新学期最初の日。
九月は、暦の上では秋なのに、名残の日差しがいまだ夏のように錯覚させる。
それでも季節は廻り、半年以上の月日が過ぎていたのだと、今更ながらに呆然とした。
ここに来て、これまでに一体何をしていたのだろう、と―――
カレンダーを見ながら思う。
制服のボタンを留めている最中、来訪者を継げるベルが鳴り響いた。
扉を開けると半端に日焼けした蓬莱寺が満面の笑みで立っていた。
「よ、姫、支度できてるか?」
「京一、おはよう」
おう、おはようと片手を上げて挨拶するので、光は少しだけ笑った。
夏の間に大分やつれて、陽炎のように儚げな印象の、その変わり果てた姿に蓬莱寺はわずかに表情を曇らせる。
「お前、全然焼けてないなあ」
適当な言葉が何も思いつかず、出てきたのはどうでもいい一言だった。
「京一だって焼けてないじゃないか」
「当たり前だろ、俺は今年の夏は先公の陰謀で散々だったんだ、焼けるかよ」
「それは陰謀じゃなくて、お前の勉強不足だろう?」
「うっせえ、いいから早くしやがれ、お前は新学期早々俺が目ぇつけられてもいいってのか」
そんなこと全然気にしないくせに、と、光は笑いながら奥に消えていった。
見送る背中に心が痛む。
光が、こんなことになっているのも、なにもかもあの大馬鹿野郎のせいだ。
あの馬鹿が光を捕らえて離さないから、だから。
(いや、そうじゃない)
―――光が、囚われたまま逃れようとしないから、だから。
わかっているのに、自分には何一つできることがない。
悔しくて、そして、辛かった。
自分なら光にあんな顔をさせないのに。あんな思いを味合わせたりなどしないのに。
やれていることといえば、精々身辺警護の真似事とくだらない冗談を飛ばすくらいで、何の役にも立ててねえじゃねえか。
ヤツと、自分と―――想いが劣っているとは思えないのに。
紫布に包まれた感触を強く握り締めていると、光は鞄を持って小走りに戻ってきた。
「京一」
目の前でふと立ち止まり、顔を覗き込んでくる。
蓬莱寺は何気ないそぶりで視線をはずす。
「ったく、お前は待たせすぎなんだよ」
くるりと背中を向けて、そのままドアを開いた。
「ほら、行くぞ」
「あ、ああ、悪い」
靴を履くまで待って、彼が出てきてから戸にかけていた手を放して先に歩き始めると、背後から施錠音が聞こえてきた。それから少し遅れて、小走りで追いついた光が隣に並ぶ。
「京一、宿題終わってるのか?」
「ただでさえ夏中暑っ苦しい教室に押し込められてたってのに、何で家に帰ってまで勉強しなきゃなんねえんだよ」
「そういうものじゃないだろ」
「休みならおとなしく休ませろってんだ、大体何のための夏休みだ?宿題なんざ嫌がらせ以外の何モンでもねえよっ」
「仕方ないなあ」
マンションを出てから駅まで、どうでもいい話にばかり花が咲いた。
とはいっても、光は夏の間中自主謹慎のような状態だったし、蓬莱寺に至っては夏季集中講座なるご大層な名目の、いわゆる補習ですっかり夏休みを潰されてしまっていたから思い出らしいものなど何もなくて、駅につく頃にはこれといった話題もなくなってしまった。
お互い、言葉も無く、改札を抜けてホームに到る。
新学期の始まりだけあって、辺りにはスーツ姿の社会人に混じり、様々な制服があふれかえっていた。
いつもと変わらない風景。光の家に通うようになってから、毎朝のように見かける日常。
けれど、と、蓬莱寺は横目で光の様子をうかがう。
変化はこんなにも明らかに訪れつつある。同じなどではない。昨日と、今日は、まったく別の日だ。
日を追うごとに光は―――確実に弱体化している。
見つめるのが辛くて、何も考えないようにして電車を待っていると、不意に声がした。
「京一」
「なんだ」
「今日、放課後、時間あるか?」
蓬莱寺はくるりと首を回す。
「ラーメンか?」
「お前ってそればっかりだよなあ」
困ったように笑うので、蓬莱寺は苦笑いでバカな返事をごまかした。
光は、にわかに深刻な顔をして、少しだけ下を向いた。
「頼みが、ある」
胸がどきんと鳴った。
こいつから改めて乞われるようなことなど、あの事以外に思いつかない。
下腹のほうにぎゅっと力がこもるのと殆ど同じくらいに、光の目がある種の決意を秘めて真っ直ぐに蓬莱寺を見詰めてきた。
「拳武館に、行ってみようと思うんだ」
「け」
言いかけた途端、丁度電車がホームに滑り込んできて、辺りは突然の喧騒にまみれる。
蓬莱寺は腕力にものをいわせながら光を守るように寄り添い、やや強引に車内に踏み込んでいった。
