京都は本宅のある場所であるが、光はつい最近まで外界のことを何も知らなかったので、ほかの生徒たちと同じようにあちこち興味深く見学して回った。
こんなに沢山歴史と伝統にあふれた場所があったのだと、改めて感心する。
朋恵から教わったり文献等で得た知識だけはあったけれど、やはり実物を見るのとでは雲泥の差だ。
「光?」
振り返ると美里が立っていた。
「どうしたの、ぼんやりして」
「あ、や」
別に、と言おうとして、彼女の表情が曇っている事に気付く。
「美里?」
「光、京一君と何かあったの?」
「えっ」
さすがに周りも気づいたのだろうか。
心中を察したように、美里は寂しげな微笑を浮かべる。
「詳しいことを教えてくれなくてもいいわ、でも、少し心配なの」
二人はいつも仲がよかったからと、言われて光は俯いた。
「お友達同士ですものね、喧嘩する事だって、あると思うわ」
別に争ったりしたわけではない。それだけに、修復のきっかけを掴めないでいるだけだ。
けれどそんな話を美里にできるわけも無い。
「ねえ、でもね光、京一君、多分あなたが話しかけてくるのを待っていると思うの」
え、と顔を上げた。
「京一が?」
「そう、あなたにだけこんなこと言うのは多分平等じゃない、けれどね」
京一君はあなたに気を使いすぎて、多分本当のことなんて何も言わないだろうから。
美里の言葉に光は閉口した。
そう、なのだろうか。
京一は俺に気を使っているのか?あのことで、何か負い目を感じてしまっているのだろうか。
「だからね、光、あなたにお願いしたいの」
「けど、俺は」
「避けられてなんかいないわ」
そのものずばりをつく言葉に、光は驚いて目を丸くした。
「えっ」
「だって京一君、話しかけないだけで、あなたが見える場所に必ずいるもの」
慌てて周囲を見回す。
すると、少し離れた場所からこちらをうかがっている蓬莱寺の姿が見えた。
視線が合いそうになった途端フイと背かれてしまったが、それでもこんな旅先でまで背中を守ろうと気にかけてくれていた。凍り付いた胸の奥に何か温かなものが満ちてくるのを感じる。
「言葉じゃ伝わりきらないことって、確かにあると思うの」
美里はまるで小さな子をあやすように語り掛けてくる。
「けれど、ちゃんと口で言わないと、伝わる事なんて何もないのよ」
確かに、その通りだ。
このままでいいはずがない。俺も、多分京一も、そんな事を望んではいない。
茶色の髪の下の鳶色の瞳がちらりとこちらを窺うので、光は一歩を踏み出そうとした。その途端。
「あっ」
バックの中で携帯電話の着信音が突然鳴り響いた。
慌てて取り出して、通話ボタンを押す。隣で美里が小さく嘆息していた。
確かに間が悪すぎたが、光は聞こえてくる声に集中した。
「はい」
声は意外な人物からのものだった。
光は驚いて、受話口を耳に押し当てるようにして二言三言話し、おもむろに終話ボタンを押す。
そうしてゆっくりと息を吐き出すと、急に強ばった面持ちで美里を振り返った。
「明日の自由行動だけど、行かなきゃならないところができた、朝のうちに迎えが来るらしいから、悪いけど美里は京一と二人で出かけてくれないかな」
「えっ、それって」
「詳しいことは話せない、ごめん」
ぺこりと頭を下げられて、美里は困惑げに眉を寄せる。
「でも、単独行動は禁止されているし、それにあなた一人じゃ」
「許可できないって言うなら、帰ってきてからちゃんと罰は受けるよ、だから」
実行委員長は判断に苦しんでいるようだった。
しばらく考えあぐねた末に、不承不承に頷いてくれた。
「わかりました」
ふうと、大きく溜息を漏らす。迷惑というよりは困ったような仕草だった。
「私は何も聞いていない、明日、あなたは予定通り私達と見学をした、それでいいかしら?」
「ごめん、気を使わせて」
「いいのよ、貴方が話せないようなことなんですもの、なにか事情があるのでしょう?」
