最近陽介が変だ。

弁当箱二つ持って階段を上りながら、ぼんやり考えていた。

一学期末試験を控えた校内はどこか憂鬱気な雰囲気に包まれている。

ノートを貸して欲しいとクラスメイトに頼まれている間に、陽介は姿を消してしまっていたから、大方屋上だろうとあたりをつけて向かう途中だった。

(いなかったら最悪二つ食うか)

携帯電話には出なかった。

本当にどうしたんだろうと思う。

(七夕の日に川原で殴り合って以来だよな)

―――色々な蟠りを振り切るために、七月七日のあの日、陽介は朋也に『自分を殴ってくれ』と告げたのだった。

何事かと思ったけれど、目が真剣だったから、互いに殴りあうことを提案した。

最初驚き、ためらった陽介は、それでも結局提案を呑んで、その後は然るべく、だ。

陽介の拳には遠慮がなかった。

それは、思いを全て受け止めて欲しいという切実な願いにも感じられた。

だからこちらも相応の覚悟で迎え撃ち、結果、家に帰って菜々子に散々心配された。

陽介も母親に何事かと驚かれたらしい。

いじめかと疑われたとも話していた。

笑っていたけれど、案外深刻な話になりかけていたのかもしれないと、何となく察した。

(あいつはなかなか本音を出さないからな)

屋上の扉のノブに手をかけながら、僅かに溜め息を漏らす。

遠慮している、というのも勿論あるだろう。

けれどそれ以上に、優しい奴だから―――色々気遣った結果、何も言えなくなってしまうんだろう。

困った顔でニコニコ笑っている姿が思い出された。

扉を開くと、四角く切り取った青空が見えた。

コンクリートの床に踏み出した途端、熱気が全身を包む。

もうすぐ8月だから、当然だろう。

日差しに瞳を細くして、周囲を見渡せば、ずっと向こうのフェンスに凭れている人の姿を見つけられた。

近づいていくと、目を閉じて、音楽を聴いている。

「花村」

―――瞳が開いた。

「黒沢?」

驚いた顔。

すぐ、パッとヘッドフォンを外す仕草を見て、朋也は少し笑っていた。

「こんなあっつい場所で何やってるんだ」

「お前こそ、何」

スッと包みを二つ掲げて見せる。

「弁当」

「あ、ああ」

拍子抜けした顔をして、陽介は苦笑いを浮かべる。

「なんだ、俺の事探してくれてたの?」

「うん」

「ハハ、ならもうちょっと教室にいりゃ良かったかな、悪いことしたな」

いい、と応えて朋也は日陰を探して辺りを見回し、歩き始めた。

後から陽介もついてくる。

給水塔の脇。

日差しさえ遮れたら、夏風が心地よい涼を与えてくれる。

座り込んだ傍らに陽介も腰を下ろして、それから少し、体を引いた。

(何だ?)

僅かに浮かびかけた疑問符を打ち消す気安さで「弁当弁当」と急かされる。

「はいはい」

包みの片方を手渡すと、心底嬉しそうに結び目を解いて、取り出した弁当の蓋を開き「おおっ」と歓声を上げていた。

瞳を輝かす陽介を見て、朋也は、やれやれと息を吐く。

「サンキュー黒沢!ンン、んめえー!やっぱお前の弁当うめえわ、俺病み付きになりそう、何でお前女に生まれてこなかったの?」

「何だよ、それ」

「したらさ、俺の嫁さんになってもらったのに!」

「―――お前の嫁選びの着目点は料理が上手いかどうかだけなのか?」

「オカンでもいいな」

「スパルタだぞ」

「うえッ、勘弁!」

弁当を食べながら陽介が笑う。

朋也も箸を動かしつつ、他愛ない会話に興じる。

空は吸い込まれそうなほど青く、雲ひとつない。

今ここにあるのは熱を孕んだ風、虫の声、木の葉のざわめきと、漂う夏の香り。

それと、気の置けない友人。

楽しいな、とぼんやり思う。

都会の学生生活もそれなりに楽しかった。

友人もたくさんいたし、女子と付き合っていたこともあった。

けれどそのどれも、今の楽しさとは根本的に違う気がする。

心の奥のほうから満たされている感覚。

触れ合えぬ部分にまで触れ合って、どこまでも結ばれているような、他人と思えない存在感。

(恋愛以上だな)

伸びてきた箸先を叩き落す前に玉子焼きをひとつ奪われてしまった。

コラ、と睨むと悪びれない笑顔がヘヘへと返してくる。

陽介と出会えてよかった。

つくづくそう感じていた。

(お前も同じ気持ちでいてくれると、嬉しいんだけど)

ふと、音がして、空を見上げると、蒼穹を真一文字に横切って飛行機が飛んでいく。

仄かに残る白い軌跡に、食べるのも忘れてぼんやり見入っていたら、気配がした。

視線を戻すと陽介と目が合った。

途端、体の奥がざわついた。

(何?)

―――強く何かを語りかけてくる眼差し。

僅かな驚きの間に、陽介も驚いた顔をして僅かに仰け反ると、アハハ、とどこか白々しい笑い声を漏らす。

「な、なーに見てたんだ?黒沢、飛行機なんてべっつにめずらしくとも何ともないだろー」

「そ、そうだな」

「お前って時々子供みてえだよな」

そして再び笑う姿に、どこか釈然としないものを感じながら、朋也は腕時計に目を落とした。

もうすぐ昼休みが終わってしまう。

(早く弁当食わないと)

残りを一気にかきこむ合間、既に食べ終わった陽介が弁当箱の蓋を閉じて丁寧に包みなおしていく。

「―――なあ、黒沢」

「ん?」

風が吹いた。

陽介の髪が揺れる。

「お前さあ」

遠い眼差しの横顔。

屋上の向こうに見える景色を眺めているのだろうか。

ふ、と、長い睫が降りて、陽介は首を振った。

「いいや」

何でもない。

「何だよ」と聞き返すと、困った笑顔が返ってきた。

「悪い、ホント何でもねーんだ、気にしないで」

「ふうん?」

「んなことより早く食わねえと、ほれ、昼休みあと5分!」

あ、俺トイレ行っておかなきゃと陽介は突然立ち上がり、短い挨拶だけ残して駆けていく。

もぐもぐと口を動かしながら空の弁当箱を包みなおし、もうひとつの包みも手に取って、朋也も腰を上げた。

ゴミは全て陽介が持っていってくれた。

見上げると、空はやはり透けるように青くて、瞳を眇めた襟足を風が梳る。

「夏、だな」

ポツリと呟く。

脳裏に浮かんでいたのは、様子のおかしい陽介の事ばかりだった。

(戻ろう)

予鈴が響き渡る。

扉を開けば、薄暗い校内の、屋上手前の踊り場にだけほんの少し、夏の気配が漂っていた。