保健室に行くと、案の定女医はあっさりと彼の滞在を許してくれた。
「御剣君みたいに可愛い子なら、ずーっとここにいてもいいのよ?」
冗談めかして言われて、困ったように光は笑う。
しばらく談笑していると、保険医は用事を思い出して出て行ってしまった。
光はソファに腰掛けたまま、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
あれからもう何日も過ぎたはずなのに、雨の中で見た壬生の姿が今でもはっきりと思い出せる。
あの時、彼の誘いを断った時、一瞬だけ見せたあの表情。
傷ついたような眼差しを思い出すたび、胸の奥がズキリと痛んだ。
彼を想う心は今も全く変わらない。
これだけひどい目にあって、何度も殺されかけているというのに、光は壬生を憎む事も嫌う事もできずにいた。
それどころか離れている時間が想いをどんどん募らせていく。
壬生を愛していると、今でもはっきり口に出していえる。
(でも)
そっと閉じた瞼の裏に、蓬莱寺の気さくな笑顔が浮かび上がってくる。
(京一・・・)
彼の好意を知っていてなお、壬生を忘れられない自分は酷い。
蓬莱寺が寄せてくれる好意に甘んじて、彼を利用している。
いっそ何度もういいと言おうと思ったことか。
けれどそんな事をすればますます傷つけるのでは無いかと不安で、結局いつも何もいえなかった。
深い思いを掛け値なしで伝えてくれる、その姿がただ痛ましかった。
「俺、なにしてるんだろうなあ・・・」
そもそも千葉の屋敷からこちらへ出てきた本来の目的すら果たしていないというのに、古い思い出にしがみついて、そのせいで何人もの人を傷つけて、光自身も幾度となく傷つけられて。それなのに。
どうしても、忘れることができない。
壬生紅葉は色のない光の世界に初めて彩を与えてくれた人だったから。
それは今も確かに、この胸に深く残っているから。
今また壬生が現れて、冷たい声で愛しているといわれるたびに、絶望と激情が一緒くたになって押し寄せてきた。
波は光を成す術もなく翻弄していく。
どんなに辛くて苦しくても、彼の差し出す手を拒む事が出来ない。
身の内に潜む龍が破滅を叫んだような気がした。
窓から覗く青空の向こう、夏特有の入道雲を眺めていると、感傷的な気分がこみ上げてくるようだった。
(うん?)
ふいに足音がした。
上履きの女医とは違う、硬質な靴底が床のタイルを踏んで近づいてくる。
校内は原則として上履きが義務付けられているので、靴で歩いているのだとしたら多分来賓口以外から入ってきた場所柄をわきまえない外来客か素行の悪い生徒のどちらかだろう。
歩き方から察するに、前者の確率が高いと思った。
保健室と職員室はそう遠くない場所にあるので、もしかしたら校舎内で迷っているのかもしれない。
何気なく耳を澄ましていると、どうやら保健室に入ってくるつもりのようだった。
嵌め込み型のすりガラスごしに人影が見える。
ノブに触れて、桟が擦れる音と共にかすかに漂ってきた気配に突然全身があわ立った。
「ッつ?!」
光ははじかれたように立ち上がると、戸口に向かって身構えた。
それとほとんど同時に、するりと入ってきた人物が後ろ手に扉を閉めて手早く鍵をかける。
まるで全て計算づくだったような、滑らかな動作。
姿を確認した光は息を呑む。
「やあ」
優しげな笑顔に、胸が張り裂けそうだった。
グレーのサマースーツを着込んで、壬生はまるで教員のようないでたちでそこに立っていた。
華奢な銀フレームの伊達眼鏡の向こう側から、心を乱す眼差しがじっと見詰めている。
「な・・・んで・・・」
「似合うかい?変装はほとんどした事がないから、少し心配なんだ」
「ち、が・・・」
聞いたのはそんなことではない。
分かっているはずなのに、壬生は不審な微笑を浮かべるばかりだった。
「今日は、少し大変だったよ」
一歩踏み出されて、一歩あとずさる。
「君の妹さんは、こんな所にまで結界を張っているんだね、相変わらず凄い霊力だ」
光はジリジリと背後に追い詰められていった。
「元々ここはアレがある場所だけど、それにしたってこれだけ広範囲の結界はなかなか施せるものじゃない、君の気にも近いし、隠れられたら厄介な場所だね」
「なんで・・・」
「前に言わなかったかな」
とんっと膝裏に何かあたって、光はベッドに腰を落としていた。
怯えた視線で見上げていると、壬生は覆いかぶさるようにして光の顔を覗きこむ。
「すぐまた会いに来るって、約束しただろう・・・?」
間近に近づいた深い色の瞳に、体中が震えていた。
恐怖、では無い。もし恐れているものがあるとすれば、何かを期待している自分自身にだろう。
壬生はクスリと小さく笑って、骨張った指先を頬に這わせる。
震えがひときわ大きくなった。
「光」
囁く声は冷たい。
「この前、少し傷ついたよ」
「まえ、て」
「僕を拒んだだろう」
雨の日の出来事が一瞬にして脳裏に蘇ってくる。
見つめる瞳の奥から、蛇の舌先のようにチロチロと燃え盛る紅蓮の炎が覗いていた。
「あ、れは」
「彼は、君の何だい?」」
耳元に唇が触れた。
全身で威圧されて、促されるままに光はベッドに横たわっていた。圧し掛かかる重さがただ懐かしい。
壬生の指が髪の中をまさぐっている。
「光」
「紅葉・・・」
「答えて、光」
濡れた感触がねろりと耳朶を舐めた。