彼女はとても生真面目な性格なのに、これは、かなり譲歩してくれているのだろう。
光は申し訳ないと深く頭を下げた。
「そんなに謝らなくてもいいわ、これ以上私は何も聞きません、でもね」
気をつけて。
美里は不安げな表情のまま、一言だけそう言って優しく微笑んだ。
蓬莱寺をちらりと振り返ると、相変わらずこちらの様子を気にしているようだったが、やはり距離が縮まる気配は微塵も感じられなかった。
光は美里に感謝しつつ、重苦しい空気を肺の奥から深々と吐き出していた。
翌日は朝食後すぐに自由行動の予定で、光は前もって美里に話しておいたとおり、班で出発した直後に別行動を取らせてもらうことにした。
「今日は一人で大丈夫だから」
一応蓬莱寺にも声をかけたけれど、おうと短い返事が返ってきただけでそれ以外何も聞かれなかった。
二人と別れて指定の場所へと向かう。
腕時計に眼をやっていると、道の向こうから黒塗りの高級外車が走ってくる様子が見えた。
そしてその反対側から足音が響いてくる。
振り返ると、蓬莱寺が猛烈な勢いでこちらへむかい駆けてくる姿が見えた。
光は目を丸くする。
「京一?どうして」
ようやく隣にたどり着くと、弾む息を整えながら少し気まずそうな顔が明後日の方を向いたままで答えた。
「お前を一人にゃ、しておけねえからな」
「でも俺は大丈夫だと」
「俺にも朋恵ちゃんから電話があったんだよ」
え、と蓬莱寺を窺う。
「御剣の本宅にお前が呼ばれてるから、ついてって欲しいって言われた」
「美里は」
「アン子に話した、バレなきゃ、今日俺ら一緒に見学したって事になってるはずだ」
だから心配すんなと、久しぶりに正面から顔を見て言われた。
光はきょとんとしたあとで、苦笑を浮かべる。
「不良だな、俺達」
「犬神やマリアセンセに見つかったら確実に明日の自由行動は俺らだけ取り消しだな」
こんな軽口も久しぶりに聞いた。光は、少し嬉しかった。
車が目の前で静止して、出てきた運転手が扉を開く。光が乗り込んで、蓬莱寺も二度目なので気後れせずに後部座席に座った。
音も無く、京都の景色が車窓を流れた。
「のあーでっけ!」
開口一番の蓬莱寺の叫び声だった。
遡れば古くは史記以前にまでその歴史をたどることのできる、創業千年を越える和菓子屋金竜堂はこの国に菓子というものが生まれたころから現職を生業としているらしい。
真偽のほどは定かでないが、老舗であることは間違いない。
京都の一等地にこれだけ大規模な屋敷を維持していられるのも、すべてはこの店が半永続的に栄え続けている賜物だ。
代々多くの菩薩眼と剣を輩出し続けている御剣一族が、その宿命の代償として受け取っている恩恵の一部が形を結んだものともいえる。もっとも、これだけ特異性のある環境でなければ代々の剣や守姫を庇護し続けることなどできなかったのだろう。それを考えると、光にはどこか背負うに重い繁栄であるように思えて仕方なかった。
「あれ?」
自動開きの門の奥へするすると車が入り込む瞬間、ちらりと見えた表札に蓬莱寺が首をかしげる。
「今の、御剣じゃなかったぞ?」
「あれはうちの表の名前だ」
戦乱の世で、力と富を約束する御剣の名前を容易に出すことはできなかった。
その名残だと簡単に説明する。
「御剣は隠し名だ、剣と守姫しか、外でこの名を名乗ることはできない」
「へえ、色々と面倒なんだな」
それは確かにそのとおりで、だから光も困り顔でわずかに苦笑を返した。
車は正面玄関の前で静かに停止した。
蓬莱寺は運転手が来る前にドアを開けて勝手に下りていた。光は開けに来るまでちゃんと待って、それから車外に降り立った。運転手は一礼して車を車庫に運んでいった。
「ここに来るのも、久しぶりだな」
大きな日本家屋を見上げて、光はポツリとつぶやきを洩らす。
おもむろに掘り込み式の取っ手に指をかけ、ゆっくりと横開きに引き開けた。
