とろりとした闇から浮かび上がるように目覚めると、薄ボンヤリした世界が瞳に映る。
数回瞬いて、人の姿を見つけた。
少女だ。
銀の髪、白い肌、閉じた瞼と、縁を飾る長い睫、スッと通った鼻筋、やわらかそうな赤い唇。
(可愛い)
好みだなあ、としみじみ思う。
いい夢だ。
柔らかくて、温かくて、何だかいい匂いがする。
そっと擦り寄ってみると、少女が小さく声を漏らした。
滑らかな素肌の感触が心地良い。
長い髪に指を絡めて、前髪越しの額に唇を押し当てた。
線の細いしなやかな肢体がもぞもぞと動き、上向いた顔の瞳が開かれる。
澄んだブルーの瞳。
優しい鳶色の瞳。
二つの視線は交差し、そして―――
「のああああ!?」
「っつ!?」
朋也と陽介は激しく動揺しながら互いに仰け反った。
一呼吸置いて、漸く現実が追いついてくる。
「く、黒沢―――だよ、な?」
「―――ん」
妖精のように愛くるしい少女は見る間に表情を曇らせると、そのまま陽介の胸元に顔を伏せてしまった。
なまじ見た目が良すぎる分、纏う悲壮感も半端ない。
とりあえず何と声をかけたものか迷いに迷い―――陽介は困り果てた笑顔を浮かべたのだった。
*****
キッチンから軽快な物音が響く。
食器の用意をしながら、ふと目を向けたテレビの天気予報を見て、陽介は「なあ」と肩越しに声をかけた。
「今日から暫く晴れだってさ」
「へえ」
カーテンが柔らかく翻る。
昨夜の雨は日が昇る前に去り、今朝は見事な快晴、目の覚めるような青空から差し込む光がリビングを照らす。
こんがり焼けた食パンをアチアチ言いながらつまみあげる陽介を見て、朋也が何やってるんだと呆れた表情を浮かべていた。
片手にフライ返し、もう片方の手にフライパン、高温の表面で目玉焼きが旨そうな音と匂いを立てている。
皿に置いたパンの上に半熟の目玉焼きを乗せて、その上にチーズとハムを重ねると、食べやすいように真ん中で切り分ける。
とろりと零れ出した黄身に歓声を上げた陽介に、コップとミルクの準備が命じられた。
いそいそと冷蔵庫に向かう姿を見送りながら、朋也は長い髪を背中に払いのける。
―――夜が明けても状況は何一つ変わらなかった。
もしかしたら、明日になれば、そんな希望は悉く打ち砕かれて、相変わらずの体のままだ。
悪化していないだけマシと思いたいけれど、そこまで楽天的でもいられない。
(これ以上悪くなったら―――頭に動物の耳でも生えてくるのかな)
ボリューム満点の胸元を見下ろしながら溜息を吐いた。
着られるものが何も無いから、今朝もやむを得ず陽介のTシャツとトランクス姿だ。
我ながら、かなりマニアックな格好だよなとつくづく思う。
時折チラチラとこちらを見る陽介がどうやら楽しんでいるようで、微妙に気分が悪い。
苛々を振り払うように、菜々子と叔父はどうしているだろうかと考えてみた。
(叔父さんは仕事だろうな、あの人の休みって見た事が無い、でも、そうしたら、菜々子が1人で寂しい想いをしていないといいんだけど)
銀の髪がサラリと落ちた。
俯いていた肩をポンと叩かれる。
「どーした?」
振り返ると、背後にコップと牛乳パックを持った陽介が立っていた。
「別に」
「そっか」
そっけない態度を気にもせず、なら食おうぜ、と明るい声が促した。
「腹減ってるから、ンな辛気臭い顔になるんだよ、食えば元気も出てくるって」
「花村は能天気でいいよな」
「なんだと!」
―――つい八つ当たりの様な態度を取ってしまうのは、やはり甘えているんだろうか?
朋也は肩を竦めながらインスタントコーヒーの準備をした。
むくれている陽介を宥めて、席に着くと、朝食の準備の整ったテーブルを挟み、向かい合って「いただきます」と挨拶を交わす。
大口を開いてガブリとパンに喰らいついた陽介を見て思わず笑ってしまった。
「行儀が悪い、急がなくても、誰も取ったりしないよ」
「んなひんぱひひてねーよ、ンム、んッ、うう、相変わらず美味いなあ」
「ありがと」
「ヘヘ」
嬉しそうに笑う、人懐っこい陽介の笑顔が好きだ。
朋也は仄かに眇めた瞳を、ふと外の光に向ける。
「―――今朝、晴れたな」
「ん?ああ、そーだな」
「約束の時間まであと1時間くらい」
「おう、黒沢、ケチャップ取って」
「とりあえず寝坊は免れたけれど」
ケチャップを手渡して座りなおす朋也は、シャツの胸元をつまみあげた。
直後にごふ、と妙な音がして、顔を上げると陽介が盛大に咽こんでいた。
慌てて食べるからだと呆れる朋也に違うと抗議して、お門違いの恨めしげな眼が向けられる。
「だってオマエッ、急に胸なんか摘むから!」
「は?胸なんか摘んでないだろう、シャツだ」
「いっしょだっつの!刺激強すぎんだよ、もーッ、朝から!」
この程度で何を今更、大体朝関係あるのかと、溜息を吐きつつ席を立ち、キッチンからグラスに水を汲んで陽介の元に戻った。
与えられた水を必死に飲み干す背中をひとしきり擦ってやる。
どうにか一呼吸吐いて、陽介は顔を上げると、悪い、と苦笑いで朋也を見上げた。
「はあ、死ぬかと思った、サンキューな」
「大げさ」
「元はといえばお前が悪いんだぞ?」
何で俺が。
