「あっ」
途中で変な声を出されて、光はふと足を止める。
もう如月骨董品店は目と鼻の先、という距離だった。
見ると蓬莱寺が制服の上着やらズボンの中やらを探っている。
「どうし」
た、と言う前に蓬莱寺は顔を上げて焦った様子で呟いた。
「財布、忘れた」
「えっ」
驚いて目を丸くすると、かなり焦った様子であちこち探ってからやっぱり無いと呟いている。
「さっきの雑貨屋かもしんねえ」
あたふたと光を見て、それから先の道を見て、何か考えてから小さく呟く。
「如月の店も近いし、いいか」
それがなにを意味しているのか、光には一瞬わからなかった。
すぐに壬生の襲撃を気にしているのだと思い当たって顔をしかめると、そんなことには気付いていない様子で口早にまくし立てられる。
「俺、財布捜してくるから、お前はこのまま真っ直ぐ如月の店に行けよ、すぐ戻るから、なるべく急いで」
「いいから、行けよ」
苦笑すると如月の店で待っていてくれと念を押されて、蓬莱寺は夜の闇に駆けていった。
「そそっかしい奴だな」
小さくなる後姿に呟く。
心配のしすぎ、と彼を責める事はできない。この間一人で行動したがために壬生に襲われたのだし、そのせいで周囲がますますピリピリしているのも事実だった。
だから毎日蓬莱寺は自分にべったりくっついて回っているんだろう。
そう思うと申し訳ないような気もしてくる。
生ぬるい夜風に吹かれて、見上げた空は群青から黒に染まりつつあった。
このまま、待っていたい気もするけれど。
「・・・行こう」
誰を待つつもりなのかわからなかった。蓬莱寺か、それとも、壬生か。
どちらにせよ約束してしまったのだし、光はおとなしく骨董品店に向かって歩き出した。
「俺ってバカ」
人気のない道を駆け抜けながら、蓬莱寺は情けない声で自嘲的にハハハと笑ってみせる。
財布を忘れたなんてバレバレの嘘をついて、一体なにを考えているのか。
「そんなこと、決まってるか」
いつだってそうだ。俺なんか、光のことくらいしか考えてない。
それと、剣のこと。
肌身離さず持ち歩いている木刀はもちろん伊達や酔狂で帯刀しているわけじゃない。
これでもちょっと自信がある。剣道部の副部長はよく文句を言っているけれど、それは練習しろとかそういった類のものじゃあない。
あちこち視線を走らせて、走りながら蓬莱寺は探していた。
さっきチラッと見かけた、拳武館高校の制服。多分見間違いではないだろう。あれは奴ではなかったけれど、明らかにこちらの様子を伺っているようだった。
(光は勘がいいからなあ、気をつけたけど、バレてやしねえかどうか)
散々走った所で、ふと足を止めて振り返ると人影はなかった。気配もない。どうやらおとなしく如月の所へ行ってくれたらしい。
突然鼓動がドクンと跳ねた。
目の前の住宅地の路地の先の闇から、だんだんと近づいてくる足音が一つ。
アスファルトの上を、硬い革靴の底をコツコツと鳴らして、歩幅の大きいゆったりとした歩き方だった。
蓬莱寺は深紫の刀袋の紐に指をかけて、シュルリと引き抜きながら視線をぴたりと定めて待つ。
暗がりを抜けて、すらりとした長身が現れて、知っていたそぶりで足を止めた。
「やあ」
気安い言葉とは裏腹に、気配はまるで研ぎ澄まされた氷のようだ。
「確か、光と一緒だと報告を受けた気がしたけれど」
「そりゃ残念だったな、姫はここにはいない」
姫、と復唱して、壬生はクスリと笑う。癇に障るいやな笑い方だった。
「では君は、ナイトのつもりかな?」
「うるせえ!」
怒鳴って放り投げた深紫の刀袋が宙を舞う。
抜き放った木刀を正眼に構えて、蓬莱寺は壬生を睨みつけた。
「てめえに姫はやらせねえ・・・今日こそ年貢の納め時だぜ、壬生紅葉!」
腹の底からふつふつと沸き起こってくるような感情。これは、怒りだろうか。
目の前の涼しげな男は意に介さない様子でこちらを眺め、フンと小さく鼻を鳴らした。
「光の妹になにを吹き込まれたか知らないが、お前ごときに御剣の護人は務まらない」
「やってみねえとわかんねえだろ」
「そうか」
感情を感じさせない、淡々とした喋り方だった。
この男の声が、姿が、眼差しが、光を迷わせる。あいつの心を捉えたまま、今だに手放そうとしない。
(冗談じゃねえ)
蓬莱寺は胸の中で吐き捨てていた。
そんなことは冗談じゃない。自分を殺すといってはばからない人間に、愛情を感じてどうする。
それは全部まがい物の幻だ。光は、過去の幻影に捕らわれているだけだ。