こちらも以前訪れた御剣の別宅同様、重厚な作りの扉なのに音もなくするすると桟をすべり、中が覗く。
そこに、三つ指をついて頭を垂れる和装の婦人と、そのお供の女性らしき姿が少し下がった場所で更に低く額づいていた。
「おかえりなさいませ、光さん」
お久しゅう、ございますと顔を上げた婦人を見て蓬莱寺は息を呑む。
女性はまるで人形のように整った造詣をしていた。生気のない白磁のような肌と、ガラス球のように輝く黒い瞳、黒すぎる髪は丸髷に結って、着物は肌の色によくなじむ黒と銀糸をあしらった家紋入りのものを着ていた。裾で、純白の鶴が舞い遊ぶ。
「光ぼっちゃま」
その後ろの女性も顔を上げた。こちらは平凡な、どこにでもいるふっくらとした顔立ちの老女で、いくつも皺の寄った表情を柔和そうに崩して光に微笑みかけている。婦人のものより仕立ての簡単な、海老茶色の麻の一重を着ていた。
「母さん、トキさん、ただいま戻りました」
「か、母さん?」
慌てる蓬莱寺をゆったりと見て、光の母はたおやかな微笑を浮かべる。
「光の母の千影でございます、こちらは世話役のトキ、蓬莱寺様もよくいらっしゃいました」
「へ、な、なんで俺のこと」
「朋恵さんから連絡がございました、兄様とその御学友の蓬莱寺様がいらっしゃるだろうから、よろしくたのむ、と」
「は、はあ」
千影は立ち上がってこちらへと二人を招き入れる。
「お上がりくださいませ、ご案内いたしましょう」
光が靴を脱いで先に行くので、蓬莱寺は多少あたふたしながらそのあとを追った。
御剣家の本宅は、以前訪れた別宅よりも更に歴史の深そうな豪邸だった。
中庭に面した廊下を歩いていると、ここは本当に日本なのかという気さえしてくる。
久遠の永きに渡り、時を留め、古の姿をそのまま伝えているような、それでいて澱んだ気配はまるで無く、邸内を満たす空気は清廉な気に満ち溢れている。新旧入り混じたなんとも形容しがたい印象を蓬莱寺は抱いた。
連なる廊下をいくつも過ぎて、一室の前で千影は足を止めた。
ふすまの脇にサッと正座すると、中へ向かって声をかける。
「弓月(ゆづき)さま、光さんと御学友の蓬莱寺さんをお連れいたしました」
通しなさい、と一声、威厳に満ちた男の声が聞こえる。
千影がふすまを開くと、座敷の奥の卓の向こうに和装の紳士が控えていた。
姿を見つけた光が一言、父さん、と呼びかける。
蓬莱寺は今度こそ声には出さなかったものの、朋恵や千影を始めて目の当たりにした時と同じような衝撃をまたもや受けていた。
「入りなさい」
死んだ光の実父の兄、養父であり、朋恵の実の父である御剣家現当主にして金竜堂の主。
それが御剣家共通の特徴であるかのように、壮年の男はやはり尋常ならざる見目麗しい外見をしている。
日に焼けたことの無いような白い肌と、硬質そうな黒髪。黒い眉はきりりと引き締まり、その下の銀鼠色の瞳には猛禽類のような鋭い光を湛えている。
二人の入室を見計らって、千影とトキは一礼をして襖を閉ざし去っていった。
光は卓の反対側にしつらえた座布団に腰を下ろし、蓬莱寺もそれにならう。
弓月は光をじっと見据えた後、蓬莱寺を見て軽く会釈をした。
「お初にお目にかかります、蓬莱寺君、私は光の父親で弓月と申します」
「は、はぁ、あ、その、俺は蓬莱寺京一って」
「京一」
光に呼ばれて、蓬莱寺は名乗る必要の無いことにようやく思い至っていた。
「あ、や、ええと」
「そう緊張することも無い、くつろいでくれたまえ」
そう言われてもと思う。
目の前にいる光の父からは、堅気とは思えないほど強烈な気のほとばしりを感じる。
弓月に気負った部分などまったく見受けられないのに、どこにも隙が無い。着物で分かりづらいがかなりがっしりとした体躯をしているのだろう。光同様、外見だけでは計り知れないような、そんな妙な威圧感を備えた存在感のある男だった。