眉間を寄せた朋也が口を開く前に、腰にスルリと腕が回されて、驚く間もなく強引に引き寄せられながら陽介が遠慮なく胸に顔を押し付けてきた。
「んーッ」
グリグリと左右に振るようにして顔をこすり付けられて、朋也の体がビクンと跳ねる。
「やッ」
華奢な両腕が慌てて陽介の頭を抱え込んだ。
やめろ、と強く抗議するけれど、陽介は離れようとしない。
「なにするんだ、馬鹿ッ」
「いやあ、目の前に、おいしそーなおっぱいがふたっつありましたので」
「や、ヤダッ、やめろ!」
「つい引き寄せられちゃってさあ、エヘへ」
「だからって顔をこすり付けるな、アッ、やめろ!いい加減に―――ンンッ」
「はぁ、気持ちいい」
「アッ、アン!」
「ん、エッチな声が聞こえるぞ?これはまさかひょっとして―――」
「このッ」
がつん。
鉄拳制裁に撃沈されたお調子者はテーブルの上に突っ伏す。
怒りも露に姿を睨み付けた朋也は乱暴な足取りで席に戻り、ドスンと腰掛けて食事の続きをガツガツ食べ始めた。
ややして、そろそろと顔を上げた陽介が、宅に顎を乗せたまま小さく朋也を呼んだ。
「ゴメン」
「―――変態」
「うッ!そりゃねーよ相棒ぅ」
「知らない」
「うう―――女の子になっても腕力とか全然変わってないみたいッスね」
朝ののどかな空気に、家の横を通る幹線道路から響く車両音がかすかに混ざり聞える。
「で?」
復活を遂げた陽介がトーストを齧りながら尋ねてきた。
視線で訊き返す朋也に、さっきの続き、と続ける。
「寝坊しなかったけどって、そんで?」
「なんだ、一応聞いてたんだな」
「ったりめーだろー?」
憤慨しつつも何だか偉そうな態度でコーヒーを啜っている。
朋也はミルクで口の中のものを流し込んで、うん、と返した。
「そうなんだ、その、時間的には間に合うと思うんだけどさ」
「はあ、そーだよな、昨日してる最中に寝ちゃうんだもんなあ、お前、俺も寝ざるを得なかったっつーか」
「うるさい、お陰でちゃんと起きられたんだろ」
「まあそうですけどね、寝てるお前とエッチしてもあんま楽しくなかったし、イッてもウザそうにされたし」
「したのか?」
「一回だけ」
氷点下の視線を向ける朋也に陽介はグッと黙り込む。
「―――とにかく、時間は問題なさそうなんだけど」
これが、と、再びシャツの胸元をつまみあげた。
「外に出られる服が無い」
「あ」
陽介もポンと手を打った。
「そうだった、お前、その格好じゃ外出とかまさか無理だよな」
「うん」
「そもそも俺が嫌だ、今のエロいお前を他の奴になんか見せたくない」
「それはともかく、俺もこんなだらしない格好で外なんか出たくない」
「相棒!」
「仕方ないから、お母さんの服、借りられないかな」
陽介は暫く黙り込んで、でもよう、と呟く。
「自分の母親の胸とか言いたくないけどさ、お前より大分サイズ小さめよ?」
「さらしでも巻いてサイズダウンさせる」
「そのボリュームをか?かなり苦しいと思うけど」
「やるしかないだろ、花村、包帯あるか?」
「あると思う、飯食ったらすぐ用意するよ、ついでに母さんの服も持ってくる」
「悪いな」
「いいって」
しかし―――と、内心陽介は考えていた。
(母親の留守中に服なんか漁って、バレたらコレ家族会議もんだわ)
何か言い訳を考えておかねば。
(朋也のためだし、仕方ないよな、俺が一肌脱ぐしかない)
花村?と呼びかけられる。
「ん?」
「もし、お母さんに洋服のこと聞かれたら、女子の誰か、そうだな、天城あたりに口裏合わせてもらって、近所で泥水ぶっ掛けられてドロドロになったから貸してやったとでも言っておけ、俺から天城に頼んでおくから」
「―――お前ってそういうトコホント抜け目ナイのネ」
不思議そうに首をかしげた朋也に、陽介は苦笑いしてからコーヒーを口に運んだ。
「怖い怖い、迂闊に浮気はできないなあ」
「何言ってるんだ、浮気も何も、俺相手にそういうの成立しないだろ」
「ちょっと、俺はお前の彼氏のつもりなの!ったく、いい加減認めてくれよ、いつまでもつれないんだから」
七夕の日に河原で陽介から告白されて、もう何度も体を重ねているのに、朋也の中ではいまだに陽介に対する感情の位置づけがはっきりしていない。
もしかしてその事を暗に非難されたのかと、拗ねた表情のままパンを齧る姿をこっそり窺ってみたけれど、特別他意は感じられなかった。
悪いとは勿論思っている。
けれど、男の恋人なんて初めてだし、それ以前に2人の関係の根拠となっているものが愛情なのか行き過ぎた友情から生じた勘違いなのかよく判らないから、持て余し気味の感情に多少食傷気味だ。
(でも、俺なりに、お前の事は大事に思っているんだけどな)
―――だからあんな些細な言葉いつまでも気にしているんだ。
煮え切らない自分と比べて花村は何て肝が据わっているんだろうと時々感心させられる。
(ただ単純なだけなのか、それともモラルに欠けてるのか)
わからないけど、と、見つめた陽介と目が合った。
きょとんとしている赤い顔の、口の端に指を伸ばす。
「ついてるぞ」
ケチャップを拭い取って、行儀が悪い、と呟いてからぺろりと舐めた。
朋也は早く朝食を終えてしまおうと、グラスに残るミルクを一気に飲み干した。