途端に背筋を電流が走りぬける。光は身をすくめて、小さく引き攣れた声を洩らす。
「彼は君の、何だ」
「きょ・・・いちは、友達、だよ」
「友達?」
「そう、だよ」
頬に、こめかみに口づけられて、顔を上げた壬生が鼻先をつけながらじっと光の目を覗き込んできた。
「蓬莱寺京一は、君の友達?」
光はかすかに頷く。
「・・・そう」
含みのある答だった。
更に近づく彼の瞳に、思わず瞳を閉じると唇をかすかに触れ合わせながら紅葉は続けて問いかけてきた。
「なら、僕は君の何?」
「く・・・れは、は」
「うん?」
「俺の」
唇の動きに合わせながら、壬生が時折光の唇を吸ったり舐めたりする。
濡れた音が麻痺した脳裏に印象的な響きをいくつも残した。
「た・・・いせつ、な・・・人、だよ」
口腔内に舌が潜り込んでくる。
より深く口づけられて、光は無意識に壬生の背中に両腕をまわしていた。
さっきよりも高い音を立てて繰り返される口付けに、互いに激しく求め合うように体を抱き合った。
壬生が、急に上体を起こして光を見下ろす。
睦みあった名残の銀糸がすうっと流れて消える。
赤く色づいた壬生の唇が、まるで上弦の月のように歪んだ笑みを浮かべていた。
「僕も愛しているよ、光」
相変わらず口調は冷ややかだったが、その言葉はなぜか違う響きを持っていた。
「五年前のあの日から、一日だって君の事を想わなかった日は無い」
「紅葉・・・」
「想って、想い続けて、それこそ気が狂いそうなほど君の事ばかり考えた」
指先が光の唇を拭う。
顎、喉元と連なって、シャツのボタンを外された。
「あんな不条理な目にあって、どうしたら君を取り返せるのか、それこそ死ぬほど考えた」
二つ目についで、三つ目、四つ目次々にと外されていく。
光は動く事が出来ない。
「君は、剣だから」
壬生のジャケットの裾を握る手がビクリと震える。
一瞬素に戻りかけた光を見越したように、すかさず唇が喉元に吸い付いてくる。
「ッくあ!」
鎖骨にしゃぶりつきながら、壬生は下着の裾を制服のズボンから引きずり出して内側に手を滑り込ませた。
覚えのある感触が肌の上をうごめいて、乱れた呼吸に胸が激しく上下した。
「このままだと、どんなに望んでも、君は僕のものにならない」
「うんッく、紅葉ぁ!」
「君を手に入れるために・・・僕は、鬼になろうと決めたんだ」
不意に愛撫がやんで、起き上がった壬生が再びじっと光を見詰める。
その瞳に映る色は、あまりに激しく情熱的だった。見つめ返す光の瞳も金色に染まっている。
淵に浮かんだ涙のせいで、彼の眼は震えているようだった。
「紅葉・・・」
壬生の、本当の心が覗きかけている。
ふとそう思った。
これまでの彼が作り物だとは思わないけれど、それとは別の感情がかすかに姿を見せている。
光はそれをもっとよく知りたいと思った。
今の壬生の気持ちを知りたい。彼が何を考えているのか、教えて欲しい。
伸ばした掌で髪に触れると、彼は僅かに震えたように見えた。
「紅葉は、どうしたい?」
声が自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
彼は今にも自分を殺そうとするかもしれないのに、恐怖や悲しみは浮かんでこない。
まるで子供をあやすように、静かに穏やかに問いかけていた。
「本当は何が欲しい?」
見つめ返す壬生の視線の奥が揺れている。
「紅葉は、何がしたいんだ・・・?」
壬生は、一瞬何かを言いかけて、すぐに口を閉ざした。
ゆっくりと片手が移動して、心臓付近に掌が乗る。
「・・・僕が」
呟く声は以前のもの、殺すという時と同じ響き。
ああ、と光は胸の内で洩らした。
「望むものは君だけだよ、光」
酷く冷たい声。まただと光は瞼を閉じる。
(京一や翡翠に、また心配をかける・・・)
触れている壬生の掌に気が集まっていた。
このまま発剄を打ち込んで、多分あばらを折るつもりだろう。
紅葉は俺を傷つけようとしている。
弱らせて、六門封神の三番目を施すつもりだ。
恐ろしいよりも、憤りよりも、ただひたすらに悲しくて、目じりからこぼれた涙がこめかみを伝った。
「・・・泣かないで、光」
紅葉の声は優しい。
涙を舐め取られて、もう一度見上げると無機質な表情が何の感情も無く見つめていた。
「痛みなら、一瞬だから」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、体の内側に膨大な量の気が叩き込まれる。
同時に鈍い音と激痛が脳裏を白く染めた。
カッ、と血を吐く光の体を抱き起こして、壬生は自分の手首を指先で薄く横に切り裂く。
唇を重ねて口腔内に溢れる血を飲むと、そこに手首を押し付けて流れ出す血を注ぎ込んだ。
光はそっと目を閉じる。
自分のものではない、まだ生暖かい壬生の血を促されるままに飲み込んだ。
「・・・六つ星の、三つ目を封ずる、これは血の盟約にして、解くこと叶わず」
聞き覚えのある呪が、愛しい人の声で聞こえた。
全身からグラリと力が抜けて、意識が遠くなっていく。
そのまま腕に沈む姿をそっとベッドに横たえて、壬生はもう一度だけ光に口づけをした。
「君を、誰にも渡さない」
表面に触れるだけの優しいキスに、新たな涙が浮かんでこぼれた。
彼の声が暗闇のどこか遠くから響くようだった。
最期に触れたものは壬生の指先であったけれど、そのことに気付く間もなく光の意識は途絶えたのだった。