「光、学校の行事の最中であるのに、無理を言って呼び出して済まなかったな」
「いえ、私も一度は立ち寄らせていただくつもりでしたから」
私、と蓬莱寺は光の口調を胸の中で復唱する。
「それで、今日はどういったご用件でしょうか」
フムと頷き、弓月は再び光をじっと見据えた。銀の瞳は心の奥底まで見透かすような輝きを湛えている。
血縁だからだろうか、その眼差しはどこか光とよく似ていた。
「朋恵から話は聞いている」
途端、光の双肩がピクリと揺れる。
「色々と面倒なことになっているようだな」
そして蓬莱寺ははっとした。
それはつまり、この父が六門封神や壬生のことを知っているということだ。父親が知っているなら母親も知っているだろう。こっそり様子を伺うと、光は膝の上で両手を握り締めていた。
「光」
弓月が呼ぶ。それだけで、目に見えない重圧が彼の全身を強ばらせる。
「お前の当面の問題について、私からは何も言うべきことはない」
「はい」
「冬吾のあつらえた守人はお前のためのものだ、お前が何とかするしかないだろう」
光は耐えるように俯いていた。
多分今、色々な想いが彼の中を去来しているのだろうと思う。
その全てがあの男に繋がっていると、考えるだけで悔しくて憤りを覚える。
直後に蓬莱寺は浅はかな自分をもう一度叱責していた。
つまらない嫉妬心が、この間の無茶な行為を誘導してしまった。
それ自体について後悔も謝罪の意思もなかったが、結果光を戸惑わせてしまったことについては深く反省している。
勢いだけでしていいことではなかったのだから。彼に関しては特に。
弓月も、彼なりに息子の心情を察しているのか、気遣うような気配が瞳の奥に見て取れた。
「光、聞きなさい、今日私が話そうと思っていることは、それについてのことではない」
光が顔を上げる。
「君」
いきなり呼ばれて蓬莱寺はあたふたと動揺してしまった。
「は、ハイ?」
「蓬莱寺君にもしっかりと聞いていてほしい、これはとても―――大切な話なのだ」
「え、は、はいっ」
背筋を張って答えると、弓月は強ばった表情のまま首を縦に振った。
「光よ」
「はい」
「私が、お前の父である弦麻と一卵性の兄弟であることは、以前お前に話していたな?」
「はい」
一卵性?
蓬莱寺は耳を疑う。今、この男は光の父親と一卵性の兄弟であるといったのか?
(な、それって)
ずっと昔、何で知ったかは覚えていないが、双子には二種類あると聞いたことがある。
一卵性と二卵性。その違いは呼んで字のごとくであり、一卵性は一つの卵子が二つに分離することにより発生する双子で、二卵性は二つの卵子が同時に受精することで発生する双子のことだ。どちらも非常に稀なケースだが、特に一卵性の場合はもともと一つであるはずの生命が同じ形に二つに分かれて生まれてくるということで大変珍しい。
つまり、目の前にいる弓月は、外見だけを指すなら光の実父の弦麻でもあるということだ。
(マジかよ)
死んだ人間の顔と同じ顔を持った人間がここにいる。
そしてそれは、光の養父でもあるのだ。
「本来御剣に男児は生まれない」
弓月の発言は更に蓬莱寺を戸惑わせた。
「御剣に男児が生まれるときは、世が乱れるときだ、そして生まれる男児は剣の定めを持つ、例外はない」
そこで父親は一呼吸置いた。
「―――私と、弦麻の場合を除いてな」
「えっ」
光は思わず声に出してしまう。それは、初めて聞く話だ。
「光、これから私が話すことは、今お前に確実に迫りつつあるだろう危機のことだ」
「迫りつつある、危機?」
蓬莱寺が顔をしかめる。弓月は頷いた。
「そうだ、だから、しっかり聞いていて欲しい、その男はいずれ必ずお前の前に現れる」
「それは何者ですか?」
光が聞いた。
弓月は、たたずまいを直して、静かな、それでいてひどく重さをはらむ口調でゆっくりと語り始めた。
「その者の名は柳生宗崇、18年前に我が半身を奪った、忌まわしいすべての元凶だ」