(今、ここでこいつをしとめて、あいつの目を覚ましてやる)
過去になにがあったかなんて知らない。
けれど、今、光の隣にいるのはまぎれもなくこの俺だ。
そう思った途端、まるで花開くように自覚していた。
長く戸惑っていた、そして、おそらくうすうす感づいていた自身の想いに。
光を先に行かせたのだって、守るためとか言っておいて、本当はきっとそうじゃない。
無意識のうちに壬生から引き離そうとしてやったのだろう。
苦しいだけだとわかっていても、止められない。この思いを消し去る事なんて出来ない。
(俺は・・・)
光が、好きだ。
友達とか、そういう意味じゃない、多分目の前のこの男と同じくらい、いや、それ以上にあいつに心引かれている。光を愛している。
「お前に光は渡さねえ・・・」
唸ると、壬生が片方の眉をひょいと上げた。
「随分息巻いているんだな」
「当たり前だ」
そうか、と呟いて、何か勘ぐるような視線を蓬莱寺に満遍なくめぐらせた後でフッと笑う。
「君では、無理だ」
途端、脳裏で何かが爆発するような感覚を覚えた。
気付けば切先を壬生に向けたまま、一息に間合いを詰めて突進をかましていた。
「くらえええっ」
壬生の目が、先ほどまでの冷たい様子から一瞬で燃え盛る炎のように強い光をギラリと放つ。
「無駄だ」
交差するように蹴りあがってきた足を除けて、斜めになった体の下段から袈裟切りに切り上げると、振り下ろした足を軸にして除けながら、壬生の手が蓬莱寺の腕を捕らえる。
そのまま引き倒されそうになるのを力ずくで振り払って、刃先を突き降ろすと拳武館高校指定の学生服の胸の辺りが僅かに裂けて飛んだ。
間合いを取って飛びのいた壬生は、何事もなかったようにすっくと立ちながら唇に薄い笑いを載せる。
「剣気か、なるほど」
蓬莱寺は油断なく木刀を構えなおしながら、こちらも笑い捨てて睨む。
「ちっとはやる気になったか、殺し屋」
壬生の表情が僅かに歪んだ。
その瞬間、頬にポツリと何かが触れた。
濡れた感触は続いてぽつぽつと、黒いコンクリートに染みを作って、やがてサアッと雨が降り出す。
霞むヴェールの向こう、壬生があざ笑うような冷たい響きの声を吐く。
「そうか」
どこか含みのある、凍りついた表情だった。
これが壬生の本性、拳武で生きるものの裏の顔なのだと、剣を握る手にギリリと力がこもる。
「それもあの女に聞いたな」
あの女のところだけ、憎しみが更に色濃い。
そして蓬莱寺は理解した。壬生は今も朋恵を憎んでいる。
光と引き離しただけでなく、想い人の心に鍵をかけた張本人を。
「僕と光のこと、色々教えてもらったかい?」
「うるせえ!」
噛み付くような蓬莱寺の声に、壬生の嘲笑が混じる。
途端、腹の底から怒りにも似た嫉妬のどす黒い炎が沸き起こる。
こんな事が自分に起こりうるのかと、動揺しているヒマすらなかった。
「光は、本当に可愛らしい声で鳴く」
「何だと・・・」
「よく、腰を振ってねだられたものだよ」
蓬莱寺は後頭部を何か硬いもので思い切り殴られたような気分だった。
光の過去はわかったつもりでいた。けれど、今も彼がその想いに捕らわれていると思うと、怒りで全身がブルブルと震えだす。
この男は、こんな最低の野郎が、光を抱いた。
光の心と体を奪った。
それはもはや納得して消せるような事実ではない。
壬生につながる何もかもを、光の中からなくしてしまいたかった。
六門封神なんて、そんなふざけた真似、絶対に許さない。
「黙れ!」
そう、叫ぶのが精一杯だった。
「光は」
「黙れ!」
「僕に言ってくれた、愛していると」
「うるせえ!だからどうしたこの変態、姫は俺が」
「燃えるように熱い声で、潤んだ瞳で、何度も繰り返して、この腕の中で悶えながら言ってくれた」
「うるせえっつてんだろうが!黙りやがれ!てめえが姫の事を言うんじゃねえ!ふざけんな!」
怒りに任せて走り出すと、足元でしぶきが跳ねる。
斬りつける切先をひらりとかわして、壬生は笑っていた。
「彼の心は今も僕を求めている」
「そんなこと、ねえ!」
「僕にはわかる」
「黙れ!」
怒りや嫉妬や、色々な感情がごちゃ混ぜになって胸の中に暴風雨が吹き荒れている。
苦しみを吐き出す代わりに殺気を乗せた剣を振りかざす蓬莱寺を冷ややかに眺めて、壬生はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「君では、僕には、勝てない」
死闘う二人を包み込んで、雨脚はだんだんその激しさを増していった。