今朝から言葉少なげな相棒と共に鮫川の河川敷を歩いている。
昨日の雨の所為で地面はぬかるんでいて、辺りの空気はひんやりと冷たい。
流石に遊んでいる子供の姿も見あたらなかった。
川べりの、人目につきにくい位置を選んで、前を進んでいた陽介が立ち止まり振り返った。
「黒沢」
不安げに揺れる瞳に朋也の姿が映っていた。
『時間があったらでいいから』と昼休みに声を掛けられて、放課後、朋也は陽介の誘いに乗った。
昨日の帰り頃から少し様子がおかしいと思っていたけれど、それは、今朝になり確信に変わった。
けれどこの間まで感じていたような違和感ではない。
陽介は俺に何か伝えようとしている。
予感は思った通り現実となった。
濡れた草の青い香りが漂う。
鮫川のほとりは、いつになく静かに感じられた。
「これ、見つけたんだ」
差し出された掌を何かと窺う。
そこに見つけた、小さな写真。
「小西先輩と撮ったプリクラ」
朋也は陽介を見た。
「俺がまだここ来たばっかの頃、小西先輩が撮ろって言ってくれたヤツ」
項垂れたままの陽介は、プリクラをシャツの胸ポケットにしまいながら、何か堪えるように顔を背けた。
「俺、来たばっかの時はどっかで、こんな田舎って、見下してて」
抑揚の無い小さな声がポツリポツリと続ける。
「ジュネスは商店街を潰すって、敵意向ける人も多くて―――」
ふと鳶色の瞳が朋也を見据えていた。
「でも、あの人さ」
その目の奥に映る影を見つける。
「俺と初めて会ったとき、親は親、キミはキミって言ってくれて」
(ああ)
そうか。
優しく微笑む姿。
朋也にとっては遠い記憶の中、たった一度きり言葉を交わしただけの少女。
(小西、先輩)
陽介は何がしたいのかと思ってついてきた。
今、朋也は陽介の真意を垣間見たような気がしていた。
「本心じゃなかったとしても、俺、嬉しかった―――あの人がいたから、この町も悪くないかなって、初めて思えた」
それは陽介にとってどれほどの心境の変化だったのだろう。
改めて思う。
ただの少女の中に、この男はどれだけの光を見出していたのだろうと。
(お前にとって小西先輩の価値は、本当に、何にも代え難いものだったんだな)
朋也の胸の奥の方がチリリと痛んだ。
こんな痛みは知らない、朋也は何故か自身に僅かに苛立つ。
(何故だ)
陽介の独白は続いていた。
「なのにさ、なのに」
再び視線を逸らし、項垂れている姿に、朋也は喉が震えて、思わず口に出していた。
「―――死んでしまった?」
陽介の体があからさまに大きく震えた。
窺えないほど伏せた顔の脇を茶色の髪がサラサラと零れ落ちていく。
「ど、して―――」
掠れている声。
小刻みに震える体。
「先輩が、死ななきゃ、いけなか、ったんだ」
拳が握り締められている。
「ムカつくよ」
(花村)
「悔しいよ!」
心が震える。
これは陽介の痛みじゃない。
(俺が)
傷ついている陽介を見せ付けられることがこんなに苦しい。
「もっと話したかった!もっと、あの人のこと知りたかった!」
(花村ッ)
「なのに、なのに―――」
朋也は唇を噛み締めて僅かに陽介から視線を逸らしていた。
こんな姿は見たくない、もうたくさんだ、もう。
「もう―――いないんだ」
ビクリと体が震える。
恐々と陽介を窺う。
目の前で泣きじゃくっていた陽介は、声を押し殺し、全身を強張らせ、やがて―――ゆっくり顔を上げて朋也を見た。
赤い目の縁を伝う涙を拭おうともしない。
「黒沢」
「―――何?」
「俺、分かった」
俺、忘れたかったんだ、小西先輩のこと。
「小西先輩が、もういないこと」
風が吹いていく。
「こんな田舎で、つまんねー毎日送ってる自分を、忘れたかったんだ」
冷たく湿った風が、朋也と陽介の髪を揺らしている。
「事件が起きて、俺はワクワクした―――こんな田舎に来た価値が、やっとできたと思った、先輩がいないことも、相手にされなかった無様な自分も、忘れられると思った」
「花村、それは」
「―――事件に飛びついて、見ようとしてなかった」
ガクリと肩を落とし、再び項垂れる。
陽介の悲しみが、絶望が、手に取るように伝わってくる。
(あの時には感じられなかった)
出逢ったばかりの頃、陽介のシャドウと戦った時。
吐露された心象は理解できたけれど、共感にまでは至らなかった。
あれからどれほどの時間が流れたというのか、俺は今、かつてと違う形で花村を知ろうとしている。
(何なんだ、これは)
縋りつくような声が小さく「ごめん」と呟いていた。
「俺、何も、何も―――歩き出せてこなかったんだ、先輩、ごめん、黒沢―――ごめん」
「謝るな」
「けど、俺、お前を巻き込んでおいて自分だけ逃げてたから」
顔を上げた陽介と再び目が合った。
朋也の内側で鼓動が一つ、大きく爆ぜていた。
「何か今度こそ、目が覚めた気がする」
揺らぎながら、傷つきながらも懸命に、自分の両足で立とうとしている。
―――強い心が愛しい。
「先輩は帰ってこないってこと、受け入れて、乗り越えないと」
(花村)
陽介は少しだけ目を伏せた。
「この事件が落ち着いちまったら、きっと、俺の『逃げ場所』が無くなって、俺自身は、何も変われてないってこと―――」
再びこちらを見る。
泣き顔の陽介が、ほんの少しだけ笑顔を浮かべた。
「お前が気付かせてくれたんだ」
途端、スルリと涙が頬を伝った。
「―――ハハ」
両手で目の辺りを擦り、陽介は泣き笑いの表情でまた少しだけ俯く。
「おかしいな、なんだこれ」
朋也はぬかるみを一歩踏み出す。
風が髪をそよがせる。
「チクショ、ヤバい」
腕を伸ばした。
指先がシャツに触れた。
「どうしよ、黒沢、俺―――涙腺、ぶっ壊れたみてー」
その言葉を聞き終わらないうちに、朋也は半ば強引に陽介を抱き寄せていた。
僅かに硬直した温もりが腕の中でおずおずと解けて、肩に湿った感触が滲んでいく。
指先が朋也のシャツの脇の辺りをギュッと握り締めた。
「ばっかやろ」
耳元に聞える、苦笑交じりの鼻声。
「そういうの、女の子に、しろよなぁ」
朋也も陽介の肩に顔をうずめる。
「苦しいんだよチクショー」
改めて、強い力で抱き返された。
河川敷を渡る風は静かに頬を撫で、髪を揺らし、鮫川のせせらぎすら遠く感じるようだった。
今ここに、二人の温もり以外何もない。
凍えた胸に想いを通わせるように、シャツ越しの肌を重ね合わせながら、朋也は陽介が泣き止むまで熱い血潮の生む熱を感じていた。