あの日の夜も雨が降っていた。

滴り落ちる水音、荒い呼吸、重なり合う熱。

触れ合って、ためらいながら受け入れて、やがて歓喜と共に溶け合って―――そうやって幾夜も共に過ごしてきた。

繋いだ想いをどこか性急に深め合い、結ばれた日は常に淡い困惑を伴って、そして。

 

あの言葉が甦ってくる。

 

多分、陽介にしてみれば他愛ない一言。

そしてかつての朋也であれば一笑に付していただろう言葉。

―――けれど以前とはもう違う。

事実に気付いて愕然とした。

こんなにも、と。

(性質の悪い冗談)

孤独の掌が掴んだ光は思っていた以上の影響力で知らぬ間に心と体を蝕んでいた。

今更戻れない、無かったことになどできない、以前のようには振舞えない。

(苦しい)

苦しくて、瞳からあふれ出した熱い雫が零れ落ちる。

(いっそ求めなければ)

春の日差しのように甘い温もりを知らずにいれば。

 

官能的な花の香りが漂う。

耳元で、女の声が囁いた。

 

*****

ハッと目を開き、そのまま固まる。

薄明かりの屋内。

覗きこむ姿。

「―――朋也?」

声を聞いて、朋也は、少しずつ緊張を解いていった。

そっと頬に触れられて「大丈夫か?」と尋ねられる。

「随分うなされてたみたいだけど」

「俺、が?」

「すっげ苦しそうだった、怖い夢でも見た?」

「ん」

呟きながら瞳を伏せた朋也に、陽介が唇を重ねてくる。

甘い感触の後、見上げた先の優しい眼差しが、指先でサラリと梳るように髪を撫でた。

「顔色悪いな」

「そう?」

「今日、行くの止めとくか?」

馬鹿言うな。

陽介を押し退けて、朋也はゆっくりと起き上がる。

ベッドサイドに乗り上げていた陽介は、そのまま心配そうに朋也を見詰めていた。

「朋也」

「今何時だ?」

時間を聞きながらベッドから降りる。

そのまま近づいた窓辺の、カーテンを開くともうすっかり朝だ。

振り返った風景の陽介がまだ気懸かりの顔をしていたので、小さく深呼吸をして、朋也はフワリと笑って見せた。

「さ、今日こそは、元の姿に戻ってやるぞ」

 

*****

『先輩格好いい!』

りせの声援に後押しされるようにして剣を振りかざす。

切り裂かれたシャドウは黒い霧の様なものに姿を変えて消滅する。

(あと一体!)

伝う汗を拭いながら振り返った。

劇場フロア10、派手なネオンに照らされた台座の上に座るヴェールの女が黒い顔をこちらに向ける。

「はああああッ」

飛び上がり、一息に斬り付けた。

そのままペルソナ召喚し、朋也の背後に現れた茨の棘に覆われた女が氷の吐息でとどめを刺す。

片足のつま先がトン、と地上に降りた瞬間、辺りの景色が滲みながらゆっくり元の通路に戻っていった。

「凄いじゃんリーダー!」

駆け寄ってきた千枝に、朋也は軽く片手を上げて笑い返す。

「でも、良かった」

「何?」

「昨日あんな事あったからさ、ホント言うとちょっと心配してたんだ、でも、要らなかったね?」

「いや、有難う」

「え、え、いいよ!そんなの、君が元気ならさッ」

千枝は嬉しそうに笑っていた。

剣の露を払い、刃の具合を確かめる朋也の背後から、ねえ、と呼びかける声が近付いてくる。

「黒沢君?」

振り返ると、困惑気味の表情を浮かべた雪子がじっと見詰めていた。

何、と首を傾げるようにして問い返すと、黒い瞳が仄かに眇められる。

「今日、どうかした?」

「え」

雪子は軽く溜息を漏らす。

「黒沢君、いつもと様子が違うように見えたから」

「どうして?」

「それは、わからないけれど」

何だか余裕無いみたい。

言われて朋也は黙り込んでしまった。

―――余裕がないのは当然だ。

この姿になって既に三日。

『もう』三日も経ってしまった、『まだ』三日などと悠長な事はそろそろ言っていられない。

叔父に不在の許しを得てはいるけれど、余り長く家を空ければ流石に連れ戻しに来られてしまうだろうし、要保護者の年齢である以上逃げ回るのも限界がある。

このまま、何の進展も得られず、また元の姿に戻る事が叶わなければ、いずれ事実をありのままに伝える必要に迫られるだろう。

(こんな状態、何て説明したらいい?)

