莱寺はさしずめ猿といった所か。うまく当てはまるので思わず笑い声が漏れていた。
(京一が聞いたら怒るだろうなあ)
そんな事を考えつつ、電車通学の光は駅と逆の方向に歩いていく。
途中の花屋で一番綺麗な花を買うと、いつも悪いねと店主が数本おまけしてくれた。光は礼を言って花を受け取ると、暑気にやられないようにと多少足をせかす。
着いた場所は桜ヶ丘病院だった。
ここにいる比良坂の病室に、ほとんど毎日見舞いに来ている。
彼女を思って、というよりは、むしろ謝罪の気持ちが強かった。
あの日、あの場所で自分と会わなければ、彼女は今も元気にここで看護師の仕事をしていたはずだ。
いや、彼女に限らず、この数ヶ月の間でくわした異形達も全て根本的には悪くない。
彼らは巻き込まれただけだ。ここでうごめく非情な悪意に
そう思うと辛くて、いても立ってもいられなくなる。
蓬莱寺をはじめ、光の周囲の人々は努めてそのことに触れずにいるようだった。
あの遠野ですら、詳しいことは何も聞こうとしない。
申し訳ないと思いつつ、彼らの優しさが嬉しかった。
そして、そこに甘んじるより他ない自身がひどく情けなく思えた。
俺は、一人きりで戦い抜こうと決心していたはずなのに、気付けばこんなにも周りに迷惑をかけてしまっている。
(何が剣だ)
この手は大切な人一人、守ることも、取り戻すこともできてはいない。
自嘲的な微笑みは誰にも見られることはなかった。
「あれぇ〜?」
ロビーにあらわれた光の姿を見つけて、蠱惑的な雰囲気の女性看護師が駆けてきた。
「ダーリン、今日も来てくれたんだぁ」
名前を高見沢舞子という。比良坂の先輩で、寮では同室だと聞いていた。甘えたような仕草が嫌味にならないのは彼女の人柄のおかげだ。心優しく職務に熱心な看護師で、毎日のように見舞いに来る光になにかと親身になって接してくれていた。
軽く会釈すると、いきなり腕に抱きついて、しげしげと顔を見上げてから嬉しそうにエヘヘと笑う。
「今日もカッコイイ!ハナマルあげちゃうんだから」
光は照れて少し笑った。
「高見沢さん、今日は比良坂はどうしてますか?」
「うん、顔色はいいよ」
相変わらず眠ったままの彼女の様子を、この看護師は些細な変化も見逃さずに逐一報告してくれる。
「ダーリンが来てくれたから、紗代ちゃんすっごく喜ぶと思う」
「そうかな」
「舞子が言うんだから、絶対絶対間違いないって!」
「そうだと嬉しいんだけど」
「そうだよ!ねー?」
つられて首を傾げて、思わず赤くなった光に高見沢は声に出して笑う。
直後に通りがかりの他の看護師に叱られて、ちぇっと小さく舌を出した。
「怒られちゃった、ねえねえダーリン、早く紗代ちゃんのとこに行こう?」
腕をぐいぐいと引っ張られて、光は連れられるままに歩き出す。角を曲がり、階段を登って、二階の一番端の個室が比良坂の病室だった。
院長の温情で、入院にかかる費用はほとんど免除されている。それでも必要な分は光が払っていた。実家が資産家のおかげで、自分名義の口座にはそれくらいの余裕がある。
入り口で高見沢と別れて、中に入った光はベッドの側に近づいていった。
そこで、酸素吸入器で下半分隠された比良坂の顔を覗きこんだ。
「比良坂・・・」
まるで、眠っているように見える。