話の続きは気になっていたが、すし詰め状態の中でできるような内容でもないだろう。それは光も同じ考えのようで、大勢に押しつぶされるようにして密着した体の、蓬莱寺の肩口に寄せた顔をわずかに伏せている。
汗や埃の臭いに混じって、光の洗髪料の匂いが鼻腔をくすぐった。
あまやかな香りと伝わる体温に、鼓動が早すぎて気づかれはしないかと余計胸が高鳴る。
蓬莱寺は背中にそろそろと腕を回し、気付かれないようにその体をそっと抱きしめた。
新宿駅に着くまで、ほんの、数分の出来事。
車内から吐き出されるように降りて、駅の外まで人ごみに乗って足を進めてから、ようやく一息ついたところで隣にいる光を振り返った。
「おい、姫」
蓬莱寺の呼びかけで察したように光は頷く。
「で?」
「うん」
乱れた髪を指先で梳いている。
蓬莱寺も、すでに友達の顔に戻っていた。
「道すがら話す、ともかく行こう」
二人は連れ立って、真神へと続く通学路を歩き始めた。
「―――俺さ」
「おう」
「家にいる間、ずっと考えていたんだけど」
―――壬生紅葉。
考えていたというのはあいつの事だろう。
その名がすぐ思い浮かんでしまうことが腹立たしい。
自宅に引きこもりながら、ずっと思いを馳せていたのか。お前は、あいつのことばかりを。
「祭りの日に俺が言ったこと、覚えてるか?」
「ああ」
「学校制度はどこもそう代わりがないようだから、夏休み明けまで待ってたんだ」
「何を」
ついぶっきらぼうな答え方になってしまった。
光が振り向いた。
「拳武・・・壬生の、身辺調査だよ」
急に不安を帯びる声に、蓬莱寺は慌てて口調を改める。
「そ、そうだったっけな、確かにまあ、新学期始まってからの方が都合いいかもしんねえよな」
うそばかりだ。
本当はそんなことどうだっていい。あんな男のことなど何も知らなくていい。
忘れてしまえばいいんだ、これ以上、苦しむ必要なんてないだろう。
お前には―――俺が、いるのだから。
それ以上の考えを、蓬莱寺は強引に自分の外に追い出していた。
光は困ったような微笑を浮かべている。何か察したのかもしれない。
「放課後、もし用事がなければ、俺に付き合って欲しいんだ」
蓬莱寺は眉間を寄せる。
「今は京一が守人だから、一緒に行動してもらわなくちゃならないし」
「それは、構わねえけど」
それに、と続ける声が暗いので、不安な気配が胸に満ちた。
「今の俺は、一人では、戦えないから」
ドキン。先ほどよりも大きく胸が鳴る。
光の体はすでに三門目の六門封神に蝕まれている。
如月に聞いた話が事実であるなら、光の言葉もまた真実だろう。
龍の御剣、その実力は転校して程なく目の当たりにした。けれど今は。
「―――おう」
蓬莱寺はそれと悟られぬよう、自身に活を入れなおしていた。
そうだった。くだらない嫉妬にイラついている場合じゃない。今は何をおいても率先してしなければならない事があるはずだ。それを失念することだけは、絶対にいけない。
「いいぜ、分かった、付いてくよ」
心底ホッとしたような笑顔がありがとうと軽く頭を下げた。
それがまた他人行儀に思えて、少しだけ心がささくれ立つ。
(何イラついてんだ俺は、馬鹿はやめやがれ、今は姫の事だけ考えろ)
自身の胸のうちによく言い聞かせて、蓬莱寺はようやく素直に笑う事ができた。
こんなに難儀するほど、想いは募っている。
「なあ姫、所でさ、今日は半ドンだけど、明日はちゃんと授業があるから」
だから、と、蓬莱寺は関係ない方向に話をずらす。
「昼飯とかさ」
光の明るい笑顔を久々に見ることができた。
「京一はいっつもそれだよな、男の手料理なんて気持ち悪くないか?」
「うまいモンに男も女も関係ねーぜ、大体料理人ってばほとんどが野郎だろうがよ」
おっちゃんの作った料理、うまいうまいって皆食ってるだろう?
そう言うと、光は随分褒められたものだなとわずかに頬を染めた。
「俺の作ったものなんて、そんなに旨いかなあ?」
「まあ、俺に限っては自慢していいと思うぜ」
「おだてるなあ」
「でなきゃ作ってくんねえだろ?」
何だ、もくろみは結局そこかと、笑う様子につられて、蓬莱寺も笑う。
こんな風に笑ってばかりいられたらいいのに。
光は何か目的があってここに来たようだけれど、そんなこと自分には関係ない。こいつと二人、肩を並べて楽しいことばかり夢中になれたらそれ以上何も欲しくない。
もっともっと笑ってくれ。あいつのことなど忘れるくらい、俺と楽しい事だけ考えて。
蓬莱寺はほんの一瞬、沈んだように視線を伏せた。
いくら願っても、叶わないこともあるのだと知っている。
現実は、今、すぐ手の届く傍にあった。