ふと、顔を上げる。

暮れなずむ空はオレンジから藍のグラデーションかかった中にポツリと月の姿が見える。

闇にいくつか気の早い星の姿が見えて、光はぼんやり眺めていた。

このまま時が過ぎて、明日になって、明後日になって。

それはいつやってくるのだろうか。

壬生は、また現れてくれるのか。

(俺は何を)

光は慌てて首を振った。

何を考えている、もう決めたはずなのに。

きしむ心に何度も偽りだと繰り返して、そんな考えは捨てろと自分をなじった。

目をギュッと閉じて、呼吸を整えてから、もう一度瞼を開ける。

「俺はもう、迷わないって決めたんだ」

呟く声もどこか戸惑うようだった。

思い余って深く息を吐き出すと、背後で何か聞こえてくる。

足音?

直後に知った気配を感じて、全身があわ立った。

コツ、コツ、コツ

アスファルトを踏む革靴の音はもうすぐ側まで近づいている。

ぬるい風はいつの間にか凪いでいた。

辺りの闇が深くなる。光は凍りついたように動けない。

心臓が、壊れそうなほど鳴っている。

これは恐怖・・・・・・それとも、期待、か?

(違う!)

振り返る勇気すらなくて、立ち尽くしていると後ろ二メートルほどの位置で音は止まった。

フッと笑い声が夕暮れに溶けた。

「久し振り」

耳馴染んだ声で魔法が解けて、勢いよく振り返ると電燈の光に外れるようにして影が立っている。

壬生だった。

まだ僅かに陽は残っているというのに、彼の姿は黒く染まって見えた。

怜悧な笑顔に射すくめられて、喉がごくりと音を立てる。

「元気そうで何よりだ、真神での生活はどう?楽しんでいるかい?」

「紅葉・・・」

壬生は嬉しそうに微笑んだ。

「どうして・・・何を、しに、来た」

「君に会いに来たんだ」

ひょいと肩をすくめて見せる。

底冷えするような、ふざけた仕草だった。

「寂しかっただろう?ふた月以上僕に会えなくて」

途端、息が詰まりかける。壬生の言葉は的を射ていた。

震える体を必死で押さえて、光はぐっと拳を握り締める。

「俺は、お前を倒す」

へえ、と呟いて壬生が口の端を吊り上げた。

「倒すって、殺すって意味かな?」

胸の奥がズキリと疼いた。

攻撃の構えを取って、乱れる呼吸をゆっくり何度も吐き出す。

そうしなければくじけてしまいそうだった。心のどこかが、嫌だ、嫌だと悲鳴をあげている。

「お前が」

「なんだい」

「お前が考え直してくれないようなら、俺は、お前を・・・殺す」

背筋に走る戦慄を、光は確かに感じていた。

辛くて、より強く握り締めた手の内で、刺さった爪の隙間から血が滲み出す感触がする。

壬生は笑っていた。

「考え直すも何も、僕の願いは初めから一つきりだ」

攻撃の構えを取る。

「それじゃあ、始めようか」

夕凪の中に風が吹いてきた。それは、生ぬるく鉄錆の匂いがした。

同時に地面を蹴った二人の、繰り出した拳と蹴り技が衝撃を相殺する。

ばねにして後ろに飛んだ光を追うようにして壬生の足が鋭く蹴りあがり、それを寸での所で防御して腹部にめがけて拳を突き出す。壬生は、開いていた腕で攻撃を防ぎ、光の腕を使用してもう一方の足の側面で彼の脇腹を思い切り蹴りつけた。

小さく呻いた光の体が横に吹き飛ぶ。

全身で大きく円を描くようにして着地した壬生は、そのまま膝を突き出して宙を飛んだ。

「くっ」

すぐ体制を整えて、光はその場から飛びのいた。

背後で舌打ちした彼が着地するのを見計らって、取って返した拳を突き出す。

防御の切れていた壬生の背中を殴り飛ばした。

「グアッ」

前のめりに倒れた彼に連撃を入れていく。三発目で壬生の手が防いで、光の腹部を鋭い足先が薙いだ。

「水月蹴!」

ギリギリ鳩尾をそれたつま先が、避けた喉元を鋭い風圧で縦に切った。赤色が光の白い学校指定のシャツに散る。

間合いを取って離れると、ぬるついた喉元に目を留めて壬生が薄く笑った。

「綺麗な血の色だ」

光は手でそこを拭い、付着した血液を払って捨てた。

不意に構えを解いて、腕組みした壬生は軽く顎をしゃくる。

「光、僕を倒すとか言っていたくせに、どうして本気を出さないんだ?」

ビクリと震えた彼を見て、余裕の笑みが更に深くなったようだった。

確かに、光は全力を出し切っていなかった。

出せないといったほうが正しいのかもしれない。

本気で戦う決意をもって対峙しているはずなのに、いつものように体が動かない。

速度が落ちる。

攻撃がよどむ。

そのわけに、光は気づいていた。

辺りの闇がいつの間にか深くなっていくようだった。

そこに半分溶け込みながら、壬生がクスリと微笑する。

組んでいた両腕を解いて、おもむろに目の前でゆっくりと広げて見せた。

「光」

光の全身がビクリと跳ねる。

急に優しく微笑まれて、昔の面影が重なって見えた。

あの頃いつでも隣にいてくれた懐かしい温もり。あの眼差し。

「おいで」

金茶の瞳が潤んで揺れる。

まただ。

また、あの目から視線が逸らせない。

この数ヶ月苦しみぬいて決意したはずなのに、少し逢っただけで全てが無様に瓦解してしまう。

情けなくて、ひどく悔しいと思った。

それでも抗えない自分が心底悲しい。

まだ、こんなにも彼を想いつづけている。

「光」

呼ばれて、震える足で一歩踏み出すと、その先はもうとまらなかった。

戦う意志はどこにもなかった。

フラフラと近づき、正面に立った光の体を壬生の腕が抱きしめる。

強く、きつく抱かれながら、耳元で甘い声が囁いた。

「六つ星の、二つ目を封ずる、これは血の盟約にして、解くこと叶わず」

光の瞳から涙が零れ落ちる。

これで、二つ目。

重なり合った唇の奥から引き出された舌を強く噛まれて、こぼれだした血を壬生の喉が飲み干す。

逆に、付きこまれた舌先から流れ込む鉄錆の味を、光はごくりと飲み込んだ。

激しい口付けに、ようやく離れた互いの唇が赤くぬめっている。

その部分が艶かしく目を引いて、壬生は血に染まった舌でぺろりと舐め取った。

光はくたくたと座り込んでしまった。

「君は僕から逃げられないよ」

冷酷な声。けれど、その奥で燃え盛る激情を知っている。

「そう遠くないうちにまた逢いに来る、だからそれまでいい子で待っておいで」

髪に触れる手の暖かさが懐かしかった。

涙がとめどなくこぼれて落ちた。

闇に、来た時と同じようにして、踵を返した壬生の足音が遠ざかっていく。

光はいつまでもそこから動けずにいた。

 

(続きへ)