「京一遅いなあ」
店内から奥へ上がる一段高い通路の床板の縁に腰を下ろして、光は如月の出してくれた麦茶を飲んでいた。
所用は彼が来てからと、邪魔になるのを承知で待たせてもらっている。
「財布をなくしたのなら、警察に届けを出しに行っているのかもしれないよ」
穏やかに言われて、しかし蓬莱寺が警察に届けている様子を想像するとなんだかこっけいで、クスリと笑ったら如月は気付いたようだった。
「まあ、彼の事だ、むきになって捜し歩いているのかもしれない」
「そうかもな、全財産が入ってたりしたら、それこそ大変だろうし」
どこかのん気な物言いになるのは、育ちから来る性分で光に金銭感覚が足りないせいだ。
如月はわからないほど微かに苦笑する。
「光」
「うん?」
勘定帳をチェックする手を止めて、番台から立ち上がった如月は光の側に腰を下ろす。
「聞きたい事があるんだが」
「何」
「黄龍甲は、君を呼ぶのか?」
率直な物言いに、光の肩がビクリと震えた。
「やはり、そうなのか」
なんともいえない表情で黙り込んだ彼を見つめながら、如月は祖父に聞いた御剣の話をぽつぽつと思い出していた。
混沌を切り裂くため、金色の龍が媛巫女の呼ぶ声に応えて使わした一振りの剣。
その本性は人だが、剣は人ではない。
金色の輝きは万人全てのものであり、乱れた世を嘆く者たちに力を与える。
黄龍甲は剣の力を最大限に引き出す秘宝だと伝えられていた。
それは剣にしか扱えず、剣もまた黄龍甲無しでは本来の力を出し切れない。
江戸時代末期に如月家に預けられたというそれを、御剣の剣たる彼が望むという事は、この地は乱れている何よりの証拠だ。今は目に見えなくても、剣の守姫が星視を違えるはずがない。
(東京の地脈が、乱されているということか・・・)
けれど、それは誰に?
少なくとも光の命を狙っている壬生紅葉が主犯でないような気が、如月にはしていた。
原因はもっと奥のほうにある。
彼の後ろにいる、暗くて強大な存在。それは一体なんなのか。
思考に耽っていると、不意に強い力で腕を掴まれた。
「光?」
驚いて振り返ると、光は蒼い顔をして体を小さく固まらせている。
「どうしたんだ、気分でも」
「紅葉が、いる」
途端、ビクリとした如月は思わず周囲を見回していた。
他に客もいない店内は、いつのまにか降り出した雨の音が微かに聞こえるだけで、静寂の中にたくさんの骨董品が陳列されているだけだ。
如月は光の顔を覗きこんだ。
「近いのか?」
フルフルと首が左右に振られる。
「そうでもない、でも、気配がする」
「気配?」
「そうだ、間違いない・・・気が昂ぶってる、戦っていると」
そこまでいいかけて、光は突然ガタンと立ち上がった。
恐れた様子でポツリと呟く。
「京一?」
如月は眉間を寄せた。
「なんだって?」
「京一と・・・戦ってる」
「なっ」
それはあまりにも無謀すぎる。御剣の内情に幾らか詳しい如月は、とっさにそう思った。
蓬莱寺の実力は詳しく知らないが、壬生は御剣の守人となるべくして育てられた男だ。
一人でも戦えるだけの力を与えられて生まれてきた金色の剣の、影を守るもう一振りの剣。陰の龍。
そんなもの相手に一対一の戦いを挑むだなんて、自殺行為以外の何ものでもない。
今は任を解かれた身とはいえ、光の技と対になる彼の技が強力なものであることに疑念を挟む余地などなかった。
「どうして気付かなかったんだ、こんなに気が乱れてるのに・・・」
震えた手で顔面を押さえている光を見つめているうちに、如月ははっと息を呑んだ。
(まさか、六門封神か?)