ただ女になりました、だけでは済まない現実が待ち構えている恐怖は、誰にもわかるまい。

雪子の指摘は今更だ。

(早く、一日も早く、元の姿に戻らないと―――)

 

途端、胸にズキンと刺すような痛みが走る。

 

咄嗟に胸を押さえて顔を顰めた朋也に、雪子が驚いた様子で大丈夫と声をかけてくる。

平気、と答えながら胸の辺りをぎゅうと握り締めた。

(何だ、これ)

吐き気すら催すほどの悪寒。

目の前がぶれて、意識が飛んでしまいそうになる。

(何なんだ、これは)

―――花の香りが漂っている。

足元がぐらりと傾いだ。

りせの声が聞こえたような気がして、いけない、と思いつつも重力に抗えずそのまま倒れかけた体を―――不意に伸ばされた腕が抱きとめてくれた。

背後から引き上げられるような格好で、両脇に差し込まれた腕にグイと寄せられる。

「あ!」

驚いたような千枝の声。

正面で雪子も、目をパチパチと瞬いている。

のろのろと伺った傍らにメガネをかけた心配顔の陽介の姿があった。

弾みで気が紛れたからだろうか、いつの間にか痛みは治まっていた。

「りせちー」

『あ、は、はい!』

「悪い、今日はもう探索終了、帰りのナビよろしく」

『了解』

「は、花村ッ」

睨みつける朋也をレンズ越しの瞳が静かに見下ろしている。

「今日はもう引き上げだ、黒沢」

「―――何、勝手なこと言っている」

「お前ちょっと突っ走り過ぎなんだよ」

「だからって!」

気持ちは分かるけどさ。

陽介は小さく溜息を漏らす。

「無理して何かあったらそれこそ意味無いだろ?お前が女になってから、もう三日も朝から晩までテレビの中に潜りっぱなしなんだ、いい加減疲れも溜まってきてる」

「俺は!」

「お前一人で走り回ってるわけじゃないだろ」

ハッとして、そのまま朋也は黙り込んでしまった。

―――確かにその通りだ。

(俺は、自分のことばっかりで)

「リーダー失格だな」

項垂れる姿に、何か言おうとした千枝を雪子が引き止める。

「悪い」

陽介に抱きかかえられたまま、千枝と雪子をゆっくりと見渡す。

「すまない、皆、今日はもう引き上げよう」

「でも」

「千枝」

雪子が再び千枝の言葉の先を止めた。

「―――連日の探索で疲れていると思う、今日は各自ゆっくり休んで、また明日以降に備えて欲しい」

『先輩』

「よし!」

僅かに沈みかけた空気の中、陽介がわざとらしいほどの明るい声で大きく頷く。

「リーダーも納得してくれたみたいだし、正直俺もヘトヘト、まあ、明日になれば新展開があっかもしんねーしさ、今日はもう解散解散!また明日に備えようぜ、だろ?リーダー」

「―――ああ」

朋也も苦笑いで頷き返した。

千枝と雪子も顔を見合わせて、クスッと微笑み合ってから、千枝が急に「よおっし!」と両腕を振り上げる。

「それじゃあ、肉!肉!元気があれば何でもできるッ、元気を出すにはお肉が一番!気合の源肉丼1丁!」

「そりゃお前だけだろ」

「なによ花村、あんた肉丼の力を馬鹿にするつもり?」

「なんだそりゃ!?」

呆れ顔の陽介からつんとそっぽを向いて、千枝は朋也に視線を向ける。

「ね、黒沢君も!分厚いサーロインでも食べて元気だしなよ、花村の奢りでさッ」

「コラッ、里中テメー、何勝手言ってやがる!」

傍らでクスクス笑う雪子の声に混ざって、ナビボイスの向こうで笑っているりせの気配も伝わってくる。

朋也は「わかった」と千枝に頷き返した。

お前も合わせなくていいっつーの!と耳元で唸る陽介。

朋也は少女たちと一緒に、同じ様な音調の可愛らしい声で笑った。

(有難う、気を遣ってくれて)

仲間たちの優しい思いが嬉しい。

仄温かな気持ちにニコニコしていると、前触れなく千枝の指先が朋也の胸の辺りに向けられた。

「で」

「へ?」

声から察するに、陽介もきょとんとしているのだろう。

ニコニコ笑いが一転、何だか引き攣ったような口元で千枝は言う。

「ところで花村―――さっきから気になってるんだけど、その腕はどういうつもりなのかなー?」

(腕?)

