さわさわと小雨の降る音を聞きながら目覚めた。

今朝は、少し肌寒い。

身支度をして家を出ると、鮫川の土手辺りで菜々子と別れた。

朋也は低く垂れ込める雨雲を眺めながら通学路を歩く。

「あいぼー」

呼ぶ声に振り返ると、傘を掲げて駆けてくる陽介の姿を見つけた。

(濡れるだろ)と朋也は唇に淡い笑みを浮かべる。

急がなくたって、来るまでちゃんと待っているのに。

傍らにたどり着いた陽介は、はあ、と軽く息を整えてから、改めて「おはよう」と笑いかけてきた。

「おはよ」

「あのさ、昨日、ゴメンな?」

並んで歩き出す。

2人の傘に雨粒が踊る。

「誘ったの俺なのに、すっぽかすみたいになっちゃって」

「いいよ、別に」

「お詫びに今日って言いたいところなんだけど、雨降ってるし、俺バイトだからさ」

「気にするな」

「うん」

朋也はふと陽介を伺う。

傘越しの横顔は僅かに俯いて、何か考え込んでいる様子だった。

「花村?」

「ん?」

振り返るといつもの陽介に戻っていて、朋也は内心首をひねってしまう。

「あのさ」

そう、切り出したところでうまい話題が見つけられない。

このまま有耶無耶にもできず、咄嗟に聞くつもりのなかったことを口にしていた。

「昨日、あの後どうなった?」

直後に朋也は内心自分に舌打ちする。

そういう個人的な問題には首を突っ込まない主義のはずだ。

(花村の影響でも受けたかな)

陽介は間を置いて苦笑いしながら正面に向き直る。

「怒られなかった」

「そうか」

「とりあえず不問にしてやるって、でも、最悪の場合、代打を用意することってさ」

「代打?」

「期待してるぜ、カリスマ主夫先生」

え、と呟いた朋也に、陽介が笑う。

「頼むよ、相棒だろー?」

「お前な、ジュネスでバイトはしないって言ってるだろ」

「何で」

「花村と一緒の職場なんてどんなトラブルに巻き込まれることか」

「おっまえ、酷い事言うなあ!」

「尻拭いなんて真っ平ごめんだ」

「店長のご子息の親友ならジュネスじゃいいこと尽くめだぞ?」

「人より長い時間働かせられたり、重い責任背負わされたりな」

「痛い、痛過ぎる、お前いつからそんな冷血漢になっちゃったの?」

軽口を叩き合って一緒に笑う。

―――大丈夫、いつもの俺たちだ。

(花村は、強いな)

明るい姿に安堵している自分に気がついた。

途端、朋也は(そんなに心配していたのか)と思わず声に出して笑ってしまった。

「何?」

ワクワクした表情の陽介に「大したことじゃない」と微笑み返す。

「ジュネスのエプロン付けて、特売品の呼び込みしてる自分想像してみた」

「えっ」

「絶対ありえない」

「黒沢!」

憤慨する陽介の顔が赤い。

朋也はやはり気付かないフリをしながら、高校までの道のり、気のいい友人をずっとからかい続けてやった。

 

 そしてまさか、今日まで昨日の弁当の話を引っ張られると思っていなかった朋也は、うんざりした気分でパンを齧っている。

屋上に続く階段の一番上、段差に腰を下ろして、ドア越しの雨音に耳を澄ませる。

階下からは人の気配とざわめき、隣に陽介。

あんまりしつこいので、半ばキレ気味に弁当を作る約束をしてやった。

自分の弁当すら作る余裕のなかった今日は、登校途中に買い求めた惣菜パン数個とパックのジュースが昼食の献立だ。

陽介も同じメニューだったけれど、パンを一つしか持ってきていなかった。

それで足りるのかと心配したのが運の尽き、唐突に恨めしげな視線を向けられて、何事かと思えば以降理不尽な文句を延々と聞かされ続けている。

「だってさ、昨日の今日だし?俺散々だったし?だからさ、優しい相棒なら俺のために弁当のひとつでも用意してくれるだろうなあって、そういうこと期待しちゃうんじゃない?」

(ウザい)

朋也の肩に頭を乗せて、陽介は口を尖らせている。

「なのにさー」

「―――だから、弁当作ってきてやるって今約束しただろ」

「パン、うまかったなぁ」

「オイ」

「でも全然足んねーよなぁ」

「自業自得だろ、女々しいぞ花村」

「どーせ俺女々しいし、黒沢が弁当作ってきてくれなかったからだもん」

もん、じゃないだろ。

イライラしながらがっついていたパンをいきなり陽介に奪われた。

「あ、コラッ」

「こうなったら、お前のパンを食ってやる!」

止める間もなく食べ始めた陽介を見て、一瞬本気で怒りかけた朋也は、ため息を漏らすと紙パックのジュースをずるずる啜った。

今日の陽介は何だかおかしい。

(そりゃ、いつも強引な奴だけどさ)

