鞄を置き、前に生けた花が入ったままの花瓶を持って、光は一度部屋を出た。

幾らか行った先にある給湯室で水を捨てて、新たに持ってきた分の花を備え付けの花バサミで水切りにする。もとの花も水切りにしてから、新しく水を注いだ花瓶の中に生花が長持ちする薬品の袋を破いて入れた。新旧両方の花を生け直して、見た目を綺麗に整えてから花瓶に付いた水気を拭き取る。

病室に戻ると、高見沢が来ていた。

「ダーリン、お花換えてきたの?」

「いや、足しただけだよ、水だけ替えた」

「そっかあ」

元の場所に花瓶を戻して、再び比良坂の側に戻る。

備え付けの簡易椅子に腰掛けると、高見沢が隣に立った。

「うふふ、紗代ちゃん喜んでるみたいだよ」

ニコニコ微笑むので本当にそんな気がしてくる。現実には比良坂の容態になんら変化の兆候すら見られないのだが。

光は高見沢を見上げた。

「高見沢さんにはわかるんですか?」

悪意のない笑顔がうんと頷いた。

「わかるよお、今紗代ちゃんはお話も何にもできないけれど、ちゃーんとダーリンが毎日来てること知ってるもん、ねー」

比良坂に向かって首を傾げるので、光も眠ったままの彼女を見つめた。

本当に、よくできた人形みたいだ。

こうなる直前の姿が今でもはっきりと思い出せて、そのたびに胸の奥が締め付けられるように痛んだ。

比良坂は命を賭して自分を守ってくれた。こんな迷ってばかりの、情けない自分を。

同じ事を二度と繰り返さないためにも、今度こそ決断しなくてはならない。

過去を断ち切る決断を。

紅葉を・・・彼が言うのと同じように、倒す決断を。

(俺は)

握り締めた爪の先が掌に食い込んでキリキリと痛む。

けれどそんな痛みはどうでも良かった。もっと傷ついて、本当に痛い部分を忘れてしまいたかった。

こんな状況で、それでもまだ俺は迷っている。

天秤の片方は明らかに比重が違っているというのに、等価の思いに苦しめられる。

どうすれば一番よかったのだろう。何が、正しい選択なのか。

食い入るように比良坂を見つめていると、隣にいた高見沢がぽつりと呟いた。

「ダーリン、悲しいの?」

「え?」

振り返った彼女の眼に涙が浮かんでいて、光はぎょっとした。

「どうして泣いてるんだ、何で」

「だって、ダーリンが泣かないから」

高見沢はしゃくりあげながら答える。

「舞子、ダーリンが我慢してるの知ってるよ?どうしてなのかはわからないけど、ダーリンはいっつも悲しそう、そんなの見たら舞子も悲しくなっちゃう」

返す言葉も無かった。

誰が、いつ、堪えていると言った?

おかしな心配をかけないように十分気をつけていたつもりだったのに、気付かれていたのだろうか?

「俺がしてたことは、無意味だったのか?」

知らず口に出していて、高見沢が目元の涙を拭いながら首を振る。

「違うよ、皆は知らないよ、舞子と紗代ちゃんだけ知ってるの、だから悲しいの」

「比良坂が?」

「うん、そう」

鼻をすする彼女の瞳にまた新たな涙が溢れてくる。

光はポケットから洗いたての清潔なハンカチを取り出すと、それで涙をぬぐってやった。

「ありがと」

受け取ったハンカチでぐずぐずと涙を拭いて、ついでに鼻までかんでいる。

光は困り顔で微笑んだ。

「あ、ごめんね、鼻かんじゃった」

「いいよ、それはあげるから」

「いいの?」

頷くと、やっと高見沢は笑顔をみせた。

「ありがとダーリン、優しくって、やっぱり好き」

「俺も好きだよ」

エヘヘと笑って、あ、でもだめだよと慌てて付け足してくる。

「舞子も好きだけど、紗代ちゃんもダーリンが好きなんだよ、だからダーリンも紗代ちゃんが好きって言わなきゃダメ」

「そうなのか?」

「ダーリン、紗代ちゃんのこと好きじゃないの?」

光は笑って首を振った。

「好きだよ、比良坂も、高見沢さんも、皆大好きだ」

「舞子も!みんなみんな、だい、だい、大好きー!」

無邪気な様子に光は思わず声を出して笑っていた。

高見沢はいつもそうだ。ここで光が暗い顔をしていると、なんだかんだといって元気付けてくれる。

この数ヶ月の間に光の笑顔が徐々に増えていったのも、彼女の力によるところが大きかった。

もう何度述べたかわからない礼の言葉を、光は改めて心の中で繰り返す。

「あ、いっけない」

「何?」

高見沢は慌てて口元を押さえた。

「病室で大きな声出したら、紗代ちゃんビックリしちゃう」

「ああ、そうか」

失念していたとすまなく思い、振り返った彼女の顔が少し微笑んで見えたのは希望込みの目の錯覚だろうか。

「紗代ちゃんに笑われちゃったね」

高見沢がまた笑うので、光も僅かに笑んでいた。

比良坂は・・・多分笑ってくれているのだろう。

見間違いでなく信じたかった。そうであって欲しかった。

鞄を手に取ると、高見沢が残念そうに口を尖らせる。

「ダーリンもう帰っちゃうの?」

「うん」

光は頷いた。

「比良坂の様子も見たし、明日も学校があるから」

「舞子つまんなーい」

「またすぐ来るよ」

比良坂をもう一度振り返る。

「それじゃあ比良坂、またね」

病室を出ると、高見沢が後からついてきた。

「ダーリンの事、紗代ちゃんの代わりにお見送りしてあげるっ」

ありがとうと答えると、彼女は嬉しそうだった。

出入り口まで見送られて、そこからは姿が見えなくなるまで高見沢は手を振り続けていた。

光も何度も振り返り、手を振っては歩いていく。

桜ヶ丘から離れて、人の少ない路地を選ぶようにして駅へと歩いていった。

 

(続きへ)