朋也の肩口から、同じ様に陽介も視線を下に向けていた。

朋也の両脇を通って胸の下で両手を組み合わせる格好の、陽介の腕。

豊満な乳房をこれでもかと強調するかのように持ち上げている。

丁度子供がぬいぐるみを抱いているような格好だ。

けれど、朋也は特に苦しくも無く、陽介が重みに耐えかねている様子もない。

千枝が、いったい何を言わんとしているのか、二人には全くわからない。

再び見上げると、千枝は呆れ顔で「アンタねえ」と呻いていた。

「女子の目の前でセクハラ働くたぁ、大した根性じゃない」

「うぇ!?」

背後から上げられる陽介の声。

朋也も少し驚いていた。

(そうか、こういう状況はセクハラになるのか)

もっとも朋也もたとえ仲間内だとしても、女子相手にこういう体制を取り続ける事はできないだろう。

咄嗟には良くても、その後継続させる事は許されない。

(胸、触ってるし)

けれど千枝達はどうも朋也が元々男だった事実を忘れかけている気がする。

「そりゃ、確かに黒沢君、あのままじゃ倒れてたかもしれないけどさ」

いきなり抱きしめるってどうなの?

千枝は続ける。

「しかもアンタ、その体勢って何よ?」

「い、いや、だからこれは、そのっ」

「ドスケベッ、サイテーッ」

「ケダモノ!」

『花村先輩やらしィー』

「ちょ、ちょっと待った!」

焦った陽介が身じろぎするたび腕の上で朋也の乳房がたぷたぷと揺れる。

今更ながら見事な胸だよな、と、朋也は人事の様な気分で眺めていた。

千枝からいい加減離せと詰め寄られて、けれど「嫌だ」と陽介は後退りしながら抗議する。

「んな事したらコイツ倒れちゃうだろ!」

―――それは多分大丈夫だと思うけど。

ぬいぐるみのようにおとなしく抱かれたままになりながら、朋也はどちらでもいい、と考えていた。

何か含むところのありそうな表情で雪子はただクスクスと笑っている。

りせの笑い声も微かに聞えていた。

結局、必死の言い訳を真に受けたのは、問題を指摘した当人のみであるようだった。

誰からも突っ込みを喰らわずに済んで、陽介はホッとしたらしい。

改めて朋也を持ち上げながら、大丈夫か、と尋ねてきた。

「歩ける?」

「歩き辛い」

「あそっか、んじゃどうしよう、えーと」

結局、協議の末、朋也は陽介に負ぶわれるという形で相互に納得が持てた。

歩かずに済んでよかったかもしれない、と、背負われた背中に圧し掛かりながら思う。

代理で千枝が先陣を務め、真ん中に朋也を背負った陽介を挟み、しんがりを雪子が守る。

陽介の背中は温かい。

「花村」

「あん?」

「妙な気起こしたら、その場でアタシがアンタの事仕留めるからね」

「ハイハイ、つか仕留めるってお前」

「せめて苦しまないように、一撃で終わらせてあげる」

「ちょ、天城まで!」

『せーんぱい、悪さしちゃダメですよー?』

「りせちー!?」

『みなさーん、とりあえず完二をそっちに向かわせたから、極力戦闘は避けてくださいね』

「りょーかい!」

不満げに口を尖らせている陽介の横顔を見て、朋也は微かに笑う。

『ねえ、先輩』

りせの声が聞こえて、何、と小さく聞き返した。

『本当はシャドウ潰しながら戻りたいだろうけど―――』

「いいよ、平気」

『うん』

「ありがとう」

相棒と呼びかけてくる声。

陽介が横目で見ている。

「りせちーと話してんの?」

「ああ、そうか」

再びりせから『ゴメンね』と、今度はイタズラっぽく聞えた。

どうやら朋也にだけ話しかけていたらしい。

「何の話してたのかしんねーけどさ」

陽介が足を踏み出すたび、体が僅かにユッサユサと揺れる。

こうして負ぶわれていると、小さい頃を思い出すようで、少し気恥ずかしくて、何だかくすぐったい。

「明日っからまた、お前のために頑張ってやるよ、俺ら全員そのつもりだから」

なーんも、心配いらないって。

前を向きながらそう告げて、横顔で笑った陽介に、朋也もうん、と答える。

前を行く千枝が少し振り向いて、ニコリと微笑みかけてくれた。

後ろで雪子も同じ様にしていてくれるのだろう。

(有難う、皆)

朋也は陽介の背中に顔を伏せ、そのまま目を閉じた。

揺れる暗闇と温かな鼓動が束の間の安らぎをもたらしてくれる様だった。