何というか、普段以上に寄りかかってくる。

あまりの暴虐無人ぶりに朋也はふと(もしかしたら本当は昨日の事をまだ引きずっているのかもしれない)と思い至っていた。

たかだか弁当一個でしつこく食い下がってきたのだ、それ以上にインパクトがあって、しかも厄介だった一件を簡単に忘れられるわけないかもしれない。

途端、怒りは収まって、代わりに朋也は強張らせていた肩の力を緩やかに抜いた。

横目で窺うと、あっという間にパンを食い尽くした陽介は、朋也に凭れたままストローを咥えてボーっとしているようだった。

雨の屋上に用事のある人間なんていないから、薄暗い空間に2人きり、ただ雨音と遠い喧騒を聞いている。

「黒沢」

「うん?」

陽介がおもむろに朋也の手を掴む。

何をするのかと思えば、そのまま自分の頭に掌を乗せて、撫でさせるように動かし始めた。

「―――何?」

「んー」

陽介の髪は柔らかい。

「お前ってさあ、俺の頭撫でたことある?」

「は?」

何を言い出すのかと思えば。

朋也は「ない」と簡潔に答える。

「そうだよなあ、やっぱそうだよなあ」

そう言いながら陽介は動作を繰り返す。

掌の感触は、次第に朋也の内に妙な感覚を呼び起こしていた。

陽介の髪に触れたことはあっても、こうして撫でたことはない。

(ない、はずだ)

なのにまるで『あった』ような気がしている、この感触に覚えがある。

一体どうしたことだろう。

掴んでいた手を引き寄せて、今度は両手で包むように握り締めながら、陽介が「なあ」と顔を覗き込んできた。

「昨日さあ」

「何」

「何で怒ったの?」

朋也は―――僅かに身じろぎしてしまった。

陽介の目が金色に輝いている。

一瞬錯覚かと思ったけれど、間違いなく人にあらざる光だ、これは一体どういう事だろう。

(テレビの中じゃないのに)

いや、そもそも陽介のシャドウは意識下にて制御されているはずだ。

混乱している朋也に構わず、陽介は身を摺り寄せてくる。

「それは」

「それは?」

朋也は務めて平静を心がけた。

「聞くに堪えなかったから」

「何で?」

「ああいうのは好きじゃない」

元より他人の傷に無頓着な輩は嫌悪の対象だ。

意識してやる方がまだマシと思うけれど、それだって程度によっては怒りを覚える。

朋也は近すぎる陽介から僅かに身を反らしながら、反論できない相手に好き勝手言うのはフェアじゃないだろうと続けた。

「だから腹が立ったんだ、大人気なかったと思ってるよ」

「ふうん」

「花村こそ、何でそんなことを今更聞くんだ」

「俺は」

陽介は朋也の胸にポスンと頭をぶつける。

「お前が怒った理由気になってさ」

「どうして」

「俺のためかと思って」

朋也は閉口する。

両手で朋也の指を玩びながら、陽介は離れようとしない。

(どうしてそんな)

朋也自身、あのときの怒りは自分のものだと思っていたから、今の言葉は完全に予想外だった。

まさか、と思う。

誰かのために怒るなんて、そんなのはウソだ、結局俺は自分のためにしか行動できない。

(お前のためなんかじゃない、あれは、俺が勝手に腹を立てたんだ)

けれど何故か『違う』と思った。

しかし何が『違う』のか判らない。

「花村は」

唇が無意識に言葉を紡ぐ。

「―――俺に何を望んでるんだ?」

「え?」

ふと顔を上げた陽介の瞳は、元に色に戻っていた。

朋也は内心ホッと胸を撫で下ろしつつ、別の感情が渦を巻くのを感じる。

こんなことを以前も尋ねた。

しかし、一体いつの記憶だろう。

グラグラと揺れる目の奥で広がっていく不安と恐れを見つける。

陽介は言葉を無くしたように黙り込んでしまった。

怯えた表情を見詰めながら、朋也も返される言葉を待っていた。

いつの間にか離れていた手の、指先が微かに触れ合う。

途端、互いにビクリと体を竦めた、頭上にチャイムの音が降ってきた。

「あ、え、えーっと」

陽介があたふたと立ち上がる。

「よ、予鈴だなっ、そろそろ教室戻んねーと」

「―――そうだな」

「悪い黒沢、今の話、また今度な」

「ああ」

居心地悪い気分のまま朋也も腰を上げた。

一人そそくさと立ち去ろうとしていた陽介は、段の途中で足を止めて、朋也が来るのを待っている。

その様子にようやく強張っていた何かが緩々と解けていった。

目が合って、仄かに笑いかけると、仰ぎ見ていた陽介も安堵した様に懐っこい笑みを浮かべて見せた。

「ほら!早く来いよ、午後の授業遅れるぞ」

「誰かさんが人の分のパンまで食べてくれたからな、ゴミまとめるのに手間取った」

「ハイハイ、スイマセンねえ、今度弁当作ってきてくれたら、今日のパンは返してやるから」

「なんだその交換取引は、明らかに不当だろ」

「冷血な相棒が悪いの、さっ、腹も膨れた事だし、午後の授業頑張ろっかなー」

「花村が授業に励む姿を初めて拝めるんだな」

「いいや、喜べ、記録更新だ、今日も全力でノートに落書きしまくるぜッ」

「真面目に受けろ、バカ」

隣に立った朋也は陽介の頭を軽く叩きながら笑いかける。

痛ぇなあと口を尖らせて陽介も笑っていた。

けれどどこか―――空々しい。

蟠りの名残をお互い気取られないように取り繕いつつ、普段のように軽口を言い合いながら2人は階下へ降りていった。

雨の音がいつまでも、いつまでも、途切れることなく続いていた。