黄龍の御剣たる彼が、死闘の気配を読めないわけがない。
壬生に施された六門封神の二門目は、確実に光の力を奪い、弱体化させている。
(なんてことだ・・・)
思っていた以上に状況は深刻だった。
そのまま店を飛び出していく光に続いて、如月も後を追いかける。
どうやら方角の見当はついているらしく、二人は雨の中を猛烈な勢いで走り続けた。
そして、住宅の角を曲がった瞬間、かすむ景色の向こうで二つの影がぶつかり合っていた。
足を止めた光が、如月の隣で小さな声を洩らす。
「紅葉・・・」
自分より少し高い彼の瞳を覗くと、そこには不安がありありと現れていた。
多分、この間の事を思い出しているに違いない。そう思うと胸の奥がキリキリと痛む。
剣に惹かれかけている自身に気付いてはいるけれど、それだけが原因では無いことも知っていた。
背負っている重みの少しでも、他人に振り分けられるほど要領がよければよかったのに。
光の心中を察していると、眼前の戦いは更に激しさを増していくようだった。
壬生の繰り出した蹴りが蓬莱寺の腹を薙ぎ、切り返す蓬莱寺の剣先が壬生の胸倉を狙う。
何度かぶつかり合って、攻撃を出した直後に踏み込んだ蓬莱寺の足先が僅かに滑った。
「あっ」
その隙を逃さず、壬生の踵が彼の脳天めがけて降ってくる。
「京一!」
隣で叫び声を聞いたときにはもう遅くて、駆け出した光が間一髪、直撃すれすれに差し出した腕で踵を止めていた。
「光」
壬生が驚いたように呟いた。
突然現れた後姿に、蓬莱寺も唖然として光を見つめている。
「姫、なんで・・・」
「話は後だ」
きっぱり言い捨てた直後、壬生が後ろにふわりと飛んで間合いを取った場所に着地する。
「その様子じゃ、ちゃんと元気になったらしいね」
嬉しそうに微笑まれると、まだ心がぐらついた。
「紅葉・・・」
光の背後で蓬莱寺も立ち上がる。その横に駆けつけた如月が立った。
「これはこれは、お揃いで、姫の警備隊気取りかい」
嘲られて飛び出そうとする蓬莱寺を腕で御して、光はそのまま強ばった眼差しをじっと壬生に向ける。
「こんな所で、なにをしているんだ」
「そんなこと決まってる、君に会いに来たんだよ、光」
うっ、と呻き声が聞こえて、慌てて振り返ると倒れかけた蓬莱寺を如月が支えていた。
「京一?」
蓬莱寺は光を見ると、少し情けないような表情でへへへと笑い声を洩らした。
「姫がどうしてあいつに勝てないのか、ちょっとだけわかったぜ・・・あいつ、本気で強いな」
「当然だ」
如月がきっぱりと言い捨てる。
「彼は御剣の、光の守人だった男だぞ、君の実力はよく知らないが、たった一人で勝負を挑むなんて無謀もいいところだ」
「・・・だからだよ」
「何?」
蓬莱寺は悔しそう瞳を眇め、俯いた。
「守人だかなんだか知らないが、今姫を守ってんのは俺だ」
「京一」
「姫の事、これ以上好き勝手になんてさせねえ・・・絶対に、そんなこと許さねえ」
光は思わず視線を背けていた。
濡れた髪の下から燃えるような目で光を見つめる蓬莱寺に気付いて、如月は僅かに表情を曇らせる。
「光」
壬生が呼んだ。
光は怯えた様子で振り返る。
「こちらへ、おいで」
雨の向こうで広げられた両腕は、まるでいつかの景色の焼き増しのようだった。
その途端、胸にこみ上げてくる感情を必死に押しとどめて、光は喘ぐように答える。
「ダメ、だよ」
「どうして」
「ダメなんだ、京一が俺を守ってくれたのに、俺はお前の所に行っちゃいけない」
「姫」
僅かに興奮を帯びたその声に、如月は蓬莱寺をじっと見つめていた。
(蓬莱寺君、君は・・・)
気付いてしまったのかと、今更のような言葉が浮かんで消えた。
「俺は、お前の所に行けない・・・」
光は手足に力を込めて、必死の思いで言葉を紡ぐ。
その途端、壬生の表情から余裕の色が消えていた。
困惑気に顔をしかめて、何か言いたげな目でこちらをじっと見つめている。
「光、おいで」
繰り返される呼び声に、光は首を左右に振った。
「ダメだ」
「光」
「ダメだよ紅葉、俺は、お前の所に行けない・・・京一を裏切る事なんて、出来ない」
光は今、ほかならぬ自分自身と死闘を繰り広げていた。
いまだ心惹かれて止まない彼の元へ駆けつけたい自分と、これまでの経緯で蓬莱寺に絶大な信頼を置いている自分と。
「光・・・」
どこか寂しげなその声に、光ははっと壬生を見つめる。
一瞬だけ彼が、離れたくないと囁いてくれた昔の姿と重なって見えた。
「・・・ならば、仕方がない」
フッと冷たく微笑んで、その表情はすぐに元の冷血な色を浮かべた。
壬生はくるりと後ろを向くと、雨の向こう側から背中越しに淡々と話す。
「君をあまり濡れされるのもよくないだろう、今日は引き上げるよ」
壬生の言葉には明らかに揶揄が含まれていた。本気で光が風邪をひくなどと、心配しているそぶりでは無い。
「でも、またすぐに会いに来る」
息を呑む光を、壬生はちらりと振り返った。
これだけ暗くて雨まで降っているというのに、彼の深い色の瞳は光の金茶の瞳を易々と捉え、決して離すことはない。
「それまで、僕の事を忘れないように・・・」
光は今にも泣いてしまいそうだった。
全身が震えているのは寒さのせいだけでは無い。そのことに気付いたように、壬生の唇が光にしかわからない程度に微笑んで、急に飛び上がった姿は闇に飲まれて一瞬のうちに消えていた。
「姫・・・」
背後で蓬莱寺に呼ばれても、光は振り返る事が出来なかった。
「姫・・・姫・・・」
支えている如月の腕を振り払って、蓬莱寺は突然後ろから光を抱きしめる。
光はビクリと震えた後で、驚いたように蓬莱寺を振り返った。
「京一?何・・・」
「俺が、いるから」
声には覇気がなく、彼はほとんど意識を失いかけているらしい。
「俺が守るから・・・だから」
「京一」
「だから、あんな奴の事なんか、もう」
それ以上は続かない。
急に重みが増して、脇から慌てて如月が蓬莱寺を支えた。
蓬莱寺は遂に気絶したようだった。
光は身じろぎする事も出来ず、胸の前でしっかり握ったままの蓬莱寺の手にそっと掌を重ねる。
「京一・・・」
ごめん、と言う言葉は、雨にまぎれて誰にも聞こえることはなかった。
闇の中で、止まない雨がいつまでもいつまでも、あたり一面に降り注いでいた。