「こ、わいよ」
か細い声が脳裏にこびりついて離れない。
「おにい、ちゃん―――おとう、さん―――」
全身がスウッと凍り付いていく感触。
恐ろしくて、苦しくて、それ以上に―――辛くて。
咄嗟に息が止まりそうになった。
握り締めた小さな手の温もりが、命の気配が、次第に失われていく。
周りで沢山の物音がしたような気がしたけれど、何も聞えないし、解らなかった。
絶えられない現実に五感の全てが閉ざされてしまったかのようだった。
肩を震わせる朋也の耳に「先輩!」と呼びかける声が届いたのはどれくらい経った後だったのだろうか。
―――尋常でない雰囲気を察し、そっと手を戻して、そのまま弾かれるように病室を飛び出した。
りせから、叔父が生田目の病室に向かったのだと告げられた。
(生田目?)
同じ病院に運ばれていたのか?
足立が何か言った。
自分も何か、答えた気がする。
そうして、駆け出したのは果たしてどちらの目的だったのか―――解らない。
走る足元から闇に沈んでいく感触がある。
胸の内で蠢く暗黒。
これまで、存在すら知らなかったような暗い感情。
深淵から覗く瞳を感じていた。
(誰だ)
俺を見ているのは―――誰なんだ。
按じた通りの展開が繰り広げられていた。
暴れる叔父が連れ去られ、次いで忍び込んだ生田目の病室で。
開かれた窓の傍、座り込み震えている生田目を見て。
―――朋也の中の、何かが壊れた。
「窓から逃げる気か」
その後の生田目は必死だった。
笑わなかったけれど、朋也は何だかおかしくて仕方がなかった。
救済は失敗?
法律は俺を殺せない?
(何を言っているんだ、この男は)
「好きにすればいいさ、あの子が死んで、俺を恨んでるんだろう?俺はどっちだっていいんだ、生きるも死ぬも、俺にとっては大差ない」
でもお前らは違う、無理だよなぁ、できないよなぁ、そんな事?
「ククク、俺は“救済”を続けるぞ―――それが俺の使命だからな!」
テレビの中の生田目の姿が、消えた。
「やめてくれだとよ、どうする?」
怯える生田目の命乞いを聞いて、振り返った陽介が吐き捨てるように問いかけてくる。
どうする?
―――どうすればいい?
(どうしてやれば、痛みは消える?)
直斗が生田目の映っていたテレビを指差した。
「病室にこんな大きなテレビがあるなんて思いませんでした、こんな物が置いてあるんじゃ、この男はいつ逃げ出して居なくなっても仕方ない」
もっとも、一度入ったら、自力で出る方法なんて無いかも知れませんけど。
意識がボウッとする。
(菜々子)
可愛いあの子はもういない。
(菜々子)
つぶらな瞳で、愛らしい声で、自分を呼び、無邪気に懐いて、微笑みかけてくれた。
(菜々子)
無垢な駒鳥の鼓動を止めたのは誰だ。
(誰だ、誰だ、誰だ、菜々子を殺したのは、誰だ)
視界がゆっくり歪み始めた。
喉が渇いて、手足の先の感覚がない。
―――こんなにも惨い仕打ちを、俺の心を深くえぐった張本人は誰なんだ。
(許されない、殺される謂れも、罪すらなかった菜々子を)
よくも。
陽介が大声を上げた。
「―――聞いてくれ、やるなら、今しかない」
こんな機会もう二度と巡ってこない。
「このままじゃ、コイツは野放しになる、そしてまた”救済”とやらを繰り返す!」
―――たった今コイツの“本心”が言ってたろ!?
そしたら菜々子ちゃんや先輩みたいに、また無実の人が何人も死んでいくんだ!
「そんなの、俺は見過ごせねぇ―――大切な人殺されて、償わせる事も出来なくて―――それが繰り返されんのまで見過ごせってか?」
「絶対できねえ!しちゃいけねえだろッ!!」
(花村?)
どうしてそんなに興奮しているんだ?
―――俺に同情してくれているわけでも、菜々子の死に心底怒りを覚えているわけでもなさそうだ。
怯えた表情の千枝が何か言う。
答えて陽介は
「ただ“テレビに落とす”―――それだけだ」
それだけで、全部終わる。
(ああ、そうか)
そういうことか。
―――お前もそれで、大切な人を失ったんだったな。
あの子は向こう側に落とされて殺された。
(だったらお前も)
あの世界で死ねよ。
振り返った陽介が了承を求めてくる。
この期に及んで鬱陶しい。
自分で言い出したくせに、調子のいい態度に辟易する。
(そうやって、何でも俺に押し付けて、全部背負わせようとするんだな)
勝手に巻き込んで、おいしいところだけしゃぶりつくして―――後始末は丸投げ。
(いつだってそうだった)
俺の言葉を聞こうとしたことがあるか?
想いを理解しようとした事があるのか?
―――お前は本当に、俺の事を『相棒』と思っていてくれたのか。
(結局、そうだ)
解っていた。
俺にはどこまでいったって、傍観する事しか許されていなかったんだ。
「テレビに落とそう」
(もういいだろう)
―――不条理で煩わしいばかりのこの世界も、現実も、陽介も、何もかも。
(うんざりなんだよ)
多分、今ここにいる誰もがわかっていない。
今の選択肢がどういう意味を持つものなのか。
俺に選択権を預けた事が、どういう結果を招くに至るのか。
(それでも、お前達の勝手で押し付けたもので、また俺を責めるんだろう?)
どこまでも、どこまでも。
傷は増えていくばかり。
癒える事も無く、喩え俺が潰れたとしても、更に圧し掛かってこようとするんだろう?
(だったらいっそ、共に手を取り彼岸まで)
闇の奥から見詰める眼差し。
あれは菜々子じゃない。
けれど大丈夫、向こう側ではきっと菜々子が待っていてくれる。
さあ行きましょう、生田目さん。
優しく呼びかけながら腕を取った。
生田目は青ざめて、口も利けない様子だった。
手を貸そうとして近づいてきた陽介と完二を片手で払いのける。
全部壊れてしまえ。
「お前一人で、背負う事ない」
―――今更。
(どの口がそんな事を言うんだ、この、偽善者め)